第130話 姉と弟の距離感


 恋人とこっぴどくやり合った末にクリスマスの予定が流れてしまい、その喪失感に打ちひしがれる悲劇の主人公を気取ってみても、世界は何も変わらずに回り、スケジュールは進む。世間は冬休みに入り、伯鳴高校では三者面談が始まっていた。


 この僕、阿山鏡一朗という生徒の2学期の評価は、おおむね良好なものだった。学業の成績は上々、生活態度は問題なし、学校行事にも積極的です――と担任は肯定的な言葉を連ねていた。夏休みの同棲疑惑や、修学旅行でのルール違反などはスルーの方向らしい。事なかれ主義万歳。悲劇も喜劇も見て見ぬふりしてやり過ごそうぜ。


 父さんから担任への質問も特になく、三者面談はあっさり片が付いた。


「勉強はしっかりしているようだな」


 人影もまばらな廊下を歩きながら、父さんが口を開く。


「うん。条件の一つだったし」


 一人暮らしを続ける上で、僕にはいくつかの条件が課せられていて、その一つが成績を高く維持することだった。2学期の好成績は下心が大きな原動力になっていたのだが、それはまあ言わなくてもいいだろう。


「生活はきちんとしているのか」

「うん、早寝早起き、3食ちゃんと食べてるよ」

「彼女ができたと聞いたが、本当か」

「……まあ、うん」

「夏休みに来ていた子たちか」

「そうだよ」

「明るくてよくしゃべる方か」

「いや……」

「では髪が長くて眼鏡をかけた子の方か」

「そうだけど」

「もう部屋に入れたのか」

「……まあ、一応」

「妙なことはしていないだろうな」


 僕と父さんの会話は弾んだためしがない。


 ひとつの話題でボールを一度往復させたら、父さんはすぐに別の球に持ち替えるのだ。会話というよりも、マークシートにチェックを入れる確認作業に付き合わされているみたいだ。質問内容にしても、イエスかノーか、二択でしか答えようのないものばかり。


 しかし今日はいつにも増して質問がピンポイントで、しかもクドい。


「……妙なことって」


 さすがに耐えかねてそう問い返したのとほぼ同時に、


「おっ、早かったな鏡一朗、なんか注意されなかったか?」


 と横合いから声をかけられて、振り向くと千都世さんがいた。


「……義姉さんも来てたの?」


「父さんってこういうとき、昼メシすごい奮発してくれるじゃんか。アタシもご相伴にあずかろうと思ってさ」


 千都世さんはニカッと白い歯を見せて笑う。大学生の千都世さんはすでに冬期休暇で実家に帰っている。父の車に同乗してここまで来たのだろう。


「んで、アタシはここが良いんだけど」


 スマホの画面をこちらに向けると、父さんが、むぅ、と変な唸り声を上げた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 まさかこの季節にウナギを食べられるとは思わなかった。


 千都世さんがおねだりした店は本格的な和食の店で、通されたのは個室の座敷だった。店構えに比例して値段もすごいのだろうと想像はしたものの、お品書きは怖くて見られなかった。


 待っている間も落ち着かなかったが、千都世さんは普段通りの様子でスマホをつつき、父さんはあぐらをかいて静かに座していた。人生経験の違いを見せつけられた気分だった。


 漆塗りの重箱とお吸い物が載ったお盆が三つ、座敷のテーブルに並ぶ。


 重箱のふたを開けると、飴色のタレがきらめく蒲焼きが敷き詰められていて、白いご飯が見えないほどで、こんなに食べていいの? と誰かに許可を求めてしまいそうなくらいのボリューム感に動悸が早まっていく。


 今日の僕は、気分的には低空飛行もいいところだったが、本当においしいものというのは精神状態など関係なく食欲に刺さるものらしい。


「これもアタシのおかげだな」

「いや父さんの財布のおかげだから」


 父さんは千都世さんに甘い。千都世さんがめったに甘えてこないから、たまに甘やかせるチャンスがきたときには、常に全力で応えているのだ。


 男親は娘に対していつまでも距離感がつかめないものなのよ、とは義母かあさんの談。すべての男親がそうなのかはわからないが、少なくとも父さんに関しては当てはまっていると思う。


 茶を飲んで一服すると、父さんはタバコを吸ってくると言って出ていった。


義父とうさんはやっぱお堅いよな」


 入口のふすまを見ながら千都世さんが言う。


「今どき不純異性交遊禁止とか言う親なんてめったにいないぞ」

「話、聞いてたの?」

「ああ、なんか鏡一朗が答えにくそうにしてたからさ」


 学校で父さんから質問攻めにあっていたときのことだ。だからあんないいタイミングで声をかけてくれたのか。


「それはどうも」

「で、実際どうなんだよ」


 千都世さんはテーブルに肘をつき、ニヤニヤと口元を上げる。女子がやるには男っぷりのよすぎる態度だが、千都世さんがやるととてもサマになっている。


「……実際も何も、そういう条件で一人暮らしを始めたんだし」


 と僕は直接的な答えを避ける。


「え、じゃあアンタまさか、本当に、乙姫オトヒメちゃんに手ぇ出してないのか?」


 信じられない、と千都世さんは口元を押さえつつ顔を左右に振った。オーバーリアクションがいささかウザい。が、すぐに気を取り直して前のめりになる。


「ああ、そうか。もうすぐイブだもんな、そこで決める気なんだろ。気分を高めるって触れ込みのアロマとか、ムードを盛り上げる変な色の間接照明とか用意してるんだろ。よし、今から部屋へ行こう、お義姉さんが採点してやろう」


「クリスマスはちょっと、お互い、スケジュールの調整が難航しておりまして」


「はあ? アンタそれ本気で言ってんの? せっかくひとり暮らししてんのに、あの部屋をいま使わずにいつ使うんだよ」


「未完成の巨神兵じゃないんだから」

「似たようなものじゃないか、彼女をオトすための最終兵器って意味じゃ」

「部屋があっても甲斐性がないもので……」

「やっぱり、なんかあったな」


 千都世さんは断言した。


「付き合い始めで、時期的にはそろそろひと悶着あってもおかしくないとは思ってたが、ドンピシャだったな」


 千都世さんは義弟の窮地を聞いてとても楽しそうに笑っている。


「まさか今日の本当の目的は……、義弟の傷心を弄って楽しむために……?」


「ほう、心配して遠路はるばる来てやったお義姉さんに対してずいぶんな態度だな。ほれ、いいから話してみ」


 ちょいちょい、と人差し指を動かす千都世さん。


 内容が内容だけに、素直に語ることはためらわれたが、個室という条件と、僕自身が割と追い詰められていたこともあり、やがてポツリポツリと、乙姫との間の一件を打ち明けていった。


 それにしても。


 恋人とのケンカを義姉に相談するというのは、かなりシスコン指数の高い行動ではないだろうか。しかもケンカの理由にも義姉が絡んでいるのだから、退くも姉、進むも姉の姉地獄と言っても過言ではない。何を言っているのかわからなくなってきた。


「……ヤバいな、それはヤバい」


 千都世さんから語彙が消えていた。真顔で言われると、冗談抜きで末期的な感じがして怖いのでやめてほしい。


「そんなに?」

「恋人と過ごすクリスマスを無視してっていうところが最高にヤバい」


 アタシだったら相手の愛を疑うね、とまで千都世さんは言う。


「ああ、でも、あれだ、オトヒメちゃんはそういうイベントごと無頓着そうだし、それほどでもないのか?」


「いや……」

「ん?」

「ううん、なんでもない」


 と断りながら、内心では焦っていた。


 千都世さんの所感は外れている。実際は全くの逆。乙姫はああ見えてイベントごとにはとても乗り気なやつなのだ。文化祭や修学旅行での、深く静かな気合の入り具合がそれを証明している。


「でもまあ、鏡一朗の言いたいことはわからんでもない。アタシにはよくわかるよ。家族との関係を大切にした方がいいって思う気持ちは。ほら、うちは特殊な事情があるから、特にさ」


「うん……」


「オトヒメちゃんも阿山家うちの事情は知ってるんだから、お前の言い分もすこしは理解してるんじゃないのか。一般論めいた人情の押しつけじゃなくて、お前の背景込みでの心情としてさ」


 乙姫は確かに、理解してくれているだろう。


 それは甘えではなく確信に近い。乙姫の観察眼の鋭さは、ちょっとしたヒントからこちらの心情を丸裸にする。それで僕は今までさんざん心を抉られてきたのだ。彼女の理解の早さと深さは身をもって知っている。


 だけど、それでも。

 理解と納得は別のものだ。


「でもなあ」


 と、こちらの不安にさらに重しを乗せるように千都世さんが言う。


「彼女に向かって、家族と過ごせっていうのはちょっとなあ」

「やっぱり異常だと思う?」

「異常というか無情というか、なんというか……」

「なんというか、何?」

「知らん。少しは自分で考えろ」


 千都世さんは急に口をとがらせて不機嫌そうな顔になる。


「言いかけておいてやめるなんて」


「アドバイスなんてただの気休めで、実益があるかどうかはわからないからな。男女問題はいつも面倒だ。しっかり捕まえておかないとそのまま思いが途切れてしまうかもしれないし、逆に、しばらく放置して頭を冷やした方がお互い素直になれるかもしれない」


 千都世さんは軽快な動作で立ち上がる。


「それはどっちにしても結果論で、少なくとも外野に理解できるような心情じゃあない。もうお義姉さんが口を出す段階は終わったのさ」


 苦笑を浮かべる千都世さんを、僕は座ったまま見上げる。


 義姉の口調はサバサバしていて。

 どこか突き放すようで、あるいは送り出すようで。

 少しだけ寂しいと感じたけれど、それが本来の、姉と弟の距離感なんだろう。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 それから少しして父さんが戻ってくると、お勘定を済ませて、僕たちは店先でそのまま別れた。


 父さんの車を見送っていると、不意に強めの風が吹いて、その冷たさに身をすくませる。歩いていれば少しは温まってくもってくるだろう。ポケットに手を突っ込んで、足早に歩を進める。


 正直言って、迷っていた。


 これでよかったんだと肯定する気持ちと、でもやっぱりクリスマスは一緒に居たかったというかすかな後悔と、それらが乗った両天秤を激しく揺さぶる、見えてこない彼女の気持ちと。


 自分の女々しさを省みていると、スマホがそれに同意するように鳴動した。

 慌てて取り出してディスプレイを見ると、そこにあったのは期待していた――そして同時に畏れてもいた――名前ではなかった。


 情けなくも安堵のため息をついて電話に出る。


「はい、阿山です」


『――ああ、もしもし、阿山君、副店長の長谷川です。今、時間いいかな。ちょっとお願いがあるんだけど……』

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