第120話 余計なことだと、わたしは思うわ
繭墨との初デートは夕方5時という健全きわまる時間に終わってしまったが、別に少しも残念じゃないし、むしろその先は今後のお楽しみなわけで、諦めなければきっといつか行きつくところまでたどり着けるだろうと、前向きな気持ちを奮い起こして登校している、週明けの月曜日である。
「皆さんの清き一票……じゃなくて一筆をお願いしまーす」
校舎へ近づくにつれて、昇降口の辺りからテンションの高い声が聞こえてきた。大きめのバインダーを差し出しながら、登校してくる生徒に声をかけまくっている。
「ちょっとそこ行くお嬢ちゃんたち、これはね、あなたたちの未来にも関係していることなの」
呼び止められた気弱そうな1年の女子がおびえてその場で立ちすくむが、すぐに隣の友達に引っ張られて足早に逃げていく。
「あっ、先輩方ももうすぐ受験ですね、頑張ってください、ところでこの学校の行く末について少しだけあたしと考えてみませんか?」
受験のプレッシャーのせいか憔悴しきった顔の3年生は、未来を語るその明るい声を無視して過ぎ去っていく。
予鈴が鳴る間近の校庭はかなりの数の生徒が登校してきていたが、繁華街の呼び込みのようなことをしているその女子の周囲だけはエアポケットのように生徒空白地帯となっていた。
こちらからは声をかけるまいと思っていたが、断られ続けて寂しそうにしている姿を見ると、さすがに素通りするのは気が引けた。謎の女性活動家の正体は百代だったからだ。
あいさつくらいしておこうかと近づいていくと、
「グッモーニン阿山」
と先に横から声をかけられた。
「モーニン」
ぞんざいに返事をしつつ声の主である赤木を見やると、こいつもなぜか百代と同じバインダーを持っていた。
「何やってんの」
「署名を募ってんだよ」
「署名……」
僕は再び、動き回っている百代に目をやった。相変わらず声をかけようと近寄っては逃げられている。あれは勢いがありすぎるのがよくない。公園のハトに駆け寄ってもすぐ飛び立たれてしまうのと同じだ。ゆっくり近寄れば向こうもそう警戒しないだろうに。
「お願いしゃーす、はよざーす、署名どうすかー」
気だるい声の方を見ると、クラス委員長の倉橋も協力しているようだった。極めてやる気のない態度だが、朝っぱらから手伝いを引き受けているだけで、十分すぎるほど付き合いがいい。それに昇降口前という避けようのない場所に陣取っているおかげで、百代よりもよほど署名を集めていた。
「で、署名ってなんの?」
「修学旅行の自由行動について」
「へえ」
つい最近、似たような提案を学校に出したものの時期的な問題から先送りにされてしまったという、残念なお知らせを聞かされた記憶があるんだけど……。
「それって百代の発案?」
「そうなんだよ」
赤木は
「どうしたの顔面が融解してるよ」
「いやぁ女子に頼られるのってすげえうれしいのな」
こちらの嫌味にも気づかずに赤木はニマニマと笑っている。
詳しく話を聞くと、先週末に百代から相談を受けたのだという。
修学旅行中に、別のクラスの友達とも行動できる日があれば、影でルールを破る人もいなくなるはず。そういう、いわゆる自由行動日を設けるためにはどうすればいいのか、という相談だった。
「そういうのは生徒会から学校に働きかけるのが早いって言ったんだが、なんでかそれじゃダメだっていうんだよ。百代は繭墨と仲いいから相談ならすぐできるのにな。っていうかこの話自体、会長のフォローだと思ってたんだけど」
だから代替案として、署名という形で生徒からの声を集めているのだという。
百代が、繭墨と同じようなことを考えていた――それはいいことだと思う。示し合わさなくても同じ歩幅になるというのは、二人の友情の確かな形のような気がした。
「それで赤木と、倉橋も手伝ってくれてるのか。……なんで僕らには言ってくれなかったんだろう」
「そりゃあ、サプライズパーティ的なアレだろ」
赤木は百代の方を見てまぶしそうに目を細める。
「いつもこういうのって繭墨の領分だっただろ。だから百代も自分でやれるんだってところを見せたかったんじゃねえの。健気で、そして尊いよな……」
「お、おう……」
途中までは説得力があったのにラストの遠い目で台無しだった。
「あっ、ヒメ! おはよー」
百代の声がトーンアップした。
ヒメというご大層なあだ名の主は繭墨乙姫、われらが生徒会長である。
繭墨の登場に気づいて周囲の生徒たちがざわつき始める。
百代の署名活動を、僕はもちろん好意的に捉えている。繭墨のためにやってくれている、善意からの行動であると。
しかし、他の生徒がそう感じるかどうかというのは、また別の話だ。
生徒会長の問題行動を蒸し返して騒ぎ立てている―と考える生徒だっているかもしれない。そうした目線の生徒から見れば、百代の署名活動は会長への当てつけのようなものだ。
であれば、この場に現れた繭墨の言動に注目が集まるのも当然だろう。
多くの生徒が登校中であることも忘れて、繭墨と百代のやり取りを見守っている。西部劇の決闘のシーンのような、徐々に奇妙な緊張感が高まっていく。まあ、そんなケンカめいたことにはならないと思うけど、と僕はのんきに構えていた。
しかし、である。
「……ヨーコ、何をしているの?」
「これ? 署名活動。ヒメも一筆やってかない?」
繭墨は差し出されたバインダーをじっと見つめること数秒。
内容を読み終えたのか、顔を上げて、
「――どうして?」
冷気をまとったような問いかけに、百代の返事が凍りつく。
「どうして、こんなことをしているの」
「あ、あたしもこっそり班行動を破っちゃったし、他のクラスにも一緒に行きたいコとかいたし、それに――」
「構わないのに」
百代の話をさえぎって、繭墨は小さく首を振る。
「ヨーコがこんなこと、しなくてもいいのに」
「あたしは好きでやってるんだから、ヒメは気にしなくてもいいよ」
百代の言葉に反応して、繭墨は目を細める。
反射的に厳しいことを言ってしまいそうになったが、どうにか耐えきった――そんな仕草だった。
小さく首を振って、
「そう……、でも、余計なことだと、わたしは思うわ」
署名も書かずに、繭墨はそのまま歩き出す。百代の脇を抜けて、いつもどおりの美しい歩き姿で、遅すぎず、早すぎずのペースで。
それに合わせて、他の生徒も歩くことを思い出す。繭墨を差し置いて動くことが許されていないかのようだった校庭の時間が、ぎこちなく動き始める。
その只中で突っ立って、僕は見ていた。
たぶん誰もが繭墨に注目しているなかで、僕だけが百代を見ていた。
百代は。
いつも陽気な笑顔を浮かべている百代曜子は。
口元をぎゅっと結んで、何かをこらえるようにまっすぐ前を向いていた。おそらくは、振り向いて繭墨に呼びかけることを、我慢しているのだろう。
どうしてそんなことを言うの? と。
百代はなぜ、いつものように率直に言葉にしないのだろうか。
繭墨の素っ気なさの理由が、僕は知りたくて仕方がないのに。
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