第139話 わたしたちの指輪物語 上

 バイト代も入って、ある程度資金の目途がついたところで、現物の下見に向かうことにした。

 とはいえ、指輪を扱っている店なんて限られている。


 商店街に行けば敷物の上にアクセサリーを並べた露天商をたまに見かけるが、その手の店の品はデザインがゴツくて、ヤンキーがメリケンサック代わりに使って血まみれになっているイメージしかない。不良マンガの読み過ぎだろうか。


 かといってデパートの宝飾品売り場なんて、高校生が立ち入れる場所じゃない。


 結局、僕がお世話になるのはOZONオゾンモールの専門店街である。デパートより敷居は低いものの、宝石店へ踏み込むには多大なる勇気が必要だった。


 もっとも、踏み込むとは言っても、通路と店舗の境界ギリギリで、ショーケースを覗き見るのが精いっぱいだ。どうしても冷やかしっぽい行動をしてしまうが、見た目の時点で客扱いはされないだろう。一応、いちど部屋へ戻って服を着替えてきている。手持ちの服の中ではいちばん落ち着いたものを選んだが、社会人一年目に見られたら万々歳、よくて大学生までだろう。


「何かお探しでしょうか」


 声をかけられて、思わず身体が固まってしまう。人は見た目ではない、という綺麗ごとを真っ向から否定しているような、すらりとした綺麗な女性店員だった。


 乙姫も同年代の女子の中では相当に大人びた容姿をしているけれど、本物の大人の女性と比べると、やはり幼いものなのだな、なんて思ってしまう。


「……ええと、指輪を探してるんですけど」


 予算と、送りたい相手のイメージと、漠然としたデザインの要望など、こちらのフワッとした説明に、女性店員はじっくりと耳を傾けてくれた。子供のくせに背伸びして、なんて顔はしていなかった。内心はどうあれ、さすがはプロである。


 そして、これなどいかがでしょう、と見せられた指輪サンプルは、僕の思い描いていた以上のものだった。これならきっと似合うだろうと、乙姫の指にはまったところを想像して半笑いになってしまう。


「では、お客様、サイズの方は」


 そう尋ねられて、頭が真っ白になる。


「サイズ……?」

 

 サイズ、指輪のサイズ、つまり指の太さ……、そんなデータは持ってない。いつかつないだ手のことを思い出してみる。乙姫の手は僕よりも少し小さくて、丸みがあってやわらかくて、そして冷たかった。いや体温は関係ないか。


「たぶんこれくらいで……」


 自分の指よりもやや細めと想定して指先で輪っかを作ると、女性店員は申し訳なさそうな苦笑いを浮かべる。


「指輪のサイズ調整は基本的にやり直しがきかないものですので、なるべく正確なサイズを計ってからの方がよろしいと思います。あとでサイズが合わなかった場合、その、ケンカの原因になってしまうカップルもいらっしゃいますので……」


「ですよね……、出直してきます」


 ジュエリーショップを出てしばらく歩いていると、遅ればせながら身体のあちこちに汗をかいていたことに気づく。緊張していたことがはっきりわかった。フードコートでひと休みしていきたかったが、今日はまだ予定がある。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 その日のアルバイトは今ひとつ集中できなかった。慣れないジュエリーショップでのやり取りで疲れていたせいもあるが、すれ違う女性客の薬指にいちいち目が行ってしまい、注意力が散漫だったことも理由のひとつだろう。

 最近では宝石のCMが流れるだけで手が止まってしまうし、指輪というものに意識がかなり引っ張られている。


 不完全燃焼な業務を終えて店を出ると、向かい側の歩道にコート姿の女性が立っていた。


「あれ、乙姫? どうしたのこんな時間に」


 声をかけながら近づく。彼女はなぜか私服姿だった。


「この辺りに用事があっただけです。夕食がまだなんですが、鏡一朗さんは?」

「僕もまだだけど」

「それなら、そこのファミレスでもどうですか」


 疲れ切っていて、自炊する気力もない。そういうときにお世話になるスーパーの値引き総菜も、今日は良いのが残ってなくて買っていない。何より、乙姫の誘いだ。断る理由はなかった。


「もちろん」

「では行きましょうか」


 その上、指輪のサイズを探るチャンスが早々に訪れたのだ。この機会を逃すわけにはいかない。……でも、どうやって計ればいいのだろう。店員さんにテクニックを教わっておけばよかった。目で見てわかるものでもないし、直接、触ってみるしかないのか。


「……今日も寒いね」

「そうですね」

「特に手が寒いね」

「手の感じ方には〝寒い〟ではなく〝冷たい〟を使うものですよ」

「痛いくらいに冷たいね」

「大げさじゃないですか?」

「暖まりたいなぁ」

「ポケットがあるじゃないですか」


 僕の彼女は冷たかった。


「あのー、乙姫さん、手をつなぎませんか」


 諦めて声をかけると、乙姫は大げさにため息をついた。

 暗闇に白いもやが広がって、溶けるように消え失せる。


「わたし、乙女っぽい言動はあまり好きじゃないんです」

「自分がもうピュアじゃないから?」

「そういう風に考えているならまだまだですね。乙女って結局は仮面ですよ。初心な顔の裏側で何を考えているのか、わかったものじゃないですから」


 僕のささやかな企みをすべて見通しているかのような物言いに、ぎくりと顔が引きつってしまう。


 が、その直後、僕の右手はやわらかなものに包まれる。


「だから、率直に言ってくれた方が、素直に聞く気になります」


 乙姫の方から手をつないでいた。男気を感じる積極性に、これじゃどちらが男かわからないな、と苦笑してしまう。


「乙姫って手が冷たいよね」

「体温がそもそも低いみたいなので」

「ああ、そういえば」

「手が冷たい人は心が温かい、という歯の浮くようなセリフを使わないんですか」

「正直あの話ってちょっと疑わしいよね」

「どうしてわたしを見ながら言うんですか」


 冷たかった乙姫の手に、僕の体温が伝わって、同じ温度になっていく。気持ちが穏やかになってるのは、僕だけじゃないはずだ。僕らは言葉や態度だけじゃなく、ときには熱量保存の法則によっても感情を交わしている。


 手のつなぎ方を少しずらして、僕の手の中にある乙姫の手を、その指の形を、じっくりと確かめるようにつまんでみる。いま触れているのはどこの指だろう。あまりじろじろ見ると怪しまれるので、歩きながら視線は前を向いている。


「あの、鏡一朗さん?」


 乙姫が怪訝な顔でこちらを見ていた。


「ん?」

「……指をコリコリともてあそぶのは、何かのまじないですか?」

「え、いや、うん、マッサージのようなものかな」

「そうですか」


 乙姫はそっと手を離すと、三歩ほど遠ざかった。


「……あの、ちょっとキモいのでやめてくれませんか」

「キモい!?」

「はい、率直に言ってゾッとします」

「底冷えするような寒さだからね」


 乙姫からの返事はなかった。


 二人の間の空気はあっという間に冷え込んでしまって、エントロピーが感情に左右されることを証明していた。遠くに見えるファミレスの画一的な看板の光が、とても暖かく見えた。

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