第153話 わたしたちの将来について

 バスに乗って伯鳴駅まで戻ると、そこで解散となった。


 赤木は重いキャンプ道具を肩に担いでよたよたと帰途につく。

 百代も徒歩だが赤木とは逆方向だ。

 明君は自宅の方面へ向かうバスに乗り込んだ。


 乙姫は義弟と同じバスには乗らなかった。

 今は僕の部屋の台所に立って、手際よく料理を進めている。


 乱切りにした野菜と肉を、底の深い鍋に放り込んだ。サラダ油でしばらく炒めると、水を入れて強火で煮込む。煮立ってきたらアクを取り、吹きこぼれない程度の弱火に調整する。具材がやわらかくなると、いったん火を止めて固形調味料を投入し、かき混ぜて溶かしていく。つまりカレーを作っていた。


「焼肉の材料が余っていましたから。カレーなら材料は同じでも全く別ジャンルの料理なので、残り物を処理させられている感じはしないでしょう」


 乙姫はマイエプロンを着用した胸を張る。


「食べ物を無駄にしないのはいいことだよ。限りある資源を大切に」

「エコロジストを気取るつもりはありません。損をしているようで嫌なだけです」

「もったいない、の精神ってやつ?」

「あのような〝いい話〟は、メディアで大々的に紹介されると、却って胡散くさく感じてしまいます」

「わかる。クールジャパンとか大概だよね」

「羞恥プレイとしてはレベルが高いと思いますよ」


 乙姫は口元を上げながら鍋をゆっくりとかき混ぜている。

 手料理を作ってくれている恋人の横顔を眺める、なんて幸せな時間だろう。音量を絞ったテレビを見つつも、気持ちは完全に乙姫の方を向いていた。


「ひとつ聞きたいんだけど、その中身って全部キャンプの余りものなんだよね」

「はい。綺麗に使い切ることができました」

「肉ってまさか臓物……」

「モツ煮込みという料理もありますし、問題ないでしょう」

「おお……」

「不思議な食感が楽しめますよ、たぶん」


 たぶんて。


「初挑戦なのか……」

「わ、わたしの初めてを受け取ってください」

「水着グラビアの見出しみたいなこと言って」

「よくご覧になるんですか」


 あれ?

 乙姫の声の冷ややかさにおののいてしまう。


 ユーモアあふれる切り返しを決めたつもりが、どうやら墓穴を掘ったらしい。


「一般論だよ、ほら、ああいうのって妙な連想をさせる言い回しの煽り文句を」

「水着グラビア玄人の一般論はちょっと……」


 たいへん遺憾ながら誤解は解けなかった。やがてカレーが完成すると、皿によそって持ってきてくれたが、僕の分には具が入ってなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 その後、自分で具材をよそったモツ煮込みカレーは、想像していたような恐ろしい代物ではなかった。臭みやエグみは特になく、味自体はほぼほぼカレー。違いを感じたのは主に食感だ。コリコリとした歯ごたえの何かがアクセントになっていて、意外と悪くはなかった。


 皿を空にすると、コーヒーを入れてひと休み、それから僕が洗い物を片付ける、といういつもの流れを経て、僕と乙姫はテーブルに座って向かい合う。


「では本題に入りましょうか」

「うん」

「……その、わたしたちの将来について」


 乙姫は何か決定的なことを話し始めるとき、いつも相手の目を見て話す。その例にもれず、今回も彼女ははっきりと真正面からこちらを見つめていた。


「もっとも、ネックはこちらの進路ですが。……わたしは県外の大学を志望しています。鏡一朗さんは、第一志望は伯鳴大ですよね」


 近場にある国立大学の名を出す乙姫に、僕は無言でうなずきを返す。


「つまり、このまま交際を続ける場合、卒業後は遠距離になってしまいます」

「そう、だね」


 乙姫は視線を下にむけ、1秒ほどの沈黙。

 顔を上げて再び目を合わせる。


「わたしは、離れたくはありません。距離は遠くなっても気持ちはひとつ、なんてただの綺麗ごとです。わたしにとって恋愛というのは、互いの声が届く距離で、手の届く範囲でおこなうものです。そういうものだと、思い知りました。こうして向き合って話をする時間を、失いたくない。


 ですが、志望校を変えるつもりもなくて……、だから、その、鏡一朗さんが可能であれば同じ大学か、あるいは距離の近い大学へ、志望校を変更できないでしょうか。


 あまりに厚かましいお願いだということはわかっています。鏡一朗さんの勉学への負担だけではなく、ご家族にも金銭的負担を強いる話ですから」


 いつものような余裕のある語り口ではなかった。誤解を与えないように、ゆっくりと、一つ一つの言葉を両手でしっかり包み込んで、間違いがないことを確認してから送り出すような、丁寧で、慎重な物言いだった。


「……仮に、僕が県外へは行かないと言ったら?」

「そのときは、わたしもここに残ります」


 即答だった。それはつまり、乙姫にとっての最優先は、僕と一緒にいることだという宣言に他ならない。その言葉だけで十分だった。


「実は、僕の方からも報告があって」

「……はい」


 乙姫はメガネの位置を整えつつ姿勢を正す。


「借金があるんだよね」

「借金、ですか?」


 乙姫の声がかすかに跳ねた。それはそうだろう。志望校の話をしているときに、借金の話をし始めるんだから。奨学金とは違うその言葉は、脈絡を欠いている。


「単純計算で12×4×6としても、288万。諸経費を合わせたらもっと増えるだろうけど」

「それは、何の……」

「この前ちょっと実家へ帰ってて、進学についての話をしたんだ。大学の学費を出してくれるのは、ありがたいことに確定で。次は県内か県外かって話になって」


 乙姫は無言でうなずく。


「それまで県内志望だったのが急に県外へ行くって言いだすから、もちろん理由を聞かれて……、自分を試したいとか希望する学部があるとか、それっぽい理由で誤魔化すのが嫌で、正直に答えたんだよ。恋人と離れたくないからだって」


 乙姫の表情は神妙なまま。

 僕は話を続ける。


「そしたら、父さんが電卓を叩いて見せられたのが、さっき言った大金。4年間の一人暮らしに最低限必要な家賃。その上で、お前は自分の色恋のためにこの金を親に出させるのか、って言われて」


「言われて?」


「大学を出たら返すから無担保無利子で貸してください、って」

「豪語……、というにはいささか弱腰ですね」


 乙姫はかすかに口元を上げる。


「なまじバイトしてる分、金額の重さがリアルに感じられたんだよ」


 乙姫の表情が、微笑から苦笑へ変わる。


「打ち明けてくれたことは、信用されているようでうれしいのですが……」

「ですが?」

「鏡一朗さんらしくありません。わたしの知っているあなたなら、この手の話は格好をつけて黙っているはず。違和感があります」


 乙姫は首をかしげる。おっしゃるとおり、これは本来なら黙って墓まで持っていかなきゃならない話だ。


「ああ……、それも父さんの言いつけなんだ」

「お父さまの、ですか?」

「この話は相手にも伝えなさい、それで離れていくようなら、その程度の関係だったということだ。別れるのは早い方がいい、ってさ」

「なるほど、わたしは試されているわけですね」

「僕たちがね」

「はい。……その話ですが、少しなら減額できると思いますよ」


 乙姫はニコリといたずらっぽい笑みを浮かべる。


「誰の弱みを握るの」

「その誤解については後でゆっくり話し合いましょう」


 乙姫の視線が一瞬だけ鋭くなった。


「……例えば、ひとり暮らしを想定して5万円台の家賃なのかもしれませんが、もう1・2万円ほど追加すれば、同居人を迎えるに十分な物件を借りられるでしょう。そうすれば、家賃を折半して、出費を抑えられるのではありませんか?」


「それって」

「嫌ですか?」


 顔をかたむけ問うてくる乙姫に、僕は小さく首を振る。


「ちょっと不甲斐ないなと思っただけ」

「借金の話だけで十分ですよ。それに、無駄は嫌いだと言いました」


 きっぱりと断言されて、それ以上の弱音を封じられる。


「……正直、実家で暮らしてるときは、父さんがここまで厳格なことを言う人だと思わなかったな」


「距離が遠いと、子供の行動を把握することは難しいですし、何かあったとき親としての責任を取るのが遅くなることもあるでしょう。

 だからこそ、鏡一朗さん自身に、ひとり暮らしをするに足る責任感を求めているのだと思いますよ。厳格でけっこう、理想的な父親像じゃないですか。ヘラヘラしているわたしの父とは大違いです」


 実の父への不満からか、乙姫は眉を落としてため息をつく。

 が、すぐに顔を上げて、


「その提案も兼ねて、一度、そちらのお父さまにお会いしておきたいですね」

「なんかもう完全に立場が逆なんですが……」


 娘さんを僕にください、なんて言うまでもなく、乙姫の父親の秋浩さんは、ほぼ手放しで僕たちの交際を認めている。だから、説明をして納得してもらう必要があるのは、むしろ僕の父親の方だという、奇妙な逆転現象が起こっていた。


「夏休みでかまいませんか?」

「うん。……まさか3回も実家へ来てもらうことになるとは」

「わたしはあの家の雰囲気、好きですよ」


 乙姫は立ち上がってテーブルを回り込み、すぐ隣に腰を下ろした。

 そして床に置いていた僕の手に、自分の手を重ねてくる。

 思わぬ行動に肩が震えた。


「……そう?」

「鏡一朗さんは、嫌いなんですか?」

「自分の家とか家族を声高に好きだっていう男子は、あまりいないんじゃないかな。……乙姫こそ、どうなの。まだギクシャクしてるの?」


 乙姫の手がわずかに握られる。返事の声は硬い。


「……そう、ですね。まだ、やっぱり、相手に合わせている感じは強いです。わたしも、あちらも」


「そういうのってさ、たぶん、時間が解決する類の問題なんじゃないかな」


 僕は乙姫の手を握り返す。


「慣れていくというか馴染んでいくというか……、少しずつ、相手のパターンとか癖を知っていって、こちらのことも知ってもらう。ニュース番組はこの局のしか見ないだとか、ドレッシングはコールスローが好きだとか、風呂には早めに入りたい派だとか、そういう細かいことを、ちょっとずつ積み重ねて、赤の他人から家族になっていくんだと思うよ」


「鏡一朗さんも、そうだったんですか?」


 そう問われて自らを省みる。義理の姉に好意を抱いて、その禁忌から逃れるために家を出た僕は、お世辞にもいい長男であったとは言いがたい。


「……まあ、そんな感じ。僕は途中でちょっと逃げ出しちゃったところも――ん」


 自嘲の言葉をさえぎるように、乙姫の顔が近づいてきて唇が重なった。少し長く、深い口づけだった。


「……カレーの味がします」

「しかもモツ煮込みの」


 笑い合って、もう一度、今度はこちらからキスをする。

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