第144話 歩幅の違う相手と並んで歩く
朝イチで呼び出される理由に心当たりはなかったが、さりとて無視するわけにもいかない。進路指導室へ向かう間、いくつか理由を考えてみたものの、これだと思えるものはなかった。
冬場に提出した進路調査票には、当たり障りなく伯鳴大学と記入していた。この地域の国立大学で、地元に残る進学組にとっては定番の進路だ。
単純に、進路指導を出席順に始めただけかとも思ったが、それなら僕より先に赤木が呼ばれていなければおかしい。
この呼び出しは進学希望者の中のひとり、ではなく、明らかに僕個人を対象としたもののような気がした。
「失礼します」
2階の端にある進路指導室に入るのは初めてだった。
中ではすでに先生が椅子に座って待ち構えていた。
「おお、悪いな、急に呼び出したりして」
申し訳なさがあまり感じられない、軽い口調で先生は言った。それを親しみやすいと感じるか、馴れ馴れしいと取るかは、生徒の受け取り方次第だろう。
進路指導の堂上先生は、40代半ばの男性教師だ。担当の授業を受けたことがないので、今までほぼ接点がなかった。印象の好悪も特にない。
「いえ……、どうかしたんですか」
「まあ座ってくれ」促されて着席する間も堂上は話を続ける。「お前は、繭墨の志望校は知っているか?」
僕はうなずきながら、関西の有名大学の名前を挙げた。
2年のいつだったか、模試を受けたときのことだ。とりあえず思いついた名前を書いてみただけですよ、と乙姫は言っていた。当たり前のようにA判定だった。
「繭墨乙姫は特別な生徒だ」
堂上は断言した。
「ああ、誤解しないでくれよ。俺はすべての生徒を平等に扱っている。だが、明らかに突出している者を、その他大勢と同じに扱うことは、平等とは言わん。F1のマシンを公道で走らせたりはしないだろう?」
同意を求めるように語尾を上げる。僕は反応しなかった。
「お前も成績優秀ではあるが、繭墨はもっと、こう、圧倒的だ。学力に限った話じゃあない。頭の回転が速く、冷静で、容姿に優れ、視野が広い。特に人の上に立つことに向いている――と先生は思っている」
堂上は軽く口元を上げ、机の上で両手を合わせて指を組む。
僕は反応を返さない。
「人はその能力に応じた場所へ進むべきだ。ああ、もちろん進学についてだ。大学というのはただ学ぶだけの場所じゃない」
堂上は目をつむって小さくうなずき、自分の言葉に酔っているような調子で話を続ける。
「社会へ出るとよくわかるが、人とのつながりに勝る宝はない。一流大学に集まってくるような者の多くは、それを理解して在学中から人脈づくりに動いている。卒業後のこと――それも、就職先という小さな視野じゃない、その先の人生について考えればこそ、入る大学はよく選んだ方がいい」
僕は反応を返さない。
「お前が繭墨と交際していることは、まあ周知の事実だ。それはいい。何事も経験だ。一時はそういうことに夢中になるのもいいだろう」
堂上は目をつむって小さく二度うなずき、ここからが本題だと言わんばかりに身を乗り出す。
「だが、あと一年、将来に向けて本当に大切な、大学受験に向けた最後の年だ。ここで本気になるかならないか、それで人生が決まると言っても過言じゃない」
わかるだろう? と言わんばかりの、お
僕は反応を返さない。
堂上は椅子の背もたれに、のけぞるようにして体重を預ける。安っぽいパイプ椅子がギシリと鳴った。
「色恋なんぞいつでもできるが、受験勉強は今やることに意義がある」
恋愛ではなく色恋という言葉を使ったことに、しょせんは子供の遊びだ、というニュアンスを強く感じた。こちらがそのように受け止めるであろう言葉を、丁寧に吟味していると思った。
「先生もな、仕事柄、何組もの学生カップルを見てきたが、ちぐはぐな組み合わせというのは常に失敗している。遠距離になって自然消滅はまだいい方だ。無理して勉強して結局不合格で、もとの希望とは別の大学を受ける羽目になったり」
「……頑張って同じ大学へ行った生徒はいなかったんですか?」
「ゼロではないが、それで幸せになれたかどうかは怪しいところだ」
ようやくこちらの反応があったからか。悲観的な言葉とは裏腹に、堂上の口元は歪につり上がっていた。
「地方の高校というのは狭い世界だ。外へ出て世界が広がれば、おのずと選択肢も広がる」
恋愛対象の、と明言はしなかった。
「それに、広い場所でこそ能力の上限もはっきりする。100メートル走では半歩の差しかなかった相手でも、1000メートル、1万メートルと距離が伸びたら、その差が歴然としてくる。歩幅の違う相手と並んで歩くのは、大変なことだぞ」
こちらを気遣うように目を細め、とつとつと堂上は語る。それが終わる頃合いで、ちょうど予鈴のチャイムが鳴った。
「――とまあ、いろいろ言ったがな。相手を幸せにするために、自分に何ができるのか、それを考えるのが大人の恋愛だぞ」
もう戻っていいぞ、と促されて立ち上がる。
廊下へ出て、室内を振り返り、失礼しましたと感情のこもらないお辞儀をする。そして顔を上げたとき、眉を寄せてこちらを憐れむような微笑を浮かべた堂上と目が合った。
「仮に――
僕は返事をせずに戸を閉めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
阿山鏡一朗では繭墨乙姫と釣り合わない、ということを、堂上は直接的な言葉を使わず、手を変え品を変え、いろいろな例え話でもって突き付けてきた。
その手の話題を同じ生徒から言われるのにはもう慣れたが、まさか教師が持ち掛けてくるとは思わなかった。さすがは繭墨乙姫、と自嘲気味な笑いがこぼれる。嫌な予感は的中してしまったわけだ。
堂上の言うことに対して、反論はいくつもあった。そのつどに指摘したところで、生意気な生徒と思われるのがオチなので何も言わなかったが。あるいは、子供がムキになっているだけ、と受け取られただろうか。
――この一年で人生が決まる? 予備校のCMの受け売りですか。
――付き合う人間はよく選べ? ホームドラマで堅物の親がよく言ってますね。
――相手との釣り合いとか、幸せとか、あんたはそれを判断できるほど、その生徒たちをしっかり見てたんですか?
そのくせ、大人の恋愛がどうのこうのと、知ったようなことを言ってこちらを中途半端に持ち上げようとする。なんて卑怯な
僕たちの間には確かなものがすでにあるのだ。他人に何を言われたところで、それに変わりはないのだと、自信を持って部屋を出た。出ようとしたのだ。
ところが、である。
堂上はこちらの態度から、あまり
プライベートに土足で踏み込む、ひどく下品な言葉だ。
しかし、どうしようもないことに、その警告はある意味では正しかった。
言われるまでは無自覚だったが、指摘を受けて、思い知る。
セックスを信頼の拠りどころにするなんて、それこそ子供の思考だと、言い当てられた気がした。
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