第142話 誤解

 それにはスキンだとかゴムだとか家族計画だとか、いくつもの呼び方があるが、もっとも端的で無機質な名称を使うならば、避妊具、といわれるものだった。



 テーブルの上に置かれたそれ《・・》に、目が釘付けになる。

 まるでそこが世界の中心になってしまったかのように。


「……これは?」


「避妊具です」


 乙姫もまた最も機能的な単語でそれ・・を言い表した。


「それって、つまり」


 ごくりと喉を鳴らして、世界の中心から視線を引きはがす。僕はたぶん期待に満ちた表情をしているのだろう。だらしない顔を彼女に見られるのは不本意だったが、そんな見栄を気にするよりも、乙姫が今どんな顔をしているのか、確かめたい気持ちの方がはるかに強い。


「誤解しているようですが」


 乙姫は眼鏡の位置を直しつつ、平坦かつ冷淡な声で言った。しかし肝心の、氷柱のように怜悧れいりな視線が逸らされているから、こちらの浮ついた気持ちを抑えつけるには眼力がまるで足りない。


 しかし、今、誤解と言ったのか? 

 ホワイトデーに恋人と二人きりで、こんなものを持ち出しておいて、いったい何をどう誤解するというのだろう。勘違いの余地なんてないじゃないか。

 乙姫の口からはっきりと説明してもらいたいものだ。こちらが納得するようなきちんとした理由を要求したい。


 そんなねちっこい思考が顔に出てしまったのか、乙姫は怪訝そうに目を細める。


「これはもともと、鏡一朗さんのものですよ」

「僕はこういう準備はしてなかったんだけど……」


 本当だ。

 バレンタインの失態でりていた僕に、こんなものを用意する余裕はない。


「先月の、バレンタインです。実家からの荷物の中に、これが入っていました」


 困惑する僕をよそに、乙姫は淡々と言った。

 確かにあの日、乙姫の様子がおかしくなったのは、仕送り箱を開けてその中を見ていたときだ。

 それにしても、避妊具を仕送りの中に紛れ込ませるなんて、千都世さんのいたずらだろうか。


 納得と同時に落胆。

 感情を表に出さないように、僕は努めて明るい声を出す。


「ああ、荷解きを頼んだときの……。やっぱり義姉さんの仕業かな」


 こちらの言い訳めいた言葉にコメントはなく。

 細い指先ですっと突き返される避妊具は、そういうこと・・・・・・をとことん拒絶する、乙姫の頑なさの証のようだった。


 しかし、素直に引き取るのは負けのような気がして、ひとまずテーブルの端に寄せておくことにした。


 カジノのチップのように移動する避妊具を横目に、乙姫はすまし顔で尋ねてくる。


「それで、鏡一朗さんの用件は?」

「なんかもういろいろ段取りがめちゃくちゃだけど」


 苦笑しつつ、僕はポケットから指輪ケースを取り出した。

 ようやくの出番である。

 本日の主役のつもりが、避妊具のせいですっかり隅に追いやられてしまった。


 緊張感は吹き飛んでしまい、ムードも何もあったものじゃない。

 だが、おかげで肩の力が抜けた。

 ケースを開いて乙姫に差し出す。


「バレンタインのお返し。気に入ってくれるといいけど」


 ケースの台座に収まっているのは、銀色の指輪だ。

 宝石はついていない。メビウスの輪のようにねじれているのが、特徴といえば特徴か。それ以外はなんの加工もされていない、シンプルなプラチナリング。飾り気のない研ぎ澄まされた美しさが、乙姫に似ていると思ったから、これに決めた。


 乙姫はケースの中をぼんやりと見つめていた。唇がかすかに開いて白い歯がのぞいている。その表情はめずらしく無防備だった。驚いてくれているのだろうか。


 僕のプレゼントが指輪であることを、乙姫は間違いなく知っていた。

 予測されていたのではなく、誘導されていたからだ。

 だからその期待は裏切れない。指輪以外のプレゼントはありえなかった。


 期待を外れられないのなら、サプライズをかけるための手はひとつしかない。

 期待を超えることだけだ。


 驚きから覚めたのか、はたまたそういう演技なのか、乙姫の表情が鋭さを取り戻した。指輪ではなく僕に目を向け、満足いく味のコーヒーを淹れられたときのように、ふわりと口元をゆるめた。


「あなたの手で、はめてくれませんか」


 乙姫は立ち上がると、そっと手を差し出した。


 指輪はそれをはめる指によって、いろいろな意味を持つという。指だけではなく、手の左右によっても違いがあるのだ。乙姫が差し出したのは左手だった。もっとも有名な、左手の薬指。心臓につながる指だと言われているそこに、どうしても目が行ってしまう。


 あなたはどの指を選ぶのですか? という無言の問いかけだった。


 乙姫はことあるごとにこちらを試してくる。それが全く不快ではないのだから、恋が病ならば末期も末期、終末期だ。


 僕も立ち上がって、乙姫の左手を取った。右の人指し指と親指で指輪をつまんで、向きを確かめ、軌道修正、宇宙船のドッキングのように、ゆっくりと彼女の薬指にはめた。


「ぴったりですね」


 にっこりと乙姫が微笑む。


「おかげさまでね」


 いつかのファミレスでの一幕を思い出してそう答える。


「気づかなくてもいい気遣いもあるんですよ」

「気遣いに気づかない、鈍いやつだと思われたくないんだよ」

「見栄っ張りですね」

「お互い様だよ」


 そう返すと、乙姫はこれも珍しく、ふふっと声を出して笑った。眼鏡の奥の目尻をそっと、指先で拭っている。


 こういうことを言ったらきっと怒られるのだろうけど。

 先月の失態は例外中の例外として――僕は普段、乙姫に対してあまり性欲むき出しのがっつく・・・・ような感情を覚えることがなかった。


 乙姫があまりに隙を見せないから、もともと積極的ではない僕は踏み込むことができなかった、というのが理由のひとつ。


 彼女自身がその手の行為を毛嫌いしていたこともある。繭墨の家庭の事情が絡んだその理由は僕もよく知っていたから、乙姫の気持ちを大事にする、なんて言い訳で尻込みしていた。


 それともうひとつ、ある意味ではこれがいちばん根深い理由だと思う。

 憧れだ。一年と数か月の付き合いのうちに刷り込まれていった、月を見上げるような憧憬の念。


 高嶺の花の繭墨乙姫に対して、僕は恋愛感情を抱きつつも、その好意は自然や美術品に向けるような、上品なものになっていた。ガラスケースに入れて鑑賞するように、一歩引いた位置から見てしまっていたのだ。


 それが、今は。


「……鏡一朗さん?」


 乙姫が小さく首をかしげる。

 長い黒髪が細い肩をするりと滑って、つやめきながら揺れる。


 その問いかけは、指輪をはめてからも一向に手を離そうとしない僕へと向けられたものだ。


 返事の代わりに、2人の間で空気を読まずに居座っていたテーブルを横にずらす。足先で強引に。敷物が乱れるのもお構いなしだった。


 邪魔がなくなったぶんだけ距離を詰める。手はもちろん握ったままで。


「嫌だったら、ぶん殴って止めて」


 こちらから止める気はないと言外に告げて、さらに踏み込む。

 お互いが密着するほどの距離で、目を合わせて、唇を合わせようとする直前。

 乙姫がわずかにかがんだせいで、定めていた狙いが外れてしまう。


 拒絶のサインかと一瞬の動揺。


 乙姫は無言で右腕を伸ばして、テーブルの端のリモコンを手に取った。ピッ、という電子音とともに室内が薄暗くなる。

 僕の胸元には、派手な色遣いで・・・・・・・シンプルなデザイン・・・・・・・・・の小箱・・・が押し付けられる。


「やっぱり、誤解してる」


 薄闇の中で艶然と、だけど決して余裕のない笑顔で乙姫は言う。


「嫌だったら、こんなもの、律儀に返したりしません」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 目が覚めたのはこちらが先だったので、隣で眠る乙姫の、眼鏡を外した寝顔をしばらく眺めていた。


 自分でも驚くくらい穏やかな気持ちで――いられたのは最初だけ。だんだん寝顔以外のところに目が行ってしまい、これはいけないとベッドから転がり出た。狭いシングルなのに二人並んで器用に寝られたものだ、などと妙なところに感心してしまう。


 外はまだ暗く、時間がよくわからない。服を着替えながら時計を確認すると、時刻は早朝、夜明け前の暗さだった。


 いつもだったら二度寝しているが、乙姫の方はそうはいかない。一度家へ帰らないといけないだろう。それに特別な朝なので、少しくらい良いところを見せたかった。具体的には、朝食の用意を。


 トーストとベーコンエッグに、レタスとトマトを飾っただけの簡単なサラダ。飲み物には粉末のコーンポタージュを添えて。

 お湯が沸いたところで、乙姫がベッドの上で身体を起こすのが見えた。


「おはよう」

「……おはよう、ございます」


 布団を胸元まで引っ張り上げて身体を隠しながら、乙姫はじっとこちらを見ていた。すでに眼鏡はかけている。観察するような視線だった。


「もうすぐできるから、ちょっと待ってて」

「情事のあとに手作りの朝食を振る舞うなんて……、すごく手慣れた感じがします。まさか、また・・、初めてじゃないと――」


「ちょ!? ……そんなことないって、誤解だよ誤解」


 カップに注いでいたお湯が危うくこぼれるところだった。

 慌てて言葉をかぶせると、乙姫はしばらく疑わしげな目をしていたが、やがて、ふいっとそっぽを向いた。


「ま、まあ、わかってましたけどね。昨日の夜は、い、色々なことに、ずいぶんと手間取っていましたし……」


「やめて、あまり思い出させないで」


 昨晩のあれこれについては、お世辞にも手際よくできたとは言えない自覚はある。あまり言葉責めはしないでほしかった。

 しかし、こちらの懇願などお構いなしに追い打ちを食らわせてくるのが、いつもの乙姫のスタイルである。

 内心びくびくしながら続きを待ったが、十秒経っても二十秒経っても、なぜか追撃が飛んでこない。


 どうしたのかとベッドの方をうかがって、沈黙の理由がわかった。


 乙姫は布団にくるまったまま、膝に顔をうずめていた。

 表情は見えないが、耳は真っ赤に染まっている。


「思い出してる?」


 返事はなかった。一度寝ただけで調子に乗らないでください、くらいは言われるんじゃないかと思っていたが、予想外の大人しさだった。




 その後、着替えを済ませると、テーブルをはさんで朝食をとった。大した量ではない上に、おたがい黙々と手と口を動かしていたせいで、あっという間に食べ終わってしまう。


 口元をティッシュで拭うと、乙姫はすぐに立ち上がった。手には鞄を持っている。


「一度、家へ戻らないといけないので。後片付けを任せてもかまいませんか」

「そりゃもちろんだけど」


 応じつつ僕も立ち上がる。玄関へ向かう乙姫はいつもより明らかに足早だった。


「今日は、あと昨日も、ありがとうございました。では学校で」

「ちょっと待った」


 靴を履いてドアノブに右手をかけ、外へ出ていこうとする乙姫。その肩に触れただけで、びくりと大げさに身体をふるわせた。


 乙姫はあまりにも急いでいた。

 一刻も早くこの場から離れたい――そんな焦りを隠そうともしていない。

 募った不安が言葉を紡ぐ。


「何か気に障ることがあった? それとも……」


 昨晩のあれで僕は失敗をしてしまったのだろうか。それを尋ねるのはとても恐ろしいことで、続きの言葉を迷っているうちに、乙姫が大きく首を左右に振った。


「違います。ただ、わたしの方が、いろいろと……、恥ずかしいというか、照れくさいというか……、とにかく、冷静でいられないだけなので」


 乙姫は小さく身をよじって僕の手を肩から外すと、ドアを押し開けて、そそくさと共用通路を歩いていく。


 室内に入り込んでくる外気は冷たかったが、僕は乙姫を追って、部屋着のままサンダルを履いて外へ出る。


 足早どころかほとんど走るような速さで、乙姫はもう十数メートル先の階段を降りようとしていた。


「乙姫!」


 自分でも驚くくらい大きな声だった。ご近所迷惑かなと一瞬思うが、乙姫が立ち止まって振り返ってくれたのだから、それ以外のことはどうでもよくなる。


「誤解しないでください! 後悔とか、そういう気持ちはありませんから! 本当に、一切、ないですから!」


 乙姫の返事もまた、こちらが驚くくらい大きかった。

 掲げた左手の薬指に、光を反射してきらめくものが見える。


「あと、プレゼント! ありがとうございました。本当にうれしいです。一生、大切にします!」


 きびすを返して階段を下りていく乙姫を、僕はもう追いかけない。


 いつもはたくさんの単語を駆使してこちらを責め立てる彼女の、いつもとは違うシンプルでまっすぐな言葉。それだけで胸がいっぱいだった。

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