三年次夏季休暇

第155話 最後の夏休み


 中間・期末と二つの定期テストが終わり、生徒会役員選挙も滞りなく片づき、生徒総会も特に波乱なく終了した。


 そうやって行事がひとつずつ終わるごとに、卒業に向かっているのだということを強く意識させられる。高校3年生という時期には、常にセンチメンタルがつきまとっている。


 そして最後の夏休み、僕はまた一つ、この街とのつながりに始末をつける。


「今まで、どうもお世話になりました」


 深々と頭を下げる相手は、バイト先の上司である長谷川さんだ。受験勉強に専念するため、今日限りで退職することになっていた。


 このバイトでは多くのことを経験させてもらった。社会勉強だとか収入源ということもあるが、それ以上に、長谷川さんには色々とお世話になった。


 導くだとか教育するだとか、そんな大げさなものじゃない。話を聞いて、ちょっとしたアドバイスをしてくれる――ただそれだけのことが、悩みの渦中にある者にとってどれだけ助けになるか。そして、そんな気遣いを実行するために、部下のコンディションにどれだけ気を配っているのか。そのさりげなさが凡庸でないことは、少し考えればわかることだ。


 大人イコールご立派な人間とは限らないことくらい、子供でも知っている。人は歳を重ねただけで成長するわけではないのだ。それでも、長谷川さんは間違いなく、尊敬できる大人だった。


「大学受験か、実に懐かしいなぁ。この先、大学生活が待っている君がうらやましいよ」


 長谷川さんは腕を組んで遠い目をする。


「大学ってそんなに面白いところなんですか?」


「本人次第、というのはなんにでも当てはまることだがね、大学という場所はとにかく自由だ。バイトに明け暮れて単位を落として留年したやつもいたし、研究に没頭して院に進んだやつもいたし、留学先で結婚したやつもいた。みんな道筋も方法もバラバラだが、楽しんでいたやつに共通していたのは、目的を持っていたこと、かな」


「目的というと……、勉強とか就職とか」


「サークル活動でも何でもいいんだ、君も、恋人と一緒にいたい、という動機の他にも、自分だけの目的を見つけた方が、きっと実り多い大学生活になると思うよ。……っと、嫌味っぽいことを言ってしまったかな」


「いえ……、気をつけます」


 僕はゆっくりうなずいた。乙姫と一緒にいることだけを動機にするのは、依存に近いことだという自覚はあったから。


「目標が高いと受験勉強も大変だろうけど、頑張って。キツいことを乗り越えた経験は、その後の人生の土台になるからね」


「若いころの苦労は買ってでもしろ、ってやつですか」


「確かに、苦労は大事だ。その経験が多いほど、〝乗り越えられる苦労〟のハードルが上がることは間違いない。ただし、この先、その言葉を使う大人がいたら、簡単に鵜呑みにしてはいけないよ。単に面倒ごとを押し付けようとしているだけかもしれないからね」


 とはいえ、上司の言葉なら業務命令だから、とりあえず従わないといけないんだけどね、と長谷川さんは苦笑いを浮かべる。それから、小さく首を振って、


「……ううん、どうもいけない。大人は若者に自分の後悔を語って押し付けようとする悪い癖がある。私もその例に洩れなかったらしい。話半分くらいで聞いておいてほしい」


 僕もつられて、苦笑しつつうなずく。


「……はい、覚えておきます」

「ああ、それと最後にもうひとつ……」


 長谷川さんは少し迷うようなそぶりを見せて、最後のアドバイスを口にした。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 商店街の入り口ではすでに乙姫が待機していた。近所の神社で夏祭りが開かれるので、そこへ向かうための待ち合わせをしていたのだ。


 黒地の浴衣に白地の帯、赤地の巾着をワンポイントに、足元はもちろん下駄履きという、完全なる夏祭りスタイルの乙姫は、道行く人々――特に男性からの注目をひっきりなしに集めていた。


 浴衣姿は去年の夏祭りでも見ているし、修学旅行では着物を着た彼女と京都の町を歩いている。それでも和装の乙姫への免疫はできなかったらしい。彼女の姿を目の当たりにした僕は、ポカンと口を開けて棒立ちになってしまう。


 ところが乙姫の方は、なぜか眉をひそめてメガネを持ち上げる。不機嫌を露骨にアピールする表情だ。


「どうしたの」


 待ち合わせの時間には遅れていないはずだ。


「鏡一朗さんの手抜きの服装に呆れていただけです」


 言われて僕は自らの装いを見下ろす。ジーンズにTシャツ、スニーカーというシンプルな格好だ。しかし、女子と違って男子の服なんてこんなものだろう。


「夏場に着飾る余地なんてほとんどないと思うんだけど」

「……二人並ぶと、わたしだけが浮かれているように見えます」

「つまり?」

「衣装チェンジを要求します」


 乙姫は親指と人差し指でV字を作り、それをくるりと回転させる。


 そして、商店街の衣料品店に飛び込み、男性用の和装を見繕われる。甚平と草履もどきのスリッパをセットで購入する羽目になった。


 店から出てきた僕を見て、乙姫は首をかしげる。


「あまり似合いませんね」

「ひどい」

「大丈夫ですよ。夏祭りシーズンにワラワラと湧き出てくる和装男子って、だいたい似合っていませんから」


 当代一の和装女子にそんなフォローをされてもまるで慰めにならない。神社へ向かう人の流れに乗って、並んで歩きながら、僕たちはやり取りを続ける。


「野武士みたいな粗野な格好ならいいの?」

「身だしなみができていない人はちょっと……」

「どうすれば和装が似合う男になれるんだろう」

「気にしないでください。2人で格好を合わせることに意味があるんですから」


 乙姫は一歩距離を詰めて、こちらを見上げてくる。結わえた黒髪と、黒地の浴衣の間からのぞく、真っ白なうなじに目が釘付けになる。これを狙ったコーディネイトだな、と確信する。


「どうしたの、今日はやたらグイグイ来るね」

「強引な女の子は嫌いですか?」


 首をかしげてしなを作る。媚を売るようなしぐさもまた乙姫らしくない。


「裏で手を回して逃げ道が塞がれて、いつの間にか断崖絶壁へ誘導されている、っていうのが今までの手口だったのに、今日はずいぶんと言動がド直球だから、その落差に驚いてるだけだよ」


 正直に答えると、乙姫は目を細めてジトッとした視線を向けてくる。実にらしい・・・視線に安心してしまう。


「ずいぶんな評価ですね……、ええ、自覚はありますよ。だから、今までと違うことをしてみたくなったんです。まどろっこしい手口が空振りに終わってしまったら、寂しいですし。後悔はしたくありません」


 と乙姫は言った。こちらをうろたえさせる強引な態度から一転して、夏の終わりの線香花火のような、儚いつぶやきだった。


「その気持ち、直路のインタビューと関係ある?」

「はい、多少は」


 乙姫はうなずく。


 夏の甲子園の地方大会決勝は、去年と同じ対戦カードとなった。しかし、結果は真逆。鳴高校野球部は、残念ながら2年連続での甲子園出場を逃していた。


 去年よりはレベルアップしているとはいえ、伯鳴高校は決して野球の名門というわけではない。対する相手校は、野球留学で県外から来ている生徒もいるような名門で、チーム力の差は歴然だった。前回はそれでも少ないチャンスをものにしたウチが勝利したが、相手は今回、格下の伯鳴に対して一切、手を抜かなかった。


 直路は最終回まで一人で投げ切ったが、相手は3投手の継投だった。最後はスタミナが切れた失投を打たれて、サヨナラ負けを喫したのだ。


 チームメイトが守備位置に倒れ込んだり、膝をついて涙を流すなか、直路はみんなに声をかけて一人一人立ち上がらせていた。僕たちはその姿を外野席から見ていた。


 試合が終わった後、やはり注目選手である直路には取材が殺到した。そこで、底意地の悪い質問を投げかけてくる記者がいた。


 曰く――最後の一球に後悔はありませんか?


 敗北した選手の悔しさを思い起こさせて、涙を誘うような質問に対して、しかし直路はマイペースを崩さなかった。


『いや、最後の一球だけ後悔するってのは、それまでの積み重ねを否定することなんで。むしろ最後の一球よりは最初の一球ですかね。内と外、高め低め、もうちょっと布石を打つようなピッチングができていたらよかったんすけど、後半バテてきても、配球でかわせたはずなんで――』


 そう返された記者は、想定していた答えとあまりに違っていたせいか、直路の言葉が理解できなかったのだろう。うろたえる記者を尻目に、直路はやたら冷静に配球論を説明していくという、質問と回答の噛み合わない、どこか滑稽なやり取りだった。


「生中継ではたまにありますが、あれはとびきりでしたね。記者の不勉強さや不誠実さ、軽率さが浮き彫りになって、実に痛快なインタビューでした」


 乙姫は楽しげに笑うが、僕の意識は他所へ行っている。後悔。長谷川さんもその単語を口にしていた。毎日が練習漬けで、これ以上ないくらい準備を整えていた直路にも、やはり後悔はあったという。


 後悔のない選択。そんなものが本当にあるのだろうか。

 黙考する僕の腕に、乙姫が腕を絡める。


「それに、直球の方が鏡一朗さんはうろたえますよね」

「ううろたえてなんかないよ」

「そうですか」


 乙姫はさらに僕の腕を抱えるようにして寄り添ってくる。


「どうですか?」


 またしてもド直球。夏祭りの雰囲気にあてられたのか、テンションが高い。


「これしきのこと」

「……やわらかさが足りませんか?」


 上目遣いというより睨み上げるような視線だった。言葉も平坦で、演技ではなく本気で気にしていることがわかる。


「ないものねだりはしない」

「ないもの!?」


 乙姫が珍しく大きな声を上げ、周りの人たちの視線が集まる。


「……そうですか、やっぱり身体しか見ていないんですね」

「ちょ、やめて!?」


 乙姫の問題発言によって、こちらに向けられる視線に敵意めいたものが込められる。特に女性から。「最低」「女の敵」「可哀想、弱みを握られてるのかしら」などとささやく声が聞こえてきてつらい。違うんです、と誤解を解くべく周囲を見回しても、女性たちの軽蔑の視線とぶつかってすぐにくじけそうになる。


 こちらが焦っているのを見て満足したのか、乙姫は口元を三日月のように釣り上げ、腕をほどいて距離を取った。


「それじゃあ、行きましょうか」


 しっちゃかめっちゃかにかき回されて、結局、彼女のペースになる。

 僕がいろいろ考えすぎているのを察して、今はお祭りを楽しむときですよと、言外に注意してくれたのだろうか。


 ノイズ交じりの祭囃子が、喧騒にまぎれて聞こえてくる。

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