第136話 事情を訊かないわけにはいきません
我が家のキッチンの広さは尋常ではありませんが、それにも限界はあります。
ようやく調理がひと段落して、キッチンはさながら戦場跡の様相。チョコレートの欠片や調理器具などで雑然としています。
曜子が陣取っている周辺が特にひどいですが、わたしの方も似たようなものです。お菓子作りの勝手がわからなかったため、手際が悪く、あちこち汚してしまっていました。パウダーがこぼれ、台の上で生地が固まり、チョコの欠片が散乱しています。お義母さんが帰ってくるまでにきちんと片付けないと……。
とはいえ、まずは試食です。散らかったテーブルの一部を強引に空けて、試作品を並べていきます。
曜子が作ったのはチョコブラウニー。
市販のチョコレートを溶かして、いくつか混ぜ物をしてから、型に流し込んでオーブンで熱し、それを冷ましたもの――と言葉にすると簡単そうに聞こえますが、温度や分量などには細心の注意が必要なようです。
「溶かしたチョコはすっごく熱いから気をつけないとねー」
「計量はきちんとしないと仕上がりがダメになっちゃうからねー」
曜子は独り言をつぶやきつつ、たどたどしい手際ながらも作業自体はゆっくり丁寧にやっていました。お菓子作りへの意識の高さに驚いてしまいます。
一方わたしはというと、レシピの段階から困惑しきり。メレンゲ、テンパリング、グラサージュ――謎の単語のオンパレードをどうにか解読しつつ作業を進め、ようやく完成にこぎつけました。
しかし、各工程に時間をかけすぎてしまったことが、完成度の低さにはっきりと表れていました。
土台であるチョコレートケーキは誤魔化せたのですが、それをコーティングするグラサージュショコラがどうにも上手くありません。漆のようなツヤがなく、のっぺりとしており、時間が経つと表面がひび割れてくるありさま。色味も薄い気がします。漆黒感がありません。
不出来ななんちゃってザッハトルテを前にため息をついていると、曜子にポンポンと肩を叩かれました。
「大丈夫だよヒメ、大切なのは見た目よりも味だから」
「駄目よ、こういうお菓子はまずビジュアルで威圧できないと」
「言葉にスイーツ感がない……」
曜子は呆れつつも、ザッハトルテとチョコブラウニーにナイフを入れて切り分けていきます。
「それじゃ、いただきまーす」
「いただきます」
わたしは先にチョコブラウニーを頬張ります。
生チョコとクッキーの中間のようなしっとりした食感と、生地とチョコチップの調和が生み出す濃厚な甘みは、苦めのコーヒーとの相性が抜群でした。我ながら素晴らしい一杯が淹れられたのではないでしょうか。
ここに鏡一朗さんがいたら、どんな顔をして食べて、そして飲んでくれるのだろうかと、気の早いことを考えてしまいます。
「苦ッ、このコーヒー苦ッ! ねえヒメ、分量間違ってない?」
曜子はこちらの感慨などお構いなしです。ガムシロップを3つも開けて、なおも顔をしかめていました。
「……いいえ、これがベストよ」
「でもなんか泡立ってるんだけど」
「エスプレッソだもの」
「
「何に納得したのかは知らないけど、たぶん勘違いよ」
「容赦のない苦さがヒメっぽくて、キョウ君もきっと
「漢字を間違っているわよ。きょ……、阿山君の性癖は置いておいて、味の方はどう?」
「ん、美味しいと思うよ」
「では、見た目は?」
「うーん……、やっぱり、千都世さんのやつには及ばないのかな。あれってチョコの表面が鏡みたいにツヤツヤで、顔が映り込んでたくらいだから」
「そう……、さいわい、ツヤを出すために必要なのはラストのコーティングの善し悪しだということがわかったから、もう少し試行錯誤してみるわ」
わたしはわずかに残っていたコーヒーをぐいと飲み干して、もう一杯淹れようと立ち上がります。
そのタイミングでキッチン入口の扉が開いて、男の子が現れました。
繭墨明。父の再婚相手の連れ子であり、先日、義理の弟になった一つ年下の男の子です。わたしたちがいると思わなかったのか、ぎくりと身体をこわばらせます。家の中では表情の変化が乏しい子なのですが、今ははっきりと顔をしかめています。間の悪いところに来てしまった、と悔やんでいるのでしょう。
「あ……、義姉さん、と」
「明君じゃん、ひさしぶり!」
明の態度などお構いなく、曜子が気さくに声をかけます。……ひさしぶり?
「ども……、おひさしぶり、です」
明の方も、ぎこちないながらも挨拶を返します。こちらもですか。
2人が知り合いだったことに驚いていると、曜子はわたしの不出来なザッハトルテが乗った皿を明に差し出しました。
「これ、どう? 美少女が作ったバレンタインスイーツ、の試作品」
「あ、じゃあ……、有り難くいただきます」
明はクレーンゲームのアームのように、おっかなびっくりした動作で皿を受け取ります。思いのほか素直な態度でした。
わたしと明の姉弟仲は、残念ながら良好とは言えません。いがみ合っているわけではないのですが、親しく言葉を交わすこともない。赤の他人が距離感をつかめず一つ屋根の下にただいるだけ。そんなぎこちなさが、再婚当初から続いています。
ところが、曜子と言葉を交わす明の態度は、いくらか穏やかなように見受けられます。
「……うまかったです」
「でしょ? これはヒメ――乙姫お姉さんが丹精込めて作ったんだから。……彼氏のために、って注意書きがくっついちゃうんだけどね」
曜子の説明に、明はまた表情を固くします。余計なものを食べてしまった、とでも言いたげな顔です。
「そうすか」わたしの方を向いて、「ごちそうさま」
実に素っ気ない口ぶりです。まあいいですけどね、別に。
曜子への義理を果たしたところで、すぐに出ていくと思っていましたが、なぜか明はその場で立ち尽くしていました。
そして、意を決したかのように口を開きます。
「あの、百代さん」
「なあに?」
「そっちのモコモコしたチョコは」
「ああ、これ? チョコブラウニーっていうんだよ」
「それは百代さんが作ったやつなんですか」
「そうだよ」
「……そっちも、もらっていいすか」
明の積極的な申し出に、わたしは少なからず驚いていました。
しかし曜子は残念ながら、明の言葉に食欲以外の意味を見出さなかったようです。笑顔をさらに輝かせてうなずきます。
「もちろん、育ち盛りの男の子だもんね。っていうかあたしたち二人だけで食べたらやばいよね、カロリー的に」
曜子の態度はまるで小学生の男の子を相手にしているかのよう。実際のところ、明との歳はひとつしか離れていません。曜子には弟がいたはずなので、明に対しても同じような感覚で接しているのでしょう。
ただ、
思春期男子のプライドを無自覚にズタズタにする天然年下ブレイカーと化した曜子は、無邪気な笑顔でコーヒーカップを掲げてみせます。
「あ、コーヒーいる? ドSな味だけど」
「いや……、義姉さんのコーヒー、俺の舌にはキツいんで」
「だよねー」
ほう……。
「チョコうまかったす、ありがとうございました」
「これは試作品だから、本番に期待しといて。ヒメに渡しておくから」
「あっ、はい……、ども……」
バレンタインチョコの確約に少しだけ顔を上げたものの、浮かない表情は変わらず。明は歯車をいくつか失ったロボットのようにぎこちない足取りで、キッチンから出ていきました。扉の閉まる音もどこか空虚に聞こえます。
わたしは自分でもわかるくらいの苦笑いを浮かべていました。なんてわかりやすい態度でしょうか。家族になって初めて、義弟をかわいらしいと感じました。
曜子の友達として、そして何より義姉として、これは事情を訊かないわけにはいきませんね。
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