第157話 自主規制
八月初旬、僕たちは車上の人になっていた。お盆などで混雑する時期を避けて、実家へ帰省するためだ。ガタン、ゴトン、ガタン、という規則的な列車の音を聞いていると、僕の意識は生まれ育ったあの田舎の家へといざなわれる。
思い返せば去年の夏休みはむちゃくちゃだった。
乙姫と百代が実家に押しかけて来たところから始まり、乙姫がアパートへ不法侵入してきたり、百代の告白への返事をしたり、乙姫との半同棲のような数日間、乙姫のご両親との対面、乙姫とともに校長室への呼び出し……、言葉にして並べるだけでも、あまりにも目まぐるしいひと月半だった。
それに比べると、今年の夏休みは平穏なものだ。
ひたすら受験勉強に没頭していて、ほとんど出歩いていないからだろう。夏祭り以降、乙姫からの連絡がぱったり途絶えていたせいかもしれないが。
4両編成の鈍行列車の、硬いソファのボックス席。冷房の効いた車内から、流れゆく景色を眺めていた僕は、ふと、対面の席に視線を向けた。
「……なんですか」
文庫本をめくっていた乙姫が、こちらの視線に気づいて顔を上げた。
「いや……、別に」
「そうですか」
短く答えた乙姫は、なぜか読書を再開することなく、じっとこちらを見つめてくる。恋人に向ける熱っぽい視線などでは断じてない。こちらの内心を探るような鋭さと、責めるような重さを合わせ持った、氷塊めいた視線である。これ以上の冷気は勘弁な、と窓の外を向いたものの、ボックス席に満ちる圧力はどんどん増していくばかり。そして僕は圧力にあっさり屈する男だ。
「乙姫、怒ってる?」
「いいえ? わたしは年がら年じゅうこんな顔です。愛想のない女ですよ。感情を表に出すことは控えてきたつもりです」
それとも、と乙姫の目が細められる。
「鏡一朗さんは何か、わたしを怒らせるようなことをしたのですか? 自覚があるんですか?」
自覚というか、乙姫の怒りの原因に心当たりはあった。
夏祭りの夜に彼女を部屋へ上げなかったことだろう。あの日を境にして連絡が途絶えていたので、それ以外に思いつかない。
乙姫が
彼女の期待を裏切った、つまりは恥をかかせたわけだ。
それを謝ったところで、乙姫は素直に認めるだろうか。何言ってるんですか、気のせいでしょう。内心の自由は外に出した時点でアウトですよ。人生ゲームセットには早すぎますよ。とかなんとか、屁理屈と罵倒を並べ立てて誤魔化されそうだ。
というわけで、あの夜のことはスルーして、僕はこれからの話を始める。
「世の中のあらゆるものには制限がかけられている」
乙姫の緊張がわずかにゆるんだ。まるで関係のない話題に訝しみつつも、一応、話には乗ってくれるらしい。
「ローンの借り入れ限度額や、道路の制限速度などですね」
「ああ。制限と、それを破ったときのペナルティがないと、人はどうしてもやりすぎてしまう」
「自分がルールを守ることで、ルールが自分を守ってくれている、という事実に気づいていない人は多いですよね」
「……ルールに頼らず自制できている乙姫なら、わかってくれると思うんだけど」
「ずるい前置きですね」
そう言われるとひるんでしまうが、今後のために避けて通れない話だ。僕は息を吸い込み、意を決して乙姫を見据える。
「僕たちは付き合っていて、僕の部屋という人の目を気にしないでいい場所があって、夏休みってことで自由に使える時間もある。それは、いわゆる無制限な状態だと思うんだよ」
言い含めるようにゆっくりと話していく。
夏祭りの夜に乙姫を部屋へ上げなかったのは、歯止めが利かなくなることを恐れたからだ。これが高二の夏休みならまだいい。だけど、今は高三で、しかも、身の丈に合わない志望校を狙っているのだ。乙姫の隣に立ち続けるために、今こそ自制が必要だった。
「だから、ひとまず、夏休みの間くらいは、自主規制というか、その……、わかるよね?」
問いかけるよりも早く、乙姫は話の途中から察していたらしい。
一を聞いて十を知る聡明な彼女は、こちらの言いたいことをしっかり理解したうえで、不自然に窓の外を向いていた。横顔は耳元から首筋まで赤くなっている。
「屈辱です」
ぽつりとつぶやく。
「盛りのついた男子高校生に、自制について説かれるなんて……、これではわたしの方が……、あれが、強いみたいじゃないですか」
「あれって? 性欲?」
「優位と見ればさっそく言葉責めですか」
「これしきのことで責められていると感じるなんて、乙姫らしくもない」
「わたしだって、自分の浅はかさを恥じることくらいあります」
乙姫は窓の外を向いたまま、か細い声で答える。素直で弱々しいレアな状態の乙姫だった。これはけっこう本気でショックを受けているらしい。
実はこの〝自主規制〟は自分で考えたものではない。
長谷川さんに忠告を受けたのだ。
『少し下世話なことを言うけれど、……
大人の意見をさも自分の発想のように語って、乙姫をやり込めていることを、フェアではないと感じてしまう。
「ま、まあ、さすがにひたすら勉強漬けだと持たないし、メリハリはつけるよ。せっかくの夏休みだし、行きたい場所もあるし」
フォローを入れると乙姫は笑顔になってこちらを向いて、
「そうですね、一度、海にも行きたかったですし」
「え? あ、いや、オープンキャンパス……」
乙姫はまた窓の外を向いた。
「……一人だけはしゃいでしまって、申し訳ないです」
「いや、そうか、うん、海か、いいよね海! 夏といえば海だよ」
「気を遣わなくてもいいんですよ」
乙姫は窓ガラスを指先でなぞりながら、ほう、とため息をつく。
「長期的視野に立って真面目に勉学のことを考えている彼氏をよそに、短絡的な遊興の計画に浮かれる彼女……、まるで旦那の稼ぎをパチンコで溶かす引きこもり妻ですね。本当にごめんなさい……」
うーん、冗談かと思ったけど割と本気で落ち込んでるっぽい。
「いや、彼女と一緒に海へ行くっていう、夏であれば当たり前の発想が浮かばなかった僕にも非はあると思うし」
「それは彼女の水着姿に興味を惹かれないからでは?」
うーん、乙姫のマジ落ち込みは本当に厄介だな……、ちょっと鬱陶しくなってきたぞ……。
「いやいや、むちゃくちゃ興味あるよ」
「本当に?」
「もちろん。ああ、でもほかの男にあまり乙姫の水着姿を見せたくないかな」
「そういうことを言う人、本当にいたんですね……」
乙姫は逃げるように身をよじって、冷めた言葉と冷たい視線を向けてくる。
「ちょっと、ここでその反応?」
裏切られた気分だったが、乙姫の方はいくらか落ち着いた様子で、普段どおりのすまし顔に戻っていた。僕を翻弄することで心の平静を保てるのなら、いくらでももてあそぶがいいさ、と開き直る。
乙姫がサディストであることは疑いようのない事実だ。彼女の攻撃対象は肉体ではなく精神で、主に言葉によってその攻撃は行われる。それを受け止めている僕は決してマゾヒストではない。乙姫の鋭い言葉にえぐられて喜びを感じることはない。本当だ。ただ、乙姫の攻撃がよそへ向かうくらいなら、こちらへ向けてほしいという気持ちはある。
「なんだかうれしそうですね……」
乙姫は見えるはずのないモノを見てしまったかのような困惑の表情でメガネの位置を整える。
「僕はただ落ち着いているだけだよ。空や海や、大地のように……」
ガタン、ゴトン、ガタン、という規則的な列車の音を聞きながら、窓の外へと目を向ける。密度を増していく山の深緑に、近づいてくる故郷を思う。駅に着くまでの間、乙姫はなぜか、ずっと気づかわしげな顔で何かをつぶやいていた。
「勉強のしすぎでしょうか……? あるいは熱中症? それともまさか、禁欲の反動が……」
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