第146話 答え合わせのときは遠くない


 進路指導室で負った精神的なダメージは、長谷川さんに話を聞いてもらったことや、時間の経過によって、回復していったと思う。しかし、4月の頭に受けていた模試の結果が返ってくると、その点数に危機感を覚えた。数字は無慈悲だ。誰かの難癖など関係なく、自分の現在地を容赦なく突きつけられる。そして乙姫との間にある大きな差を実感してしまう。


 とはいえ、落ち込んでばかりもいられない。本番である大学入試はまだ先だ。僕はバイトのシフトを減らして、勉強時間を増やすことにした。家でダラけていた時間に赤本を開き、空き時間に英単語帳をめくって暗記にいそしむ。今のうちから大学受験に向けて足場を固めるのだ。継続は力。勉強に王道なし。


「キャンプしようぜ」


 キャンプしようぜ。

 camp siyouze.

 Let go to the camp.


 野営地、駐留地、キャンプ場。もはや日本語に等しい。覚える必要はないだろう。僕は次のページをめくる。


「なあ阿山、キャンプしようぜ」


 再び赤木が話しかけてきた。HR前のようなすき間時間の活用こそが、受験を制するために重要だというのに。塵も積もれば山になるというのに。


「……何。キャンプって言った?」

「おお。もうすぐゴールデンウイークだろ。夏休みは、お前や繭墨は完全に勉強漬けだろうし、みんなで集まるなんて、今のうちしかできないと思ってな」


「……そうだね」


 赤木の言葉につられて、四月にして早くも卒業のことを考えてしまって、少し切なくなる。

 それにな、と赤木は顔を近づけて小声で言う。


「お前、繭墨となんかギクシャクしてるだろ」

「そうかな」

「お互い口数が少ないし、よそよそしい。なんかあったのか?」

「別に、僕たちの間で何かがあったわけじゃないけど……」


 僕が勝手に比較して落ち込んで迷っているだけで、乙姫の方に問題はないのだ。


「そういうときこそ、イベントだろうが。二人の間のちょっとした違和感を、楽しく騒いで吹き飛ばすんだよ」


 赤木は拳を握って力説する。その言葉には力強さがあった。


「まるで我がことのように切羽詰まった必死さを感じる……」


 疑いのまなざしを向けると、赤木は一転して不安そうに顔をゆがめた。椅子をこちらに寄せて、小声で聞いてくる。


「なんか最近、百代がよそよそしいんだよ。俺、何か妙なことしたか? してないよな? ないって言ってくれよ」

「赤木のせいじゃないかもしれない」

「ど、どういう意味だ……?」

「百代の心境に変化があったのかも。誰か好きな人ができたとか……」

「マジかよ」

「知らないけどね」

「……びっくりさせんなよ」


 赤木はぐったりと脱力して背もたれに倒れかかる。


「二人の間のちょっとした違和感を、楽しく騒いで吹き飛ばすんでしょ。いいと思うよ。でも、どうしてキャンプを?」


 そう話を振ると、魂がはみ出ているかのように口を半開きにしていた赤木の目に、光が戻ってくる。


「よくぞ聞いてくれた」


 と身体を起こしてキメ顔をする。


「……人は文明という名の温室の中で、ぬくぬくと甘やかされて育ってきた。しかし、ときにはそこから外へ出て、自分たちの無力さを自覚することも、大切だと思うんだよ」


「でも、何もできない無力な子羊に甘んじるつもりはないんだよね?」


 挑発するように問うと、赤木はニヤリと口元を上げた。


「テキパキとテントを組み立てて、力強く薪を割って、料理なんかも作ったりして。非日常のなかでこそ、デキる男は際立つんだよ。ワイルドだろぉ?」


 数秒ほどの沈黙があった。


「……それ誰の持ちネタだっけ」

「自分で言ったが俺も覚えてない」


 僕たちは顔を見合わせる。


「時間の流れは残酷だな。あいまいな記憶を容赦なく押し流してしまう」

「すべてが彼方へと押しやられたあと、それでも残ったものにこそ、本当の価値があるんじゃないかな」


 窓の外に目を向けてうなずき合う。


「思い出という名の結晶か」

「綺麗なものは、どこか切ないね」

時間トキの美しさと残酷さ、か……」

「すべては表裏一体なのかもしれない」

「イッツ、ア、ビューティフルワールド……」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 鏡一朗さんと赤木君が、遠い目をして何かを語り合っています。


「何話してるのかな」

「さあ、どうせ下らないことでしょ」


 わたしがそう断じると、曜子も「だよね」とあっさり同意します。本題に入る前の、ちょっとした雑談のつもりだったのでしょう。じっとこちらの目を見つめて、


「そんなことより、キョウ君のこと、放っておいていいの?」


 と真剣な声音で問いかけてきます。


 始業式の日から一週間が経っていました。それはすなわち、鏡一朗さんが進路指導室へ呼び出され、ボロ雑巾のような顔で戻ってきたあの日から、一週間が過ぎたということです。


 曜子はその日のうちに鏡一朗さんから事情を聞きだして、わたしに教えてくれました。だから彼女としては、わたしが何もアクションを起こさないことが不満なのでしょう。状況に変化がないか、このところ毎日たずねてきます。


「……いいのよ、今は」

「なんで? 今のキョウ君、かなりダメな感じだよ?」

「確かにそうね。でも、少しずつ、前向きになっているようにも見えるわ」

「えぇ……、どこが?」

「例えば、受験勉強に本腰を入れ始めたのは、先生を見返してやろうという気持ちの表れじゃないかしら」

「それはいいことだと思うけど、進路のことは話し合わなくてもいいの?」

「常にくっついて相手に意見したり、逆に相手の意見に左右されたりというのも、それはそれで不健全でしょう?」


 わたしにはおそらく、面倒くさい一面があるのでしょう。ほんの、若干、薄皮一枚程度の面倒くささでしょうが、それ自体は否定しません。相手の意見や考え方を、さり気なく誘導するくらいのことはします。

 ですが、決して相手を束縛するつもりはありません。週イチで記念日を作ったり、それを相手も覚えるよう強要もしません。メッセージアプリの既読スルーにいちいち文句を言うこともありません。


「それって、相手を信じてるってこと?」

「期待しているのよ。今、かなり駄目な感じの鏡一朗さんが、どんな答えを出すのかを」

「……それが、ヒメの望むものと違ってたら?」


 ずいぶん絡んできますね……。わたしは短くため息をついて、


「正直に言うと、わからないわ」


 それは偽らざる本音でした。


 わたしは、鏡一朗さんとのお付き合いに浮かれているのだと思います。異性との交際という意味でもそうですが、彼ほど遠慮なしに意見をぶつけられる相手が、今までいなかったからです。


 一緒にいる時間がただ楽しくて、その先のことはあまり考えていませんでした。だから、今、初めて、2人の将来というものを考える機会ができて――未だ、その明確な答えを見つけられずにいるのです。


「わたしだって答えをはっきり決めているわけじゃないんだから」

「え……」


 曜子は目を見開いて、それから泣きそうなくらいに眉をひそめました。


 わたしと鏡一朗さんの関係について、そこまで心を砕いてくれていることがうれしくて、不謹慎かもしれませんが、つい笑みがこぼれてしまいます。


「なんで笑ってるのよ、もう……」


 口をとがらせる曜子をたしなめるように、彼女の手に触れます。


「ごめんなさい、でも、答え合わせのときは遠くないはずよ」

「え? いつ? どこで?」

「たぶん、ヨーコにも関係があると思うわ」


 そう言って笑いかけると、曜子はきょとんとした顔で首をかしげていました。


〝ゴールデンウイーク〟〝イベント〟〝キャンプ〟。

 そのように唇が動いたのが見えました。

 あの二人の魂胆を察するには、その情報だけで十分でしょう。

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