第129話 うそつき


「クリスマスイブは、僕じゃなくて新しい家族・・・・・と過ごしてほしい」


 たったこれだけの言葉で、乙姫は背景を察したようだった。


 朗らかに弾んでいた表情からはすっと色が失せて、眼鏡の奥の瞳が冷ややかにこちらを見据える。


「知っていたんですね、再婚のこと。父から聞いたんですか」

「この前ちょっと明君と会って」


 義理の弟の名前を出すと、乙姫は露骨に顔をしかめる。


「あの子、余計なことを……」

「いや、明君から聞いたのは、再婚の話だけだから」


 それと、家族が上手く回っていない現状に、母親が罪悪感を抱えてしまっている、という話も。


「あまり家に居ついていないって聞いたよ」

「少し家を出るのが早くて、少し帰るのが遅いだけです」

「冬休みになっても、それを続けるつもり?」

「……いっそ、同棲でもしましょうか」


 甘えるような声と試すような表情で、乙姫がそんな提案をしてくる。

 冗談だとわかっていても気持ちは揺れたし、仮に本気だとしたら無条件に受け入れてしまいそうだった。


 だけど、それはできない。

 家庭の事情から遠ざかるための避難場所として利用されるなんてまっぴらだった。そんな弱い乙姫なんて見たくなかった。


「それは逃げだよ」


 反論されると思っていなかったのか、乙姫の目がわずかに見開かれる。


「逃げてはいけないんですか」

「逃げ方にもいろいろあるっていう話だよ」


 言葉を切ってコーヒーを飲もうとするがもう空っぽだった。


「お互いの言い分を聞こうとせずに、ただ避け続けるだけっていうのは、一番よくない逃げ方だよ。今抱えている不満だって、ちゃんと話をすれば、理解ができるかもしれないし、納得がいくかもしれない。その可能性を捨てたらいけないよ」


 説教がましいという自覚はあったが、何も言わないわけにはいかなかった。


「それに……、もう家族になったんだろ。好むと好まざるとにかかわらず、一生つきあっていかなきゃならない相手なんだから」


 それは乙姫への説得なのは間違いないが、同時に過去の自分への説得でもあった。新しい環境に戸惑い、新しい感情を受け入れられなかった幼い自分への、なぐさめの言葉だった。


 ――だからこそ、乙姫の批判は鋭く僕を穿つ。


「……鏡一朗さんだって、逃げてきたんじゃないですか」


 高校生にして一人暮らしをしている、その理由を、乙姫は容赦なく突いてきた。


 反論はできなかった。

 乙姫は言葉を続ける。


「話せば何かが変わっていた可能性というのは、お義姉さんと――千都世さんとうまくいっていた可能性のことを言っているんですか」


「違う、そういうことじゃなくて――」


「そんなイフなんて……、あなたがこの街に来なかった可能性なんて、考えさせないでください。それとも、鏡一朗さんは考えたことがあるんですか?」


 乙姫は声を荒げることなく、淡々としゃべっていた。しかし、それは青い炎のような、一見してそうとはわからない、清冽な鋭さをはらんだ声だった。


 質問の答えはイエスでもありノーでもある。女々しい僕はいつも後悔を抱えて、あの時こうしていれば今は、なんてことを考えてばかりだ。


 だけど、乙姫と付き合うようになってからは、少なくとも千都世さんとの未来の可能性なんて考えたこともなかった。


「こっちも言いたいことはある。どうして再婚のこと、教えてくれなかったの」


 質問をはぐらかしたことを、乙姫は何も言わなかった。

 その代わりに、こちらの罪悪感を的確に抉ってくる。


「父の再婚が決まったとき――相手に年下の連れ子がいると知ったとき、わたしは、あなたと千都世さんの関係を思い浮かべました。鏡一朗さんも、そうだったんじゃないですか。義理の弟という響きに、ただ家族が増えること以上の意味を見出したのではありませんか」


「――それは」


 僕はとっさに返事ができなかった。その空白は乙姫の疑念を認めたも同然だったし、事実、僕は彼女の指摘どおりのことを考えてしまっていた。


 繭墨明は、繭墨乙姫に好意を抱くようになるのではないかと、そう思ってしまったのだ。かつて僕が千都世さんに好意を抱いたのと同じように。


「……だから、知られたくなかったんです」


 乙姫の表情は、落胆のさらに下の――失望、だった。


「鏡一朗さんに、そんな風に少しでも勘繰られることが嫌で、だから……、再婚の話なんてそのうち誰かがぽろっと明かしてしまうことだってあるでしょう。でも、わたしは、……ああ、もう、全っ然、理屈になってないのに、どうして……」


 乙姫はぶんぶんと乱暴に首を振った。

 その動きに合わせて黒髪が乱れ舞い、彼女の顔を覆い隠す。

 漆黒の御簾を手櫛で整え、ため息ひとつ、顔を上げる。

 ――それだけで焦燥は消えていた。


「……もう一度、確認しておきますが。鏡一朗さんの願いごとは、わたしが大人しくクリスマスの家族パーティに参加して、ニコニコ笑顔を浮かべていること、でいいんですね」


 改めて、乙姫が問いかけてくる。露骨な当てつけめいた言い方で、本当の願いごとなどお見通しに違いないのだろう。それでも、ともかく僕はうなずいた。


「……うん」

「わかりました、ではそうします」

「でも、そっちの願い事は」


「いいんですよ。もともと、鏡一朗さんの願いを晒すための企てでしたから。……こんな人情話のようなことをされるとは思いませんでしたけど」


 久しぶりに乙姫の敵意を感じた。悪戯心とは一線を画する、まっすぐな敵愾心。意外とショックが少ないのは、鋭い刃が痛みを感じさせないことと同じ道理か。


 こちらの返事を待たずに乙姫は立ち上がって、丁寧にお辞儀をする。それはひどく他人行儀な仕草だった。


「今日は楽しかったです。付き合ってくれて、ありがとうございました」


 振り返った横顔で、朱い唇がかすかに動いた。

 独り言だったであろうその声は聞き取れなかったが、短く四音、うそつき、と言ったように見えた。

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