第135話 これを超えたい
曜子の恋路はとても大切なことですが、今年のバレンタインに関してはそれ以上に重要なことがあります。
その日の放課後、帰り支度をしている曜子に声をかけました。
「ねえヨーコ、ええと、その……」
「どしたのヒメ、変な動きして。おなか痛いの?」
失礼な勘違いに思わず絶句してしまいます。
重要すぎて率直に言い出せない奥ゆかしさに対して、随分な反応ですね……。
「……あなたのスマートフォンに、去年の写真って残ってる?」
「去年のいつの?」
「バレンタイン……、よ」
「バレンタインに写真なんて撮ったっけ」
「ほら、綺麗なチョコケーキの写真があったじゃない」
「チョコケーキ、チョコケーキ……、あ、千都世さんが贈り付けてきたやつでしょ。ザ・なんとかっていう」
「ザッハトルテよ」
わたしはすぐに訂正します。
ザ・なんとかってなんですか。ザしか合っていません。
曜子は画面をすいすいと滑らせて、目的の写真を探し当てます。
「あったよー。はい、これでしょ」
「ええ、ありがとう」
わたしが画面を見ようとすると、曜子はスッとスマートフォンを遠ざけて、
「で、ザッハなんとかになんの用なの?」
といたずらっぽい笑顔で聞いてきます、明らかにわかっている顔です。
わたしはため息をひとつついて、
「去年のバレンタインのことを覚えているかしら」
「うん、もちろん」
曜子は少しだけ影のある笑顔でうなずきます。
去年のバレンタイン前日、曜子はチョコを手作りする名目で鏡一朗さんの部屋の台所を借りるという、今にして思えばずいぶんと大胆な行動を起こしました。
しかし、それによって見なくてもよいものを目にすることになります。彼の部屋に届けられた、義姉からの気合の入ったプレゼント。
それが今、曜子のスマートフォンに写っているザッハトルテです。控えめに見ても、専門店の店先に並んでいてもおかしくない出来栄えですし、画像を装飾すればギフト用のパンフレットに使えそうなほどのクオリティです。自らの手作りチョコとのあまりの格差に、曜子は当時ひどく落ち込んでいました。
「わたしはね、ヨーコ。これを超えたいと思っているの」
静かに決意を表明すると、曜子は「おお……」と嘆息します。
「……それと、去年のホワイトデーのことを覚えているかしら」
「うん、もちろん」
曜子は少しだけ影のある笑顔でうなずきます。
去年のホワイトデーは、わたしにとっても印象深い1日でした。千都世さんにいろいろと引っ掻き回され、鏡一朗さんが筋金入りのシスコンであることを見せつけられ、……ほかにもいろいろとあった、ある種のターニングポイントでした。
「阿山君の、千都世さんへのプレゼントなんだけど」
「あー……、ちょっと良さげなネックレスだったよね」
わたしと曜子への返礼はせいぜい千円台前半のクッキーだったのに、千都世さんに贈ったネックレスはおそらく2万円は下らないものでした。高校生のプレゼントにしては値が張りすぎていますし、それが義弟から義姉へのものとなると、いろいろと勘繰りたくもなるというもの。
「もしかしてヒメ……、そのプレゼントも超えてやろうとか思ってる?」
「……別に、そんな無理強いはしないけど」
「しないけど、でも千都世さんのケーキより良いものをプレゼントして、無言の圧力をかけようとしてるでしょ。アレより良いものをよこせ、って」
曜子は上に向けた手のひらをぐっと握ります。長き眠りから目覚めた大魔王が「世界を我が手に」などと言いながらやりそうな仕草です。
「阿山君の誠意に期待している面も、ないとは言えないわ」
「ヒメってそういうところあるもんね。負けず嫌いっていうか、でも直で言わないで、相手に察してもらうように仕向けようとするっていうか。流行語であったよね、なんだっけ、どんたく?」
「忖度よ。お祭りをしてどうするの」
「そうそれ」
曜子はどうでもよさそうにうなずきます。しかし、政治のことを〝
それはともかく、とわたしは話を戻します。
「本心はさておき、こちらから要求するのは格好悪いでしょう? だから、これはあくまでも阿山君の方が、勝手に察してくれるだけの話。バレンタインにいくらか上等なものを提示しておけば、3倍返しという謎の因習に従って、お返しのランクを考慮してくれるはずよ」
例えばハロウィンや恵方巻など、時節ごとのイベントは近年、増加・加熱傾向にあります。それらは庶民の消費意欲を増進させるための、大企業や広告代理店などによる雰囲気づくり、ライフスタイルの提示といった小賢しい扇動です。それをさらにSNSが後押ししているのでしょう。
このままでは、月に一度はなにかしらの記念日やイベントが催されるお祭り列島ニッポンが形成される日も遠くなさそうです。
しかし、バレンタインには他のイベントにはない唯一性があります。
ホワイトデーという
バレンタインの
ホワイトデー=バレンタイン×3――いわゆる3倍返しの公式が、いつごろから流布してるのかはわかりません。品のない発想であると軽蔑していたこともありますが、しかし、有名であることには利用価値があります。せいぜい無言の圧力をかけるために使わせてもらいましょう。
「ヒメって本当に面倒くさいね……」
「よく言われるわ」
「で、ザッハなんとか、作れるの?」
曜子は上目遣いにこちらを見ながら首をかしげます。あのクオリティを目の当たりにした彼女だからでしょう、その瞳には気遣うような色がありました。
「……いちど、練習をしないといけないわね。見た目からして難易度が高そうだし、そもそもお菓子作りをしたことがないから。ちゃんと慣れておかないと」
「それって家でやるの? あたしも一緒に練習していい?」
「ヨーコも……?」
「ヒメんちのキッチンすごく広いし、いいでしょ? ね?」
「それは構わないけど……、誰か渡したい相手がいるの?」
鏡一朗さんと相談していた、『曜子と赤木君を接近させよう大作戦』にも関わりのある話です。わたしはそっと探りを入れます。
「今は特にいないけど、なんかほら、一緒にお菓子作りとか、楽しそうじゃん」
曜子は裏表のない笑顔を浮かべます。
わたしとの友情を大切にしてくれていることが、よくわかる言葉でした。
こちらは何も言えなくなってしまいます。
俗っぽい下衆の勘繰りをしたことを、深く反省してしまいます。そして、眩しい光によって浮かび上がる、自らの影の暗さを恥じるのです。
「どしたの? なんか眼鏡が曇ってるけど」
「大丈夫よ、なんでもないわ」
「それじゃあ明日でいい?」
「ええ」
「待ち合わせは?」
「材料を買いたいから、OZONモールにしましょう」
そんな風に週末の予定を話し合うだけで心が弾んでしまいます。
しかし、この選択がバレンタインの計画を大きく狂わせてしまうことになろうとは、このときのわたしには想像もつきませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます