第132話 代わりになりませんか?
乙姫は駅のホームに立ち、僕はまもなく発車する列車の中に立っている。
足場の分だけ二人の身長差が広がっていて、たったそれだけの違いが、やけに遠く感じてしまう。
ブラウンのコートを羽織り、赤いマフラーを巻いた乙姫の口元からは、荒い呼吸に合わせて、白い息が途切れ途切れに吐き出されている。よほど急いできたのだろう。
彼女の方から来てくれるとは思っていなかった。
それは乙姫が薄情者だからではなく、立ち位置の問題だ。
動くのはいつも僕の役回りだった。
高嶺の花は動かない。天上の星は届かない。
だからこちらから近づいたし、手を伸ばしもした。
でもどうして。
まず考えたのは、別れ話のたぐいをしにきたのではないか、ということだった。
乙姫は楚々とした容姿にそぐわず、なかなか行動的だ。アクティブでアグレッシブである。伝えられない言葉を抱えて思い悩むくらいなら、直接会って話をするタイプの人間だ。
ケンカ別れのあと、彼氏からの連絡がないことに愛想を尽かして、別れの言葉を切り出しに来たのかもしれない。そんなネガティブなことを考えてしまう。
見つめ合っていた時間はほんの数秒だった。
「鏡一朗さんは実家へ帰るとき、最寄駅からは車で移動するじゃないですか。だから、千都世さんに何時に迎えに行くかを聞いたんです。そこから逆算して、出発する時間を導き出しました」
こっちが聞いてもいないのに、乙姫は得意げに説明を始める。だけど、そんなことは今日び無料アプリにだってできるし、もちろん僕が聞きたいことでもなかった。
「……ご家族とは?」
「きちんと謝罪しました」
「じゃあ和解できたんだ」
「あれは元々、わたしが一方的に、その、駄々をこねていたようなものですから」
自分の行いが子供っぽかったという自覚はあったのか、乙姫は恥ずかしそうに目を伏せる。しかし、すぐに顔を上げて、
「……それに、内心はどうあれ、再婚相手の子供が謝っているのを、無下にする大人はいないでしょう」
ニヤリと彼女らしい計算づくの笑顔を見せる。
「まあそうだけどね」
「反省の色が見られない、と言いたげな顔ですね……」
「計算高いのは乙姫の長所だよ」
「せめて前向きと言ってください」
乙姫はふぅとため息をつく。白い吐息がコーヒーに溶かしたミルクのように広がって、冷たい空気に溶けていく。
「第一印象が悪かった分は、これからの接し方で挽回するしかありません。いつもどおりの品行方正、真っ当な女子高校生としての暮らしぶりを続けることで、あの醜態は家庭環境の変化に動揺してナイーブな面が出てしまっただけなのだと、徐々に印象を上方修正していくつもりですから」
「前向きなのは確かなのにやっぱり計算高さが……」
「人生において前を向くことは有効なんです。計算の結果、そう思い至りました」
「ここへ来たのも?」
「はい。ごめんなさい鏡一朗さん」
乙姫は言いづらそうに目を伏せて、ほんの少しだけ頭を下げた。
謝罪の言葉に心身がこわばって、続きを聞くのが怖くなる。
「あなたはわたしを心配してくれたのに、感じの悪い態度を取ってしまいました。それを謝りたかったんです」
「……僕も、冷たい言い方だったと思う」
「逃げてきただなんて、ひどいことを言ってしまいました」
「事実だよ」
「千都世さんとのことを蒸し返しました」
「こっちも品のない想像をした」
お互い、ずっと抱えていて、でも、意地を張って明かせなかった思いを、ひとつひとつ、打ち明けていく。まるでチェスや将棋のように――いや、手を隠していたという意味では、ポーカーの方が近いだろうか。
本音を手札に、思慕をチップに。
そして、開示した役はまったく同じものだった。
「……それじゃあ、お互い様ですね」
顔を見合わせて笑いつつ、乙姫の笑顔の性質を確かめる。
笑顔にもいろいろあるが、今のそれは間違いなく〝安堵〟だった。
乙姫も僕と同じように、ずっと不安を抱えていたのだ。それがはっきりわかった。
そのやわらかな表情は、僕の視線を察したのか、すぐにギチリと引き締められる。濡れたタオルが冷たさのあまり一瞬で凍り付いてしまうみたいに。
受けた印象そのままに、乙姫の言葉もお堅いものだった。
「あと……、釘を刺しに来ました」
「釘?」
「信じていないわけでは、ないのですが……、鏡一朗さんは少し、薄情なところがありますから」
一瞬、心を読まれたのかと思った。
「クリスマスイブは新しい家族と過ごしてほしいって、言ってましたよね。だから少しだけ、期待していたんです。もしかしたら、来てくれるんじゃないかって」
「……それは、僕も同じだよ」
お互い、相手が来てくれるのではないかと期待して――甘えていたのだ。
「同じじゃ、ありませんよ」
しかしその共感を乙姫は首を振って否定する。
「わかりませんか?」
乙姫は首をかしげた。肩にかかっていた黒髪がさらりと流れる。
同じ気持ちだと信じていたものが違っていた、という食い違いは、不安を通り越して恐怖に近い。
――新しい
「……それって」
僕のことを、家族と。
こぼしたつぶやきに、乙姫はイタズラを成功させた子供の顔で笑う。
「この手の冗談は、すぐに気づいてくれないと、言ったこちらが恥ずかしくなってしまいますね」
乙姫の言葉をかき消すようなタイミングで発車のベルが鳴り響いた。
「あ、もう出るみたいですね。では、よいお年を――えっ?」
乙姫が小さく振っているのとは反対の手を、僕はつかんだ。
そのまま軽く引っ張ると、ダンスのパートナーのように、ぴたりとこちらの腕の中に納まった。
プシュ、という空気音がしてドアが閉まり、加速度が身体を揺らす。窓の外の景色が流れていく。
「列車、出ちゃいましたけど」
腕の中で乙姫が言う。
「どうするんですか」
「どうしようか」
おうむ返しのように答えてしまったが、決してはぐらかしているわけじゃない。自分で自分に戸惑っていた。反射的――いや、衝動的な行動だった。
「何やってるんですか」
「何やってるんだろう」
あきれたような乙姫の問いかけに、こちらもまた自嘲気味な答えを返す。
「なんでこんなことをしたんですか」
「……離れるのが、怖くて」
少し考えて出てきた理由は、例によって女々しさ極まるものだった。さすがにこれはちょっと、自覚できるくらいに痛々しい。
腕の中で乙姫が顔を上げたのがわかった。が、返事がないので下を向いて――顔の近さにどぎまぎしつつ――こちらから付け足す。
「大げさかもしれないけど」
「大げさですし、女々しいです」
「容赦ないね」
「それに演出過剰ですよ。発車ベルのタイミングで抱きしめるとか、トレンディドラマじゃないんですから」
「発車のタイミングで見送りに来た人に言われても」
「そろそろ離しませんか。ちゃんと家まで付き合いますから」
こちらを安心させようという気遣いからか、乙姫の口調はやわらかだった。
「あ……、でも乗車券、持ってないんじゃ」
子ども扱いされているようで恥ずかしくて、僕は事務的なことを聞いてしまう。
目を合わせたままの乙姫の、眼鏡の奥の瞳に、悪戯っぽい色が宿った。
彼女はわずかに背伸びをして、触れるだけのキスをしてくる。
「――これで、代わりになりませんか?」
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