第150話 カテゴリに囚われない

 新年度が始まってからというもの、僕と乙姫の間には、お互いをうかがい合うような、ぎこちない空気が漂っていた。険悪というわけではない。しかし、今までのような遠慮のなさが失われてしまっていたのだ。


 今日はそのモヤモヤを晴らすチャンスである。

 今まででいちばん待ち遠しかったゴールデンウイークが、ようやくやってきた。


 僕たちは伯鳴市内からバスに揺られること30分ほどの、山間部にある河原へとやってきていた。地図に載っているようなキャンプ場ではないので、ほかの人間は皆無。僕たち5人だけの貸し切り状態だった。


 谷間を渡る風は市内のそれとは違ってやや肌寒い。皆もそれを想定して――というか乙姫のあらかじめの警告によって――上着を羽織ったり中にもう一枚着こんだりと、春先仕様の服装だった。


 川辺から数メートルのところで、赤木がテキパキと動いている。

 折り畳み式のチェアやテーブルを広げ、転がっている石を動かして火おこしのための下地を整えたりと、初心者とは思えない手並みである。


 それもそのはず、赤木はゴールデンウイークの前半にもここを訪れていた。道具の使い方や焚き火の準備などは予習済みなのだ。


「ここは俺に任せろ」


 このセリフを吐きたいがための、涙ぐましい努力である。


 乙姫に要求されたキャンプ計画書は受理されるまでに書き直すこと3回、数日前の予習のときには火の粉が飛んで一張羅に穴が開き、ネット通販で購入した中古の折り畳みチェアは不良品だった。


 それらの苦難を乗り越えて、赤木航はここに立っている。すべては、気になるあの子に良いところを見せるために。


 その必死な姿は、多くの人の目には滑稽に映るかもしれない。剥き出しの下心に、眉をひそめる者もいるかもしれない。


 だが、そんな外野の声に耳を貸す必要はない。動き出さなければ始まらない。手を伸ばそうとしない者は何も掴めやしないのだ。

 無様でもいいからとにかく前へ、倒れるときは前のめりに――そんな心意気すら感じる赤木の熱意は嫌いじゃない。ぜひ結実してほしいと思う。


 ただ、誤算があるとすれば、良いところを見せたい相手、すなわち百代が大自然の方に興味津々なことだ。川縁のあたりをうろついては立ち止まり、空を見上げて指をさす。


「おーっ、青い鳥がいる! ねえ見た? トンボを空中でキャッチしたよ!」

「オオルリっすね」

「おおるり?」

「ルリってのは瑠璃色……、深い青色のことです」

「あー、確かに、そんな色だねぇ」

「青色、好きなんですか」

「嫌いじゃないけど、もっと明るい色の方が好きかなぁ」


「おい阿山……」


 赤木が涙ぐんだ目でこちらを見ていた。


「どうしたの、煙が目に染みた? まだ火はついてないはずだけど」

「百代の隣にいる、あの小僧は何者だ」

「ああ、明君のこと? 繭墨の弟だよ」


 義理の、ということは一応伏せて説明する。

 赤木は荷物の整理をしている乙姫をちらと見やって、


「……普通、弟をこういう場に連れてくるか? 知り合いもいないのに」

「あ、僕は一応、会ったことがあるけど。あとは百代も、ちょくちょく乙姫の家へ遊びに行ってるから、たぶん僕よりも会う機会が多いんじゃないかな」


「そうか」赤木の声が重く沈む。「俺はいま不安で仕方がない。あの小僧はまさか……」

「百代狙いだよ」

「やはりか!」


 赤木が天を仰いで絶叫した。小鳥の鳴き声と羽ばたきの音が聞こえた。


「ちょっと赤木君うっさい! 小鳥たちが逃げちゃったでしょ!」

「さーせん!」


 赤木は投げやりに叫ぶと、百代に背を向けて、僕の肩に腕を回してくる。


「あの小僧は百代が誘ったのか」

「いや……、たぶん繭墨だと思うよ」

「なんで」

「姉として、義弟の恋路を応援したいんじゃないの」

「マジかよ、繭墨がバックについてるんじゃ、勝てっこねえよ……」


 顔を引きつらせる赤木に、僕は小さく首を振る。


「大丈夫、セコンドにできるのは応援だけだよ、実際に戦うのはあくまでも本人なんだから」

「でもよ、繭墨の応援って、がんばれって声をかけるような生ぬるいのじゃなくて、レフェリーを買収するレベルだろ」


 そのとおりなので反論ができなかった。


 それに、乙姫が明君を応援しているのは、新しい家族との良好な関係のためという打算だけが目的ではない。明君と百代がくっつけば、ゆくゆくは百代が義妹になるという、どこまで本気なのかわからない未来予想図を描いているからなのだ。ブレーキ5回でお義姉さんのサイン。


 ……仕方ない、じゃあ赤木のセコンドには僕が入るしかなさそうだ。微力ながらフォローに努めよう。


「百代ー」


 赤木の腕を振り払ってから、屋外なので少し声を張って呼びかけると、百代はすぐに来てくれた。


「どしたの?」

「準備ができたから、火をつけるための木の枝を集めてきてよ」

「ん、わかった。どれくらい?」

「さあ……、僕もアウトドアは門外漢だから。どれくらい?」


 と赤木に話を振ると、すぐに僕の狙いを理解したようで、


「じゃあ俺がついていこうか。落ちてるのをただ集めりゃいいってもんじゃない。枝にもいい枝だと悪い枝があるからな」

「よろしくね」


 露骨なセッティングだと思うし、たぶん百代もこちらの意図を察しただろう。それでも特に嫌がる様子もなく、赤木と一緒に林の方へと向かっていった。


 川縁に視線を移すと、明君が不服そうな顔で百代たちを見送っていた。僕と目が合うと、すぐに素っ気ない顔に戻り、ちょっと上流の方見てきますんで、と歩いていった。さすがにあそこへ割って入るほどの強引さはないらしい。


 野鳥の名前を言い当てたりするあたり、明君は明君で、それなりに準備をしていたのだろう。身体を動かすのではなく知識で勝負しようとするところは、僕と方向性が似ているなと思う。


「そう来ましたか」


 背後から乙姫の声がした。


 河原の不安定な足元にもかかわらず、乙姫はすぅっと音もなく近づいてきた。アウトドアなので当たり前ではあるが、今日の彼女はズボンを履いている。スカート履きではない乙姫の私服はめずらしいので、無意識のうちに視線が足のラインへと行ってしまう。それをどうにか上へ戻して、


「明君には乙姫がついてるんだから、これくらいやらないとフェアじゃない」


「わたしにできるのは、明を誘うところまでです。あとはあの子次第ですよ。……もっとも、鏡一朗さんが手を出すというのなら、その限りではありませんが」


「物騒なことを言うね」

「こういうノリ、久しぶりです」

「確かに」


 笑顔の乙姫にこちらも同意する。こういうノリというのは、いわゆる対決姿勢のことだ。去年の今ごろは殴り合いめいた口論もしていたのに、めっきり僕らも丸くなってしまった。


「というか、アウトドアなんていう、リア充感あふれる娯楽に手を染めることになるとは思わなかった」

「鏡一朗さんって、川の中州でバーベキューをしている集団を見かけたら、増水して取り残されろとか考えるタイプですものね」


 物騒かつ陰湿、まるでテロリストの思考である。仮にも彼氏に向ける言葉じゃないよと閉口してしまうが、当たらずとも遠からずなところがまたなんとも。


「乙姫だって似たようなものじゃないか」


 軽く反撃すると、乙姫は五月の晴天にふさわしい、晴れやかな笑顔を浮かべた。


「わたしは確かに、ところかまわず騒ぎ立てる人たちは嫌いですが、彼らと比べて人生の充実度で劣っていると感じたことはありませんよ」


「人生の充実度」


 と僕は繰り返す。乙姫が口にする〝人生〟という単語には、ほかの誰からも感じられない独特の響きがあった。


「はい。わたしはたぶん独りでいることを優先したい人間で、それはこれから先も変わらないと思います。ですが、今日のように一緒に出かけることを楽しく思える友達もできました。ぼっちだとかリア充だとか、そういったカテゴリには囚われていませんから」


 カテゴリに囚われない自由、とやらを表現してか、乙姫はその場で両腕を広げる。


「……じゃあ、恋人っていうカテゴリは?」


 口に出してから、僕は何を言っているんだと恥ずかしさが遅れてやってくる。せめて鋭利な言葉で罵倒してくれたらいいのに、乙姫の方も腕を広げたまま固まってしまい、僕らは青空の下で見つめ合っている。


 一歩踏み出そうとしたら靴の裏が砂利をこする音がして、それに現実に引き戻されたみたいに、乙姫は目を丸くして回れ右をする。


「……あとで、話したいことがあります」

「今は駄目な話?」

「はい。出歯亀がいますから」


 乙姫は林の方に目を向けた。なんだろうとその視線を辿ると、1本の木立に行きつく。その左右から赤木と百代が顔をのぞかせていた。

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