第127話 特殊すぎる先入観
「立ち話もなんだし」
という百代の勧めで近くのファミレスへ向かった。
確かに正門前で睨み合っていても悪目立ちするだけだ。あと冬の空気が肌身に沁みてつらい。
繭墨乙姫に弟が――いや、義弟ができた。
繭墨
僕はいつかの春香さんの、意味深な言葉を思い出していた。
あれはそういう意味だったのか、と。
春香さんは明の出現を〝トラブル〟と評したが、僕は大して気にしていない。繭墨家の内情はある程度知っているので、急な話ではあるものの、まったく予想していなかったわけではないのだ。
ただ、それを乙姫本人が教えてくれなかったことに、多少の動揺はあった。家庭の事情はごくプライベートな事柄であって、ペラペラしゃべるようなことじゃない。それでも、乙姫以外の人から知らされるのは、筋が違うように思ってしまう。
だから今のところは、乙姫への不信なんてささいなもので、明への反感の方がはるかに強かった。余計なことをしやがって、という気分だ。
そんなことを考えているうちにいつの間にかファミレスに入って席について、おまけにドリンクも用意されていた。百代がやってくれたらしい。
「それで、明君はキョウ君に何の用があったの?」
僕の隣に座った百代が、向かいの席でそっぽを向いている明に問いかける。その声色はやはり姉が弟に対するようにやわらかいものだった。百代の姉力を感じた。
「……最近、あの人の帰りが遅くて」
明は十秒ほどの沈黙のあと、投げやり気味にそう語った。
「あと、朝もやたら早くて。伯鳴高校って家から遠いから、通学の時間も長くて、あの人が家にいる時間がすげえ短いんだよ。寝るためだけに帰ってるみたいな」
明はしゃべっている間、こちらを見ようとしなかった。
「最近っていうのは?」
と百代はテーブルに身を乗り出して尋ねる。胸が乗っているのは色仕掛けじゃなく天然なのだと信じたい。
「一週間前。オレと母さんがあの家で住むようになってから。……要するに避けられてんの、オレらよそ者は」
明は不機嫌な顔つきを崩さなかったが、その視線がほんの一瞬だけテーブルの上のたわわな果実に向けられたのを僕は見逃さなかった。
「うーん……、ヒメがそんなことするかなぁ」
「明君はお義姉さんと仲良くしたいのか」
口にしてからすぐに後悔した。まるでラブコメの噛ませ犬が吐くような、嫌味ったらしいセリフである。大人げないし、ひがみっぽい。
だが、明の反応は想定していたもの――照れ隠しでむきになって慌てて否定する――とは違っていた。
「は?」
その一言の温度は今日一番の冷え込みだった。彼は本気で、なに馬鹿なことを言ってんだこいつは、という冷めた顔をしていた。
「あのなあ……」
年下の男子から、心底あきれた声をかけられた瞬間の焦燥感といったら。
生きている年月がちょっと長いだけの、取るに足らない格下の相手――そんな軽蔑の感情が乗った声や視線は、とてつもない凶器だ。気落ちしているときに食らったらそれだけで立ち直れなくなるし、そうでなくても、思わず自分の生き方を見つめ直してしまうレベルである。年下の前ではもっとしっかりしていよう。ダメな大人にはなるまい。そう心に誓った。
僕の内省をよそに明は話を続ける。
「あれがちゃんと帰ってこないと、母さんが気にするんだよ」
「子供の帰りが遅いと心配するもんねぇ」
「いや、そうじゃなくて……、それもあるけど……」
明は少し迷ったようだが、百代が小さく〝わかってるよ〟という意図を込めてうなずくと、ポツリポツリとしゃべりだす。
「家族がみんな揃わないのは自分のせいなんじゃないかって、すげえ気にしてるんだよ。だから朝弱いくせに早起きして、朝食の用意しようとしたのに、あの人、朝5時に家出てるんだぜ。何やってんだって話だろ」
それは確かに、強情に過ぎる。僕と百代は顔を見合わせた。
状況をわきまえない頑迷な態度は、乙姫らしくない。強情は繭墨乙姫の性質のひとつだが、彼女は同時に、時と場合を選ぶ理性も持ち合わせているからだ。
「バイトも部活もやってないのに、夜は9時過ぎることもあるし」
そこで明はこちらをにらんでくる。
『アンタんとこで長居してるんじゃないのか』とでも言いたげな視線である。隣からも視線を感じて目を向けると、百代もまた、『キョウ君
「違う、僕じゃない、とは言えないけど、全部が全部ってわけじゃ……」
「ちょっとはキョウ君ちでイチャコラしてることもあるんだ」
「イチャコラっていうか、たまに夕食を作ってもらったりするだけで」
「彼女が帰り道に夕食!」百代は大げさに声を上げる。「これは明らかに食後のデザートはわ・た・し? のコースだよ。ねえ明君」
「は、はあ……」
唐突な猥談に明君も顔を赤くしてまごついている。百代のやつ、女性からそういう話を振ってもセクハラになることを知らないんじゃないのか。
「とにかく、そんなやましいことはしてないから」
「それは別にどうでもいい」
明の反応は冷ややかだった。揶揄や嫉妬ではなく、本気でどうでもよさそうな態度のように思える。
「……前の父親も、ロクに家に寄り付かなかったし、そんなの100
絞り出すような懇願の声を聞いて、明への反感はほとんどなくなっていた。
――でも、ほとんど、だ。完全には消えていない。
この期に及んで僕はまだ、この目の前の、年下の男子のことを警戒しているらしい。だけど自分ではその感情の出どころがよくわからない。
「ええっと、明君はヒメの……、お姉さんのこと、どう思ってるのかな?」
百代がおそるおそる、話の流れから外れたような問いかけをする。
明はけげんそうに眉を寄せつつ、
「……顔は綺麗かもしれないけど、なんか怖いし何考えてんのかわかんないし、そもそも向こうは俺らと仲良くする気もないみたいだし、……苦手っていうか、正直、好きじゃない」
名前を聞いたときとは別の意味で、僕は強い衝撃を受けた。
「……百代、こいつの弟オーラは?」
「変化なし。嘘はついていないし、強がりでもないよ」
百代はエア眼鏡をくいっと持ち上げる仕草をする。
「そんな」
「キョウ君」
百代が僕の肩にそっと手を置いた。
「ツンデレはもう流行らないんだよ」
「何を、言って……」
「だって、ツンデレなんて通りのいいレッテルを張ってみても、実際はただの不機嫌な人じゃない。いつもツンケンしてて取っ付きづらい人よりも、明るくて話しかけやすい人の方がいいに決まってるでしょ」
百代の言葉には一片の真理があった。
フィクションのツンデレはいつかデレることが保障されている、しかし、現実でツンケンしている人が、いつか本当にデレるのかどうかはわからない。その日を信じて、きつい態度にもめげずに声をかけ続ける、そんなタフなハートの持ち主でなければ、ツンデレの深奥にたどり着くことはできない。
「ヒメなんて特に、ツンデレでツンドラでツングースカなんだから、付き合いの浅い人は怖がって遠ざかっちゃうよ」
永久凍土で大爆発とはまたずいぶんな言われようだった。でも否定できないところも無きにしもあらずなので、ごめんよ乙姫と心の中で謝っておく。
「明君ごめんね」
向かいの席で僕たちのやり取りをぽかんとした顔で眺めている明に、百代が笑顔で話しかける。
「キョウ君は重度のシスコンなの。義理の弟は義理の姉を好きになるのが当たり前だ、みたいなヤバい考えに支配されてるから、キミのことを警戒しちゃってるだけなの。あまり気にしないで」
ちょっと百代さん?
人を特殊性癖持ちのように言うのはやめてくれませんかね。
「はあ……」
明はあいまいにうなずきつつ、ゴミ溜めに打ち捨てられた古い人形に向けるような憐みの目で僕を見ていた。
でも、確かに、百代の言うとおりかもしれない。
乙姫の義弟の存在にショックを受けた本質的な理由は、乙姫が黙っていたことではなく、その関係性に対して、危機感を覚えたからだろう。
義理の弟は義理の姉に好意を抱くという、特殊すぎる先入観があったのかもしれない。僕は未だにシスコンらしい。悔い改めたい。
「話はわかったよ」
さきほどまでの醜態はすべてなかったことにして、僕は表情を引き締める。
「今はテスト期間中だから、すぐにってわけにはいかないけど。こちらから乙姫に話をしてみるから」
乙姫が事情を話してくれなかったのは、テスト期間中だから気を遣っているという可能性もなくはない。それに何より、義弟から話を聞いた直後に問い詰めるというのは、乙姫を全く信じていないことになる。
「はあ……、どうも」
明の生返事は、あーはいはい先送りっすね、とでも言いたげで、こちらを全く信用していないことが痛いくらいに伝わってくる。こらこら、もう少し本心を隠すことを覚えないと生きづらくなっちゃうぞ。
「大丈夫だよ、キョウ君って意外とこういうことはきちっと決めるから」
百代は明の不信を打ち消すように笑いかける。なんか癒される。ダメなところを見せたり晒された直後だけに、救いすら感じてしまう。
「そうすか」
しかし当の明は、あーはいはいダメ男のフォローお疲れ様です、とでも言いたげな生返事である。僕も正直かばってくれてありがとうございますと思っているので反発できない。
「あー、信じてないでしょ。あたしや千都世さんを捨ててヒメを選ぶくらいなんだから、お義姉さんのこと、ちゃんと考えてくれるって」
ちょっと百代さん?
女の子を取っ替え引っ替えしてる下衆男みたいな言い方はやめてくれませんかね。
「そうすか」
明の視線が不信に染まる。
彼の瞳はもはやどんな言い訳も通じないほどに、どろりと濁ってしまっていた。
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