第141話 今日のような特別な日
「あたし、大変なことに気づいちゃったんだけど」
ホワイトデーの当日、その放課後。
僕がひとり昇降口で靴に履き替えていると、百代が声をかけてきた。
「バレンタインのお返し、まだヒメに渡してないよね」
「まだ慌てるような時間じゃないから」
「やっぱりキョウ君の部屋でイチャイチャしながら渡すの?」
「いやね? 決してそういうつもりじゃなかったんだけどね?」
と僕は弁明する。本当にそんなつもりはなかったのだ。
お返しの品が指輪というだけでもすさまじく重いのに、学校だと万が一、誰かに見られる可能性もあって、とても落ち着いて渡すことなどできない。
せめて人の来ない静かな場所をと探してみたが、今日のような特別な日は、どこも先約でいっぱいだ。考えることはみんな同じらしい。
そうこうしているうちに、気がつけば放課後になっていたというわけだ。
「ふーん、まあ、さすがに学校で渡すのはためらっちゃうよねえ」
「もしかしてお返しの品について何か……?」
「想像はできてますよぉもちろん」
ししし、と百代は手のひらで口元を隠して笑う。百代・乙姫のホットラインにかかっては、僕の個人情報など雑談のネタに等しいのだろう。
「ヒメはなんだかんだ言って、キョウ君がシスコンなことを気にしてるんだから」
百代はちょっと聞き捨てならないことを言う。
「……シスコンってそんなに悪いことかな」
「え? どしたの急に。開き直り?」
「いやいや、シスコンというのはシスターコンプレックスの略で、コンプレックスという単語には複雑という意味がある。姉や妹への複雑な感情っていうのは、どこまで行っても家族愛の範疇なんだよ。だから何も不純じゃない」
「えー……」
と百代は納得していない様子でジト目を向けてくる。むしろ不信感が深まっている感じだった。
「もしかして、シスコンとロリコンを同列に見てるんじゃないの?」
「うん」
「それはひどい誤解だよ、幼女へ向ける複雑な感情なんて劣情しかないじゃないか」
「そうなの?」
「たぶん」
「ロリコンの人じゃないとわかんないかぁ……」
「ちょっと百代、今のご時世そういうの洒落にならないから、あまりロリコンロリコン連呼するのは止めた方がいいよ」
「大声で何言ってんだよあんたら……」
横合いから平坦な声が聞こえて振り返ると、ブレザー姿の他校生が立っていた。生意気そうな細面に、今は呆れの表情を張りつけている。
「おっ、明君じゃん、どしたの?」
百代がことさら明るく話しかけると、明君はぎくりと口元を引きつらせる。
乙姫から話を聞いているので、こちらはそれだけの動きで事情を察してしまう。
そう、このお義兄さんにはお見通しなのだよ、と一段高いところから見下ろすような心持ちでいると、明君はこちらを一瞥して舌打ちをひとつ。
小生意気な態度であるが、それもまた、百代への感情を思えば仕方のないことだ。僕に反感を覚えることもあるだろう。もっともっとソワソワして、うろたえるがいい若人よ。ふふ。
「何? ケンカ?」
無言で視線をぶつけている僕と明君を、百代は交互に見て首をかしげている。
「あ、そっか、お義姉ちゃんへの複雑な感情! つまりシスコン同士のシンフォニーってやつでしょ」
「何その交響曲……」
第一楽章『妹』、第二楽章『姉』みたいな感じだろうか。
「ああ、もしかしてシンパシー?」
「そうそれ、たぶん。でも、もしかしたらテレパシーかも」
もう訳がわからない。
「あ、俺シスコンじゃないんで。……そんなことより、百代さん。これ、バレンタインのお返しです」
百代の突拍子のない発言に惑わされていた明君だったが、我に返るとポケットから手のひらサイズの薄い箱を取り出した。どこか海外のブランドの、小洒落た外装の洋菓子だ。
マズいぞ赤木、と僕は心の中で友人に警告する。先日、赤木のプレゼント選びに付き合わされたのだが、3時間ほどショッピングモールをうろついて悩みぬいた末にあいつが選んだのは、量ばかりが多い缶入りの菓子折りセットという、色気より食い気と言わんばかりのお返しだった。
それに比べて明君のプレゼントはスマートで女子受けもよさそうだ。インスタ映えも間違いなし。初っ端からセンスの差を見せつけられた格好だった。
「おーっ、なんか格好いい、ありがとね! ……でも、わざわざ学校まで来てくれなくても、ヒメに渡してくれたらよかったのに」
「直接、渡したかったんで」
「そお? 律儀なんだねぇ」
「あの、百代さんって、本命、とか、渡したりしたんですか」
――い、行ったぁー! 早くも行きおった!
出会ってからまだ数か月しか経っていない上に、直接顔を合わせたことなど数えるほどしかない相手に対して、なんという積極的なアプローチか。繭墨明おそるべし。姉弟そろってとんでもない傑物だぜ……。
傍から見ていた僕は、バトル漫画のコマの隅っこで解説する人みたいなテンションになってしまったが、当の百代はというと、なんでそんなこと聞くのかなぁ、とばかりに首をかしげていた。
「本命? んーん、そういうのは、今年はいないよ」
「そうですか」
「あたしぜんぜんモテないし、かわいくないし、そういうことに縁がないんだよ」
百代は頭をかきながら弱々しい微笑を浮かべる。いくつかの失敗や失恋が、百代曜子という元来前向きな女の子を、後ろ向きで卑屈にしていた。その有様には心が痛んだし、否定の言葉の一つもかけてやりたいと思う。だけど今は僕の出番じゃない。
明君が一歩踏み出した。
「そんなことないです」
と力強く断言する。二人の距離は50センチも離れていない。
「百代さんはかわいいと思います」
「ふぇ? ……ええっ!?」
「モテてますよ。気づいてないだけです」
「ま、またまたぁ、そんな調子のいいこと言って……」
「ことあるごとに声をかけてきたり、何かと理由をつけて百代さんを手助けしようとする男子、心当たりあるんじゃないすか」
百代は黙り込んだ。彼女の脳裏には誰かの姿が浮かんでいるのだろうか。目の前のやたらと積極的な男子の印象が強すぎて、かすんでしまっていなければいいが。
「そういうの、ぜんぶ下心ですよ。だから、その……、自信、持ってください。好きな人が自分のことを悪く言ってるのって、あんまり、いい気分じゃないんで」
「え……」
「じゃあ、そういうことなんで」
明君は言うだけ言うと、回れ右して足早に立ち去ってしまう。クールに決めたかったというよりも、顔が赤くなっているのを見られたくなかったんだろう。
残された百代は、明君の後ろ姿が見えなくなるまで見送ったあと、学校の方を振り返り、それから、僕の方へとすがるような瞳を向けてくる。
「ねえキョウ君、さっきの話……」
「僕からはなんとも言えないよ」
我ながら素っ気ない切り返しに、百代は頬を膨らませ、ふぅー、とため込んだ空気を吐き出した。
「超つめたい……。……でも、そうだね、ちょっと考えてみるね」
そうつぶやく百代は、ついさっきの動揺が嘘のように、穏やかに凪いでいた。その横顔は今までで一番ではないかというくらいに大人びていて、うっかり見とれてしまった。少しだけ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
アパートに帰りつくと、部屋の前に制服姿の乙姫が立っていた。
下校の際に約束をしていたとはいえ、本当に来てくれていたことに、ひとまず安心する。何しろ彼女が部屋にやってくるのはひと月ぶりだし、前回のバレンタインデーでは非常に気まずい別れ方をしてしまっていたのだ。
その理由も聞けないまま、ずるずるとこの日を迎えてしまっていた。
3月半ばとはいえ夕方はまだかなり冷える。共用通路でぽつんと所在なさげにしている乙姫の姿に、少し罪悪感を覚えた。
合鍵を持っているくせに、どうして中で待っていないのだろう。もっともあれは、僕が渡したわけではなく、百代から預かったものを無断で借用し続けているのだが。又貸しの上に借りパクという、割ととんでもない流出経路である。
「先に入っててもよかったのに」
「寒空の下で女の子を待たせていると、申し訳ない気持ちになるでしょう?」
僕の疑問に乙姫はにこりと微笑む。
こちらの罪悪感をあおって、その後のやり取りを有利に運ぶ狙いである。つまり、いつもと同じやつだった。
部屋に入ると僕がコーヒーを淹れて、乙姫は買ってきたケーキを小皿に取り分ける。話題はコーヒーの品評や、さっきの明君の武勇伝など。
だけど、その裏ではお互いの出方を探っている。
テーブルを挟んで向き合っていても、視線は意図的に合わせないようにしていた。
目は口ほどにものを言う。
目が合ってしまうとこちらの、感情が筒抜けになるような気がするからだ。
今日は特に気を遣う。
細い指先や、身じろぎする肩、肩にかかる黒髪を――彼女の輪郭を視線でなぞる。
乙姫が座る姿勢を正したとき、僕はちょうど彼女の耳元のあたりを見ていた。
――視線が重なる。
騒々しかった教室が不意に静まり返るのに似た、前触れのないシンクロが合図。
「バレンタインのお返しだけど……」
「その前に、お返ししておくものがあります」
ポケットの中の小箱を取り出そうと動かした手は、乙姫の言葉によって遮られる。
「……何か貸してたものがあったっけ」
「貸し借りではありませんが」
乙姫が差し出したのは、一見するとキャラメルやキャンディの箱のようだった。
あるいはロングサイズのタバコのケースにも見えた。
派手な色遣いのシンプルなデザインからは、商品の情報をなるべく排そうとする意思が感じられる。
それにはスキンだとかゴムだとか家族計画だとか、いくつもの呼び方があるが、もっとも端的で無機質な名称を使うならば、避妊具、といわれるものだった。
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