三年次二学期

第160話 アイスコーヒー論

 夏休みのある日の一幕。


「アイスコーヒーを淹れましょうか」


 部屋に戻ると乙姫がそんなことを言うので、僕はお言葉に甘えることにした。


「ん、よろしく。……ああ、これ使って」


 最近購入したタンブラーを食器棚から取り出すと、乙姫はうさんくさいUFO写真を目にしたかのごとく顔をしかめる。


「なんですかこの銀色の入れ物は」

「真空保温式タンブラーだよ」

「それは知っています。保温性に優れた容器なんですよね」

「はっは、そいつはただ知識として知っているだけの言い方だね。どれくらい優れものかというと、中に入れた氷がひと晩経っても残っている。それくらいのレベルで保温してくれる代物なんだ」


 もちろん冷たい飲み物だけではない。ホットドリンクだってかなりの長時間、高温をキープしてくれる。夏場は麦茶がずっと冷たく、冬場はコーヒーがずっと温かいのだ。感動的な入れ物である。


 しかし乙姫の反応は薄く、この温度差がちょっと心につらい。


「これにアイスコーヒーを入れろというのですか」

「さらにこのタンブラーの優れている点は、結露しないところなんだ」

「グラスが汗をかかない、ということですね」

「詩的に表現するなら」

「そうですか」


 乙姫はタンブラーをそっと食器棚に戻した。


「ちょ、え、なんで戻すの」

「こんな容器にアイスコーヒーを入れるわけにはいきません」

「どうして。銀色が嫌い?」

「そうですね、確かに器の色も気に入りません。アイスコーヒーとは透明なグラスにふち取られた漆黒。それが見えない時点でアイスコーヒーの魅力は半減してしまいます」

「容赦ないね。減少幅大きすぎない?」

「同様にビジュアル面での問題として、グラスの表面を滑り落ちる水滴が見られないこともまた大きな減点です。マイナス20ポイントですね」

「満点のコーヒーですらタンブラーに入れたら30点になるのか」


 繭墨査定半端ないな。


「加えて、氷です」

「アイスコーヒーだからもちろん必要だね」

「溶けた氷が奏でるカランという涼やかな音色もまた、アイスコーヒーの醍醐味です。しかしその音を響かせるためにはやはりグラスが必須。タンブラーの中で溶けた氷は、くぐもった音を立てます。二重構造ゆえの致命的欠陥です。聞いたことがありますか? 1年間調律をしていないピアノのような、あの品のない音を」


 そう言われてもさっぱりわからない。

 喩えがセレブすぎる。ピアノを持っている者のセリフだった。


 乙姫は食器棚から透明なグラスを取り出した。グラスの中ほどまで氷を入れると、その上に粉を入れたドリッパーを置いて、熱湯を注いでいく。抽出したての熱いコーヒーが氷を溶かし、カラン、と透き通るような音を立てる。確かに、この音色には趣がある。それは認めざるを得ない。


「はい、お待たせしました」

「ありがとう」


 と礼を言って淹れたてのアイスコーヒーを受け取る。グラスにはさっそく水滴がついていたが、乙姫に言わせればそれも趣きなのだろう。僕はタンブラーを使い始めてから用済みになっていたコースターを久しぶりに持ち出して、テーブルが水浸しになるのを防ぐ。


 商店街の洋菓子店で買ってきたケーキを並べて待っていると、やがて乙姫が湯気の立つコーヒーカップを手にやってきた。


「あれ、アイスじゃないの?」

「わたし、アイスコーヒーは好きじゃないんです」

「あんなに長々と語ったくせに!」

「アイスコーヒーは本質的に力を抜いた飲み物ですから」

「ちょっと意味がわからないんだけど」


 乙姫は僕の隣に腰を下ろすと、アイスコーヒーのグラスの縁を指でなぞった。


「アイスコーヒーでは、熱湯で抽出したコーヒーを一気に冷却するために、氷を大量に用います。つまり、薄まることが最初から定められている飲み物という意味です」


「でも、それを見越して濃いめに淹れるんじゃないの?」

「そうだとしても、淹れたての濃度のままではいられないという、ある種の儚さを背負っていることに変わりはありません」


「土の中で七年間耐えたのに地上へ出たらたった七日間で死んでしまうセミを憐れむみたいな言い方だけど、それなら水出しコーヒーという手があるんじゃないの?」


 数秒ほどの沈黙があった。

 乙姫がふと窓の外に視線を向けたので、僕もつられて外を見た。


「どうしたの」

「ちょっと遠くの方で、雷が、……落ちたように、もぐ……、見えたので」

「え、どのあたり?」

「雲の中だったかも、……しれません、あくまでも見えたような、もぐ……、気がしただけです」

「夏の天気は変わりやすいからね」


 そう結論づけて視線を戻すと、僕のぶんのケーキが皿から消えていた。


「やはりホットコーヒーの方がケーキによく合いますね。これは間違いなくホットの利点です。アイスよりもホット。これが真理です」


 そして得意げに笑う乙姫の口元には、ケーキのスポンジがくっついている。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「――ということがあったんだけど」

「そいつを聞かされた俺はどういう反応をすればいいんだろうな」


 2学期が始まって数日が過ぎた、ある日の休み時間。

 夏休み中にあったエピソードを相談がてら話してみたら、赤木は舌打ちをして、人指し指の爪で机をトントンと神経質そうに叩き始める。


「夏休みに自分の部屋で、彼女と二人っきりでイチャついていた、甘ったるい思い出を、独り身の俺に聞かせて、もだえ苦しむのを見て楽しむつもりなのか? おう? ……ああ、そういやナメクジは塩じゃなく砂糖でも縮むんだよな。そういうことか、ずいぶん遠回しな嫌がらせをするようになったなお前も……」


 赤木は濁った瞳をこちらに向けながらネガティブなことを言っている。


「ちょっとどうしたの、いくらなんでも被害妄想が過ぎる」

「へっ、この場に鋭く尖ったものが落ちてなくてよかったな。……おっと、あるじゃねえか、ちょうどいい得物がよぉ」


 赤木は筆箱からボールペンを取り出して逆手に持つと、ナイフを舐め回す切り裂き魔のごとく舌なめずりをする。僕はいつまでこの小芝居に付き合わなければならないのだろうか。


「恋人との別れは済ませたか? 神様にお祈りは? 机の下に隠れてガタガタ震えながら命乞いする準備はOK?」


 無慈悲な刃が僕の脳天に振り下ろされる――ことにはならなかった。


「ダメー!」


 その前に、突然現れた百代が赤木の腕に飛びついたからだ。赤木の腕が変な方向に曲がる。


「痛だだだいたい痛い折れる折れる外れるかも」

「あっ、ごめん……」


 百代が手を離すと、赤木は机の上にうつ伏せになる。


「俺が何をしたっていうんだ……」

「キョウ君をザクリとやろうとしたじゃない」

「演技に決まってるだろ」

「そうだったんだ、迫真ハクシンだったからつい止めに入っちゃった。殺気とか出てたよたぶん」


 百代は物騒なことを言いながら笑っている。だが実際、赤木の眼光は危険なギラつきを放っていた。僕も一瞬、殺られると感じたくらいだ。


「で、どうしてこんなことになってるの?」

「阿山のやつが彼女とのイチャコラを自慢するんです」

「してないって」


 僕は否定するが、2人は取り合ってくれない。


「あー、じゃあ無自覚なやつだね」

「そうそれ」

「いちばん腹立たしいやつだよね」

「ほんとそれ」

「それでぇ、キョウ君はヒメとどんな甘ったるいことをしてたの?」


 百代の表情が変わった。目をすっと細めて口元を上げる、獲物を見つけた肉食動物のような笑みだ。僕は悲しい。百代はこんな顔をする女の子じゃなかったはずなのに。これは二人掛かりでイジられる流れだろうか。


「イチャコラとか甘々とか、そういうんじゃなくて、ただ乙姫がね、アイスコーヒーは力を抜いた飲み物だって言ってたことを思い出したんだよ」


「何それ」


 と百代は首をかしげる。確かにそれだけ聞いても意味がわからないだろう。遠回しになるが最初から説明をする。


三年一組うちの出し物は写真展示に決まったけど」

「実質は休憩所みたいなもんだな」

「だよねぇ、進学組が多いし」

「でも、何か出し物をやりたいってメンバーは、他のクラスからも希望者を集めてチームを作ってる」


 百代や赤木もその有志チームに参加していた。僕はしていない。そして、


「……あ、もしかしてそゆこと?」

「そゆこと」と僕。

「どゆこと?」と赤木。

「つまりね、ヒメってば進学組なのに有志チームに加わったでしょ、キョウ君はそれが寂しいのよ」

「ちょっとやめて言葉にしないで」

「いや、だから、どゆこと?」


 説明がピンと来てないらしい赤木は再び首をかしげる。

 百代はやれやれと肩をすくめて、


「キョウ君はね、ヒメが力を抜いた飲み物だって言ったアイスコーヒーと、文化祭に参加しない自分のことを、重ねちゃってるんだよ」


 百代の言うとおりだった。乙姫のこととなると察しが鋭い。




 ――2学期最初のホームルームでのことだ。

 文化祭の出し物が決まったあと、乙姫がさびしそうにぽつりとつぶやいた。


「何か、本格的な出し物がやりたかったですね」

「仕方ないよ、進学組が多いんだから」


 ありきたりな答えを返した僕は、最初ハナから参加するつもりはなかった。受験勉強でそれどころではなかったからだ。


 現在の第一志望はなかなかハイレベルで、夏休み中からかなりの時間を勉強に費やしていた。2学期からはさらに力を入れなければならない。文化祭の準備段階から参加するほどの余裕はないのだ。


 乙姫は結局、3年による有志連合チームに参加すると決めてしまった。

 彼女の成績なら、文化祭で多少時間が削られたとしても、合格は盤石だろう。


 乙姫はああ見えてイベントごとには積極的なのだ。しかし、高校の文化祭は彼女にとって必ずしも楽しいものではなかったのではないか。


 去年は生徒会の業務に追われてクラスの出し物にはほぼ参加していない。1年のころはたぶん友達がほとんどいない時期だったから、クラス内でもわれ関せずの立ち位置だったと思われる。

 そんな乙姫にとって、今回の文化祭は出し物に参加できる最後のチャンスなのだ。

 しかし、僕はそれに付き合えない。その余裕がない。



「がんばって、応援してるよ」

 乙姫の決断に、僕は物分かりのいい言葉で応じた。


「ありがとうございます」

 乙姫は、鏡一朗さんも一緒にやりましょう、とは言ってくれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る