第145話 冷静になりなさい


 伯鳴高校では毎年6月の半ばに生徒会選挙が行われるが、ここ最近では現生徒会の2年生がそのまま役員へ繰り上がるというのが慣例になっている。ほとんど信任選挙のようなものだった。


「わたしたち抜きでも生徒会活動ができるように、2年生たちをビシバシ鍛えないといけませんから」


 乙姫は放課後になると、そんな言葉を残して生徒会へと向かった。微死罵死ビシバシ、ねえ。2年生たちが無事だといいけど……、というのは半分ほど冗談だ。もう半分は、乙姫の変化に少し驚いていた。


 後進を育てるだなんて、他人にあまり興味のない乙姫らしからぬ発言だ。立場が人を育てるというのは本当らしい。前進している彼女と比べて、僕は成長できているのだろうか。


 進路指導室への呼び出しについて、乙姫は何も訊かなかった。もっとも、何を聞かれてもまともに答えることはできなかっただろう。あまりにも余裕がなかった。だから、そっとしておいてくれることは、今の僕にとって一番の気遣いだった。


 なんて憂鬱な新年度の始まりだろう。

 バイトがあるので乙姫を待たずに一人で下校していると、後ろから駆け足の足音が聞こえてきた。


「――キョウ君、ちょっと話さない?」


 あとを追ってきていたのは百代だった。呼び止められて、近くの公園へと移動する。ブランコと砂場と鉄棒しかない、10メートル四方ほどの狭い公園だ。百代がブランコに立ち乗りするので、僕もその隣に座った。


「朝からずっと浮かない顔してるけど、どしたの?」


 きぃ、きぃ、とブランコを揺らしながら百代が聞いてくる。スカートの裾も揺れている。目線の高さとほぼ同じなので、目のやり場に困ってしまう。


 進路指導室でのやり取りをすべて明かすことはできないが、適当なことを言っても百代は解放してくれないだろう。


「……乙姫には言わないでほしいんだけど」


 そう前置きして、僕は弱音を吐き出した。


 百代は黙って聞いてくれていたが、ブランコの揺れ幅が少しずつ大きくなっているあたり、心穏やかとはいかないようだった。


「それって要は、ヒメとキョウ君とじゃ釣り合わないっていう話でしょ。付き合い始めてから陰口を叩かれまくってきた、もう飽き飽きしてるやつじゃん」


「先生にそれを言われたことが、ちょっとこたえているわけで」


「何それ」


 百代にしては低い声でつぶやき、不機嫌そうに唇を尖らせる。


「今のキョウ君、ダサいよ」


「はぁッ……!?」


 変な声が出た。

 まったく予想外の辛辣な言葉だった。


 僕の心のやわらかい場所に、百代の言葉が直撃した。それは刀剣のような鋭さではなく、鈍器のような破壊的な衝撃だった。


 百代は、堂上の言い草に憤慨してくれているとばかり思っていた。こちらにダメ出しが飛んでくるなんて、みじんも考えていなかった。


「同じ生徒からの陰口は気にしないのに、先生に注意されたらうなずいちゃうんだ。目上の人の言うことだったらなんでも正しいの?」


「そんなことは……、ないけど……」


「恋愛は、天秤が釣り合うんじゃなくてパズルがハマることだって、キョウ君が言ってくれたんじゃない。あたしはその言葉、ずっと大切に思ってたのに。自分で格好つけて言ったことができてないキョウ君、超ダサい!」


 百代はブランコから飛び降りると、そのまま走って公園を出ていった。


 ダサいの上に超までつけられて、そのショックがじわじわと心身に染みわたっていく。ブランコに腰掛けたまま地面を見下ろす。夕焼けの赤に黒い影が伸びている。きい、きい、とブランコがきしむ音が、物寂しく響いている。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 堂上の警告と百代の叱責によって、僕の心はボロボロだった。精神を可視化できたとしたら、これはもう手遅れですねと、医者も匙を投げただろう。


 アルバイトの方も、こんな精神状態ではとても万全にこなすことはできない。動きの鈍さや注意力の散漫さを副店長の長谷川さんに指摘され、そして例によって事務所へと誘われた。


 事情の説明も二回目ともなると、要点をまとめてわかりやすく、スマートに語ることができた。しかしその中身は恥辱にまみれた弱音なのだ。スマートに弱音を吐くスキルが向上したところで全くクールではない。むしろダサい。超ダサい。百代の言葉がよみがえり、虚しさが募った。


「それはまた……」


 話を聞いた長谷川さんは、どう返事をしたものかと困っているような、あいまいな苦笑いを浮かべる。


「君の彼女は、学校からずいぶんと期待されているみたいだね」


「性格はともかく能力的にはずば抜けているので」


「能力を伸ばすために、色恋沙汰は封印しろと……。その〝教育的指導〟を受けて、君はどうするつもりなんだい」


「もちろん、何を言われようとも気にしません」


「その割には随分と落ち込んでいるようだけどね」


 強がりは一秒も続かなかった。


「……先生の言葉は、まあ、世間一般の、常識的な意見ではあるんでしょうから」


「君が揺らいでいるのは、そのせいなのかな? 本当に?」


「え」


「聞いた限りでは、いくらでも反論ができる、穴だらけの話だったよ。おそらくその先生も、理詰めで徹底的に言いくるめるつもりはなくて、ちょっと脅しをかけておくか、という程度の狙いだったんじゃないかな」


「それは、そうなんですけど」


「しかし、いくつかの揺さぶりの中の何かが、君に刺さった」


 長谷川さんは一瞬だけ、刺すような視線を向けてくる。


「つまり、図星を突かれた意見が、あったんじゃないかな」


 それは、と口ごもる僕に、長谷川さんは続ける。


「たくさんの小言の中に、ひとつでも君の決意を揺さぶるような指摘があったとしたら、そこが決壊点になりうる。たった一つでも、相手の言い分が正しいと認めてしまえば、あとはそこからドミノ倒しさ。どれもこれもが一理あるように思えてしまう。間違っているのは自分の方なんじゃないかと、不安になってしまう。……心当たりはないかい?」


 問われて、僕は思い出したくもない堂上とのやり取りを回想する。

 そして思い至る。


 ――最初の男であることを何かの拠り所にしているなら――


 やはり、あれ・・そう・・だった。


 あの揶揄を引き金にして、ただの一般論と相手にしていなかった、そのほかの意見までもが押し寄せてきたのだ。僕はそれに飲み込まれてしまった。


「……あります」


「だったら、それと、それ以外とは別物なんだと、しっかり分けて考えないといけない。その先生にどういう意図があるのかは知らないけど、説教の抱き合わせには、あまり善意は感じられないからね」


「それでも、やっぱり、不安は……、消えないと思います」


「それはそうさ」


 僕の弱音に、長谷川さんは軽い口調を返す。


「君が抱いているのは、先のわからない漠然とした将来への不安だ。誰もが感じている悩みだよ。先生の言葉がその引き金になったのは、単なる偶然にすぎない。いくつかの要素が重なって、たまたま、このタイミングで強く意識させられただけさ」


 いくつかの要素――高校三年生という時期や、乙姫との付き合いや、その彼女が学校側に注目されるくらい優秀であること、などだろうか。特に三つめは、僕を常に悩ませている。僕は彼女にふさわしいのかと、心のどこかで問いかけ続けている。


「先生の話を君は、世間一般の常識的な意見と言ったけれど、それも少し違う。学校の先生が知っている世間なんて、ごくごく狭い範囲のものさ」


 長谷川さんはこちらの不安をほぐすように、ゆっくりと続ける。


「これは教職に限ったことじゃない。大人だってみんな、それぞれの職業から見える範囲のことしか知らないんだよ。たとえば……、学校の先生は子供の機微をとらえることに長けているのかもしれないが、パートのおばさんの扱いに関しては、断然、私の方が上だろうね」


 はは、と長谷川さんは力なく笑う。気の強いパートのおばちゃんたちに、ぞんざいに扱われている長谷川さんの姿を思い出して、僕もつい苦笑がこぼれる。


「忠告なんて、その人が知る世間の範囲内での常識でしかない、ってことですね」


 これだと感じた回答を口にすると、さあどうかな、と長谷川さんは口元を上げる。


「常識というのはたくさんの人が信じている、それなりに強固なものだ。鵜呑みにしてはいけないが、かといってむやみに否定するのもよろしくない」


「えぇ……」


 どっちやねん、と僕は顔をしかめる。


 長谷川さんは壁の時計を一瞥し、ずいぶん話し込んでしまったね、なんて言いながら、ドアノブに手をかけた。


「相手の言葉に惑わされずに、要は冷静になりなさい、ということだよ」

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