第149話 相手に負担を強いるほどの価値が自分にあるのか
下校途中に母――といっても元母の方です――へ電話をかけると、近くにいることがわかり、少し時間を取ってもらうことができました。
面会場所は行きつけの喫茶店『キャトル・マン』です。クラシック音楽が静かに流れる店内で、母はすでに4人掛けのテーブルに座っていました。わたしはカウンターに立つ店員さんにブレンドコーヒーを注文して、母の向かいに腰かけます。
「急にどうしたの乙姫。聞きたいことって」
「お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの?」
率直に尋ねると、母は口元へ運んでいたお冷やのグラスを停止させて、テーブルの上へ戻しました。
「そんな質問をするなんて、あなた、まさか避妊しなかったの?」
「……ちゃんとしたわよ」
「避妊が必要な行為に及んだことは認めるのね」
迂闊でした。あまりに前置きのない一足飛びな質問であったせいか、こちらもうっかり、余計なことを口走ってしまいました。
「ひ、飛躍しすぎよ。わたしは結婚の理由を聞いただけで」
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
母はわたしの言い訳をさえぎると、ふたたびグラスを持ち上げてひと口飲んで、
「そうね……、正直に言ってしまうと、あなたを身ごもったからよ」
「そうでなければ、結婚するつもりはなかったの?」
「今のあなたとそう変わらない歳だったし、はっきり言って、結婚の
「わたしを産んだこと、後悔してないの?」
恐るおそる尋ねると、母は怪訝そうに目を細めます。
「どうしたの乙姫、あなた本当に変よ」
「そんなこと」
「あります。子供の前で、産んだことを後悔しているだなんて、そんな格好悪いことを私が言うわけないでしょう」
わかり切ったことを聞くな、とばかりの断言。
人として、親として当たり前の分別を説くのではなく、自らの美学に従ってそんなことは決してしないという、あくまでも自分本位の主張。常識よりも自分の価値観に従う、とても母らしい言葉でした。
「悩みがあるなら、聞いてあげるわよ」
母はニヤリと口元を上げると、テーブルに両肘をついて手を組み、その上に顔を乗せます。
「……例えば、わたしが県外に進学すると言ったら、鏡一朗さんはきっと、わたしと同じか、近い立地の大学を選ぶと思うの」
「きょういちろうさん?」
「あっ、ええと、阿山君のことよ、下の名前……」
「そう」
「わたしの選択が、相手の進路を左右したり、諸々の負担を増やしてしまうと考えると……、それが本当に正しいのかどうか、不安になるの」
「じゃあ、あなたが鏡一朗さんに合わせる?」
「きっと、こちらが気を遣ったことがバレてしまうわ」
母の名前呼びには無反応を貫きます。
「だったら、遠距離という手も――ナシみたいね」
「どうして決めつけるのよ」
「顔を見ればわかるわ」
「そんなこと」
手のひらで頬をなぞってみても、母の言う「見ればわかる顔」についてはよくわかりませんでした。
「……乙姫」
母が組んでいた指をほどき、テーブルから肘をおろして姿勢を正します。
「あなたが不安なのは、相手へ負担をかけてしまうこと、ではないわね」
「……じゃあ、何が」
「相手に負担を強いるほどの価値が自分にあるのか」
母の口調は平坦でしたが、その言葉はどんな諌言よりもわたしの心に刺さりました。まっすぐ見据える瞳に射抜かれ、返事ができません。
指摘されて初めてそうだと気づく、自らの心のうち。それに無自覚だったことに羞恥を感じて視線がさまよいます。行きついた先は薬指の指輪でした。
「男に貢がせるには向かない性格ね」
「これは、そういう不純なものじゃないから」
わたしは指輪を右手で覆い隠します。
「思いのほか上等なものを貰ってしまって、申し訳ないと感じちゃったのかしら」
「違うわ」
「肌を重ねてみても、不安は消えなかったのね」
「――あっ」
注文を運んできた女性従業員が小さく声を上げます。
お盆を揺らしてしまい、中身が少しこぼれたようです。
「す、すいません……、すぐに代わりをお持ちしますので……」
「かまわないわよ、これくらいなら」
と母がたしなめるので、わたしも大丈夫だと伝えてお代わりを辞退します。実際、こぼれた量はティッシュ1枚で拭き取れるほどなので、これでお代わりをもらってはむしろ申し訳ないです。
「……お母さんが妙なことを言うから」
「なるだけ上品な表現を使ったのに」
と母は拗ねたように語尾を上げます。
「だいたい、あっ……、
「ええ、もちろんよ。わかってるじゃない」
母はカップをかたむけて紅茶を口にして、眉をわずかに動かします。
「おいしいわね。雰囲気もいいし、素敵な店だわ」
1年生の頃に学校の周囲を歩き回って見つけた、お気に入りの店なので、それを褒められると悪い気はしません。飲み慣れたブレンドコーヒーの味も、心なしかいつもよりおいしく感じました。
ですが、カフェインを摂取して、いくらか落ち着けたからでしょうか、先ほどの母の言葉が、改めて重くのしかかってきます。
自分が周囲にどう見られているのか――それはある程度、客観的に、正しく自覚してきました。生徒会長や成績優秀者といったレッテルに劣らない自分を演じてきたつもりです。しかし、それが一対一の関係となると、途端に足元が不安定になります。万全であると意識してきた姿勢に、違和感を覚えてしまうのです。
鏡一朗さんがくれたものに対して、わたしはどれだけ返すことができるのでしょうか。それはもちろん、物品だけの話ではありません。感情などという曖昧なものではなく――感情を示すためのあらゆる行動についてです。
今までもそうでしたが、今後はもっと貰うものが増えていくでしょう。特に進学に際して、わたしの選択が彼の進路を狭めてしまうのではないか、というのはすぐに思い浮かぶ不安です。
……いえ、過信しすぎかもしれません。
彼がそうまでしてわたしについてきてくれるだなんて、うぬぼれもいいところです。自分に自信が持てないから、こんなに不安になっているというのに。
コーヒーの漆黒の水面の奥、深い悩みに沈んでしまっていたわたしを現実に引き戻したのは、母がぽつりとこぼした一言でした。
「これはもうダメね」
反射的に顔を上げると、母は見せつけるようにため息をつきます。
「あなたはどうせ格好をつけて、この悩みに自分で答えを見つけないと、なんて意気込んでいるのかもしれないけど」
カップをかたむけて紅茶の残りを飲み干し、
「二人の悩みは二人で話し合わないと前に進まないわよ。一人でいくら考えたって、意味もなく後退するか、あてもなく迷走するだけ」
「……話し合いって、自分の考えをまとめた上でするものじゃないの」
「ええ、それが理想でしょうね。だけど、今のあなたは違うでしょ。とても考えがまとまっているようには見えないわよ」
そこを突かれると、もう反論ができません。わかってますよ、自覚してますから、それくらい。……だからこれは、ただの弱音です。
「でも……、それだと、依存にならない?」
こちらが真剣に聞いているのに、母はフッと鼻で笑って立ち上がります。
「二人の関係に名前をつけてわかったつもりになるなんて、十年早い」
「なっ……!」
「乙姫、あなた料理をするでしょう?」
まるで脈絡のない質問に、困惑しつつ言葉を返します。
「……それがどうしたの」
「味付けをするときも、調味料を小さじ半分まできっちり計量したりして」
「当然じゃない」
半ばムキになって言い返すと、母は得たりとばかりに口元を上げます。
「それがいけないのよ。一回で決めることに拘りすぎているのね。味が薄かったら調味料を足せばいいし、濃かったら水を足せばいい。そうやって、ちょっとずつ微調整していけば済むことじゃない」
「微調整……」
「人間関係も同じことよ。気になることがあれば、そのつど話し合って、手綱を締め直せばいいんだから」
手綱という表現に不穏なものを感じつつ、しかしわたしは、
「料理なんて全然しなかったくせに」
なんて、言いがかりのような言葉しか返せません。
「今の彼が料理好きで、そんな話をしていたのよ」
「……聞かなきゃよかった」
顔をしかめるわたしに、母はまたニヤリと笑いかけます。
「あなたたちの間に何があったのかは知らないけど、少し距離を置いただけでそこまでうろたえている時点で、答えは出ているようなものでしょう。――というのが、自分のことは棚上げにした、人生の先輩からの忠告よ」
母は小さく手を振ると、ハンドバッグを揺らしながら店を出ていきました。
その去り際、二人分の代金をカウンターに置いて。
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