第137話 知り合って2回目、そして付き合い始めて最初の


 バレンタイン当日は平日だった。


 学校では特に何事もなかった僕たちは、放課後になると一緒に下校し、夕食の材料を買って部屋へ戻ってきた。


「ごめんなさい鏡一朗さん」


 部屋へ入ってきた乙姫にいきなり謝られてしまった。


「それは、何について謝ってるの」


 僕はあらゆる悲劇的な可能性を想像しつつも、平静を装って問いかける。


「先日の『ヨーコと赤木君を近づけよう大作戦』を放棄してしまったことです」

「ああ……、それね」


 その場にしゃがみ込みそうになるのを堪えて、大したことないさと軽く笑う。


 あれは元々、そこまで気合の入った企てではなかったのだ。それに、あの二人は僕たちが働きかけるまでもなく、以前よりも親しくなっているようだった。休み時間に一緒にいるのを見かけることもよくある。


「まあ、2人のことは様子見でいいんじゃないの」

「そうはいきません」

「なんで」

「義弟が……、明がヨーコに懸想けそうをしているようなんです」

「また古めかしい言い方を」


 百代と明君は全くの赤の他人というわけではない。以前、僕と百代と3人で会ったことがある。それがきっかけだったのだろうか。


「どこかで会ったの?」

「え?」

「明君と百代」

「……ええ、この前ヨーコと買い物をしていたときに、ショッピングモールでばったりと。そのときの様子が怪しかったので、帰ってからいくつか質問をしました」

「家族に対して詰問とは感心しないな……」

「質問です」


 乙姫は訂正するが、それは彼女の自覚でしかない。乙姫が質問というときはだいたい詰問だし、詰問というときは尋問のレベルで考えた方がいい。


「で、明君は正直にしゃべったの?」

「否定していましたが、あの様子では真っ黒ですね」

「へえ」

「わたしは基本的に明の味方をするつもりです。謝罪にはその意味もあります」

「ああ……」


 僕は納得してうなずいた。身内を贔屓するのは仕方のないことだ。それに今は家族になりたての相手に、義姉としての力を見せておきたいという打算もあるだろう。


「ヨーコにお義姉ちゃんと呼ばれるのを想像すると、それも悪くないなと思ってしまいます」


 動機を読み違えてしまった。あと気が早すぎる。


「百合百合しいことを……」


 百代と乙姫の未来はさておき。

 乙姫と知り合って2回目の、そして付き合い始めて最初のバレンタインである。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 それなりに豪華な食事が終わり、いつもなら食後のゆるい雰囲気が漂うところだが、なぜか乙姫は逆に張りつめていた。


 手のひらサイズの小箱をカバンから取り出すと、それを危険物でも扱うかのような慎重さで、そっとテーブルの上に置く。


 箱を開けると、中から現れたのは漆黒の塊。

 つややかなコーティングがなされたチョコレートケーキだった。


「おお……、すごいね」


 自然と驚きの声がこぼれる。


「ザッハトルテというチョコレートケーキです」

「うん」

「ザッハトルテです」


 なぜ二回言ったのかと乙姫を振り返ると、彼女は神妙な面持ちをして、立ったままでじっとこちらを見下ろしている。


「乙姫?」

「どうですか」

「見た目だけですごいね、食べるのがもったいないくらい……、これ、乙姫が作ったんだよね」


 料理が上手なのは思い知っていたが、お菓子作りも得意だったとは驚きである。素直に感心してしまうが、乙姫の方は、どうってことありませんよ、とでも言いたげなすまし顔をしていた。


「じゃあさっそく」


 果物ナイフでザッハトルテを切り分けようとすると、ひょい、と皿ごと移動させられてしまい、危うくナイフが机に刺さりそうになる。


「……なんの遊び?」

「この美しい芸術品のごとき至高の一品が胃袋に収まる前に、もう少しの間、その目に焼きつけましょう」

「え、うん。……もう少しの間ってどれくらいの間?」

「あなた次第です」


 時間の流れはそれぞれの感じ方次第という相対性の話だろうか。違うな。


 僕からはあえて何も言わなかったが、これは去年、千都世さんが贈ってくれたチョコケーキとまるっきり同じものだ。それに対して乙姫は感想を求めているらしい。


 ただ褒めるのでは不足のようだ。それだけではいつまでたっても、目の前のザッハトルテはナイフをよけ続けるだろう。


 千都世さんとの比較なんて、触れてはいけない話題だとばかり思っていた。


 でも、それは僕の一方的な腫れもの扱いに過ぎなくて、乙姫はむしろ触れてほしかったのかもしれない。触れるというか、上書きするというか、すり潰すというか、とにかく、明らかに評価を欲していた。たぶん、千都世さんを超える評価を。


 こちらはそんなこと気にしてないし、比べるつもりなんて端からない。


 だけど、きみがそれを欲するのなら。僕が与えられるものなのなら。差し出しましょう、おべっかのような言葉でも。客観性など関係ない、僕にとっての真実を。


「千都世さんのよりも、綺麗にできてるよ」

「そうですか」


 乙姫は感情を排した静かな声でそう言って、ザッハトルテの皿から手を離した。おあずけタイムは無事に終わったらしい。


「――では、どうぞ食べてください。わたしはコーヒーを淹れますから」

「ん、苦めのやつを頼むよ」


 台所へ向かう乙姫の背中に告げると、わかってますよ、と一転して弾んだ声が返ってくる。


 乙姫は小さな銀色のポットを持参していた。脱着式の中身にコーヒー粉を敷き詰め、お湯を沸騰させてコーヒーを淹れる。エスプレッソ専用のポットらしい。


 沸騰したお湯の圧力で抽出されたコーヒーは香りが強く、そして泡立っていた。


 ザッハトルテとエスプレッソの相性は抜群だった。チョコの甘みをエスプレッソの苦味で緩和することで、口の中が甘み一辺倒になることなく、いくらでも食べられる。ビター&スイートの無限ループだった。


 食レポのような感想を述べると、乙姫も身を乗り出して嬉しそうにうなずいた。


「でしょう? ですよね? 鏡一朗さんならわかってくれると思っていました。ああ、このところ否定されることが多くて不安だったのですが、コーヒー万歳、エスプレッソ万歳、カフェイン万歳ですよね」


 カフェインがキマったのか、ずいぶんとテンションを上げていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 やがて、決して小さくはないザッハトルテを二人で食べ切ると、食後にエスプレッソではない普通のコーヒーを淹れてもらった。


 バレンタインの小パーティはこれにてお開きの時間である。

 2月の日没は早く、外は完全に夜の色だ。バス停まで送っていこうと考えながら、僕は洗い物を片付けている。乙姫が料理をし、僕が洗い物をする、という役割分担がほぼパターン化していた。


「鏡一朗さん、このダンボールはなんですか?」


 ベッドに座って休んでいた乙姫が、部屋の隅に置いてあるダンボールを指さした。


「ああ、実家からの仕送りだよ」

「これがあの有名な……」


 乙姫が神妙な声を出す。


 親元を離れて暮らす人にはおなじみなのだろうが、実家暮らしだと一生縁のない代物、それが仕送りダンボール箱だ。阿山家の場合は、畑で取れた野菜や、日持ちのするレトルト食品、あとはその場で思いついたに違いない適当な雑貨などが、すき間なく詰められている。

 昨日の夜に届いたばかりで、まだ荷解きをしていなかった。


「片付けましょうか」


 乙姫の提案に少し考える。別にやましいものは入っていないだろう。ただ、仕送り箱の中身を見せるというのは、阿山家の内情そのものを晒しているみたいで気恥ずかしかった。でもまあ、それを断るような関係でもないか。


「じゃあ、よろしく」

「任せてください。……へえ、こんな風になっているんですね」

「大根とか入ってない?」

「はい。あまり形がよくないですね」

「素人の作ったものだから」

「タオルが入っていました」

「ああ、どうせ余った引き出物をクッション代わりにしてるんだよ」

「なるほど。……手紙はどうしますか」

「そのまま箱の中に置いといて」

「わかりました」

「他には?」

「……っ」


 小さく息を飲むような音が聞こえた気がした。

 やり取りが唐突に途切れる。


 洗い物を続けながら、乙姫の方を見やる。

 彼女は正座を崩した女子っぽい座り方をして、こちらに背中を向けたまま、じっとダンボール箱をのぞき込んでいた。


「どうしたの?」

「……いえ、何もありません」


 乙姫はそう言うが、その後の態度は何もないわけがないくらいぎこちなかった。


 洗い物を終えてテーブルの方へ移動すると、乙姫は僕との距離を保つように、窓際へと後ずさりする。おかしな動きだ。


 ベッドに腰掛けると、びくりと肩を震わせる。


「どうかした?」

「いえ、いいえ……」


 奇妙に思い、その原因を探してダンボール箱を漁ってみるが、特におかしな点は見当たらない。中身は綺麗に片付けられていて、いつものメッセージ入り封筒だけが未開封のまま入れられている。


 乙姫を振り返ると、彼女はふいっ、と顔を背ける。

 まるで磁石の同極になってしまったみたいだと思う。


 その動きがただ気になって、僕は乙姫に近づいていく。


 そのぶん乙姫は遠ざかる。窓から壁に沿ってすすすと移動する。ますます磁石のよう。恋人が相手だからとかではなく、単純な遊びに夢中になる子供みたいに、あるいは弾むボールに心奪われる猫みたいに、僕は彼女を追いかけた。


「どうしたの」

「なんでもありません」


 とはいえ狭い部屋だ。すぐに追いついてしまう。


「何もないってことは――」


 眼鏡にかかる前髪の1本1本までわかるくらい近寄って、思わず息をのんだ。

 ようやく、彼女の様子の奇妙さの、本質に気づく。


 乙姫の頬は薄く朱に色づいていた。瞳が潤んで、揺れていた。


 強く意識しているのだ、と思った。

 バレンタインという特別な日を。

 恋人の部屋で二人きりでいることを。

 食事を終えてデザートを食べて、外はもう夜になっていることを。

 そのあとの流れのことを。

 意識している顔だと思った。


 スポンジでも突っ込まれたみたいに、口の中が一瞬で干乾びる。視線は唇に釘づけだ。ごくり、と喉が鳴った。キスをしたいと思う。このキスは、今までのそれとはまったく意味の違うものになる。吸い寄せられる。


「あっ……、も、もう帰らないと!」


 あと十数センチというところだった。


 乙姫はわざとらしく大きな声を上げながら、すばやく僕の脇をすり抜けた。壁にかけてあったコートをひったくるように手に取って、ドタドタと普段めったにさせない足音を立てて、短い廊下を玄関口へと逃げるように向かう。


「そ、それじゃあ、わたしはこれで」

「もう暗いし、そこまで送ってい」

「――大丈夫です! 今日は、あ、ありがとうございました!」


 こちらを拒絶するように閉じた扉を、ぼんやり眺めることしばし。

 部屋の中を振り返ると、ポットやらカバンやら、乙姫の持ってきた荷物の多くが残されたままだ。


 やってしまった。


 乙姫の変化は――あの思わせぶりな態度は、こちらの勘違いだったのだろうか。


 何が悪かったのか、どうすればよかったのか。単に急ぎ過ぎたのか、そもそも向こうにそんなつもりはなかったのか。


 目隠しをして砂漠に放り出されたみたいに、何もかも、本当にわからなかった。

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