3年次1学期
第143話 約束はいらない
桜並木の下に女生徒がたたずんでいた。
薄紅と新緑が混じり合うなか、制服の黒をまとった彼女の姿は際立っている。
映画のワンシーンのように出来すぎの光景の中心で、桜並木や花吹雪といった超一級の舞台装置に負けない存在感を、その女生徒は放っていた。
それを遠巻きにしている自分はただの傍観者に過ぎないのではないか。ネガティブな錯覚を振り払って前進する。
分をわきまえず舞台に上がろうとする、無粋な観客に気づいたのか、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その所作にタイミングを合わせたかのように、少し強めの風が吹く。
ざぁっ、と葉桜が鳴って、薄紅の花弁が舞い上がる。
女生徒の長い黒髪が風にたなびき、スカートの裾がわずかに揺れた。彼女は黒髪を片手で押さえて、はにかみながら――あるいは単に風のせいで目を細めただけかもしれないが――こちらと目を合わせた。
「おはようございます」
「おはよう」
数メートルの距離を挟んで、僕と乙姫は朝のあいさつを交わした。
周りにほかの生徒の姿はほとんどない。
朝練の生徒はそれぞれの部活で汗を流しており、一般生徒の登校のピークはあと30分以上も先のことだ。そんなエアポケットのような時間帯を狙って僕たちは登校していた。
伯鳴高校の校門前には数十メートルほどの短い桜並木がある。その咲きっぷりは気候にかなり左右されるが、今年はすでに満開を通り越して、現在は六分残りといったところだ。四月七日という門出の日に、僕らの街の桜の花は、なかなかタイミングを合わせてくれない。
一年前の今日も、僕たちはこの場所でこうして桜を眺めていた。
当時とはいろいろなものが変化している。
お互いの呼び名や関係性。
乙姫の薬指に光る指輪。
そして、残り一年になってしまった高校生活。
あのときは約束をして待ち合わせたけれど、今回はそういう話を一切していない。
たぶん来ているだろうな――そんな想像と予感、そして期待だけで、一時間も早くにアパートを出たのだ。乙姫もきっと同じだったのだろう。同じ気持ちでいたことを喜んでいる、そういう顔をしていた。
約束はいらない、なんて断言できるほどではないけれど、過ごした時間の積み重ねのぶんだけ、相手のことをわかっていく気がする。
――なんて穏やかな心持ちでいたのに、乙姫ときたら、
「気合が足りませんね」
なんて言って毒づいている。いったい何を罵倒しているのだろう、僕のことだろうか、と身構えてしまうが、その視線は地面へと向けられていた。厳密には、地面を覆う桜の花びらへと。
「踏みつけられて薄汚れてしまった桜の残骸なんて、見たくありませんでした」
新学期の初日の朝一番から、物憂げな表情で無茶を言っている。
「桜ってあんまり気合がありそうな花じゃないよね。残る桜も散る桜――ってさ」
「
「残ったところでどうせ散るんだから程々にやろうぜ、みたいな意味だっけ」
「まさに悟り世代の発想、曲解の極みですね」
乙姫は視線を切って上を向いた。薄紅と新緑の交じり合った桜並木を見上げて、
「咲いて散って、また咲いて……、春の出会いと別れにあつらえたような咲き方をするものだから、誰も彼もがモチーフに使いたがるんですね」
「桜の歌、多いよね」
「カラオケの選曲リストでサ行のページを見るたびに、いつもうんざりしてしまいます。新曲に桜と名付けるのを禁止するべきですよ」
「JASR〇Cも裸足で逃げ出す暴論を……、って、カラオケとか行くの?」
「はい、それほど頻繁ではありませんが」
まさかひとりカラオケじゃないだろうな。
「何か失礼なことを考えてませんか?」
乙姫はスッと目を細めてこちらを睨む。僕は慌てて首を振って、
「いや……、そういえば、一緒にカラオケも行ったことなかったなんだなって」
「いいじゃないですか。まだ体験していないことがたくさんあって」
乙姫はそう言って、再び桜を見上げる。
春にふさわしい前向きな発言を、否定するほど野暮じゃない。
「……そうだね」
「あと一年、よろしくお願いします」
「ん、こちらこそ、よろしく」
やがて、ちらほらと登校してくる生徒が目につくようになると、僕らは二人並んで校門をくぐる。
乙姫が薬指から指輪を抜いて、そっとポケットにしまうのを、かすかな優越感とともに横目にしながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇
教室が少しずつ生徒で満ちていくのを、文庫本の表紙ごしに感じます。
伯鳴高校では二年次から三年次へ上がる際のクラス替えがありません。そのため新年度とはいえ、クラスメイトに対するリアクションは去年ほど大げさではありません。今までどおり、仲の良い人同士で集まって雑談に興じています。
「おはよ、ヒメ」
席順はリセットされて、出席番号順の並びに戻っています。一つ後ろの席に座った曜子のあいさつは、新年度の始まりにふさわしい明るい声でした。わたしは文庫本を閉じて、こちらも負けじと、意識して笑いかけます。
「おはよう、ヨーコ」
「またよろしくね」
「ええ、こちらこそよろしく」
そこで曜子はじっとこちらを見つめて、
「……ヒメ? なんかいいことあった?」
「特にないわ。今までどおりだけど。どうして?」
問い返すと、曜子は首をひねりつつ、わたしの顔だけでなく全身を舐め回すように、じろじろと視線を動かします。観察されているようで居心地の悪い視線です。
「なんだか、こう、余裕というか、満腹感というか、そういうものを感じる……」
曜子は顎に手をやって考える人めいたポーズをします。
「朝は軽くしか食べないわよ」
「そういう意味じゃなくて……、幸せでお腹いっぱい的な意味で」
「幸せ」とわたしは繰り返します。
「満ち足りてる感じっていうか」
「人生なんて一寸先は闇、満足は油断と同じことよ」
「満腹感がなくなった? あれぇ……?」
と曜子は首をかしげます。こちらが気を引き締めると、わたしの満腹感とやらを感じられなくなるようです。野生動物じみた勘ですね……。
「まあいっか。ねえヒメ、将来のこととか考えてる?」
と唐突な話題転換。高校三年生の春にふさわしい話題ではありますが。
「将来なんて、気が早すぎないかしら」
「え? そうかなぁ。でも大学とか専門学校とかなりたい職業とか、二年の頃から目標決めてる人もいるし。ヒメってしっかりしてるから、そういうのは早めに考えてると思ってたんだけど」
「ああ、そっちのことね」
「……そっちじゃない将来って、もしかして」
曜子は手のひらで唇を隠して、ニヤニヤと目を細めて笑います。
「考えすぎよ」
「でも」
曜子は近くに誰もいないことを確認すると、口元に手をやってメガホンの形をつくり、小声で話しかけてきます。
「キョウ君と同じ大学へ行くのか、とか、そういうこと、考えたりしてないの?」
そう問われて、気づかされます。
わたしと鏡一朗さんは、将来についての話をしたことが、ほとんどありません。
進学か就職か? 志望校のランクは?
この街を出ていくのか、それとも残るのか?
どんな職業に就きたいのかについての話をしたこともなかったのです。
将来――未来というものを考えていなかったことに、自分たちの幼さを実感してしまいます。
「……わたしたちは、昔と今の話しかしていなかったのね」
「若い二人は
曜子はニヤニヤと笑いながら、こちらの肩をぺしぺしと叩いてきます。
「幸せオーラをまき散らしちゃうくらいにぃ」
「自分が幸せかどうかなんて考えたこともないわ」
恵まれていると感じることは多々ありますが。
「そうだよねぇ、幸せは人と人の間にできるものだもんねぇ」
「どうしたのヨーコ、さっきから物言いが大げさで胡散くさいわ」
妙な宗教やサークルにハマっているのではないかと、若干の危惧を抱いてしまいます。ただ、その言葉のすべてを否定しきれない自分もいるわけで。
「……でも、そうね、話してみたいわね、将来のこと」
ぽつりと零れた言葉に曜子が顔を引きつらせます。
「ヒメの横顔から色香を感じるよぅ……」
「何を言い出すのよ」
「婚約者を連れてきた親戚のお姉ちゃんと同じ顔してるよぅ……」
テンションの高さがそろそろ面倒くさくなってきました。あなたの幸せはどうなの? と聞き返してやろうかと考えましたが、その企みは唐突な校内放送によって中断させられてしまいます。
『三年一組、阿山鏡一朗。至急、進路指導室まで来なさい。繰り返す、三年一組、阿山鏡一朗、至急、進路指導室まで来なさい――』
鏡一朗さんは目を丸くしてスピーカーを見ていました。呼ばれた心当たりがないのか、首をかしげつつ立ち上がって、そそくさと教室を出ていきました。
「なんか偉そうな放送」
曜子が口をとがらせます。
今の声は進路指導担当の先生だったと記憶しています。親身に話を聞いてくれる先生だという評判もありますが、わたしはあまり良い印象がありません。四〇代にもかかわらず、くだけた口調が親しみやすい。そんな話も聞きますが、それは生徒を取り込むための演技に過ぎないのではないかと、疑念が先に立ってしまいます。
「どしたんだろキョウ君」
「さあ……」
わたしはそう答えるしかありませんでした。
朝のHR前の呼び出しというだけでもイレギュラーなのに、呼ばれた場所は進路指導室。先生と1対1で話をするための場所です。悪い予感しかしません。
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