第119話 繭墨母娘の関係性

「お母さん!?」


 繭墨が素っ頓狂な声を上げた。


「ええ、お母さんですよ」


 ショートの髪を梳いて耳にかけながら春香さんが笑う。いい歳をした大人なのに、そんな悪戯っぽい笑顔がとてもよく似合っていた。


「どうして、こんなところにいるのよ」


 対する繭墨は頬を赤くして目つきを鋭くする。


「あら、どこでお昼を食べようがお母さんの勝手だし、そもそもここは私が教えてあげたお店でしょう」


 春香さんは口元をにぃっと釣り上げて僕の方を見た。


「こっちはこういう小洒落た店を知っているんだって最初に見せつけておけば、相手も下手な店には連れていけなくなるから」


「……嫌な英才教育ですねどうもこんにちはご無沙汰しています」


 僕がそっと頭を下げると、春香さんも鷹揚にうなずいた。


「ええ、こんにちは阿山君。隣いいかしら」


「あ、はい」


「駄目よ。お母さんはこっち」


 繭墨が自分の隣の椅子を引いた。


「あら、嫉妬?」と春香さん。


「いいから座って」と繭墨。


「sitだけに」と僕。


 数秒間の沈黙があった。


「5点ね」


 春香さんがため息をつきつつ娘の隣に座った。


「発言の前に内容を吟味してください」


 繭墨が自分のことを棚に上げて静かな口調で言った。


 母子の冷ややかな視線に晒されつつ僕は反省した。思い付きでしゃべるとロクなことがない。政治家のように撤回したい。年上の美人を目の前にして、少し浮かれてしまったのかもしれない。


「なんだか深刻そうな話をしていたから、ワクワク……じゃなくてハラハラしながら見ていたのに、そしたら急にイチャイチャしだすものだから、正直ちょっと引いちゃったわ」


 春香さんは擬態語を連続してから肩をすくめた。


「いつから見てたんですか……」


 こちらの疑問など聞こえていない風に春香さんは話を続ける。


「私の経験上、そういう不安定さは危ういわね。倦怠期を誤魔化そうと、無理して明るく振る舞ってるんじゃないの?」


「倦怠なんてしてませんよ、むしろ安定期です」

「あら、そうは見えないけど……」


 と春香さんが横目で娘を見やると、繭墨は目を細めて睨み返す。


「変なところを見ないで」

「変なところって?」


 思わず口をはさむと、射貫くような視線がこちらに向けられて、


「きょ――阿山君は黙っていてください」

「ハイ」


 なぜかピシャリと怒られてしまった。顔を赤くしている理由もよくわからない。


「確かに安定してるみたいね」


 僕たちのやり取りを見ていた春香さんが、口元を押さえてくすくすと笑う。気品と余裕のある仕草だった。整えられた爪にほんのり薄く塗られたマニキュア、文字盤の小さな腕時計、身体にフィットした見事な着こなしのレディススーツ。すごくキャリアウーマンっぽいなという陳腐な感想が浮かんだ。


「繭墨のお母さんって、お仕事は何をされてるんですか?」

「あら、こんなオバサンのことが気になるの?」


 春香さんは例の楽しげな笑顔を浮かべる。完全にからかう構えだった。


「オバサンなんてそんな……、こうしていると姉妹みたいです」


 僕は露骨なお世辞を返す。姉妹というのは言い過ぎかもしれないが、少なくともおばさんと呼ぶには抵抗を感じるくらいには、春香さんは若々しい。大げさではあっても不快に思われるほどのおべっかではないはずだ。事実、春香さんは「お上手ね」と笑顔を浮かべていた。


 しかし世の中には、あちらを立てればこちらが立たず、という言葉があることを僕は忘れていた。


「それはお母さんが若く見えるということ? それともわたしが老けて見えるということ?」


 思わぬ相手からの攻撃に反応が遅れてしまう。


「ええと」


 言い訳を考える時間を稼ぐための、意味のないつぶやき。その間に僕の視線はトイレにげばを探してさまよっていた。


「……つまり、明るく快活な春香さんと、繊細で冷静な繭墨という、対照的な二人が並ぶことによって、太陽と月、向日葵と紫陽花のようなコラボレーションのようなケミストリーのような何かが生まれたわけで」


「でたらめな言葉を並べて煙に巻こうとするのは阿山君の悪い癖ですね」


 繭墨の言葉は月光のように冷ややかだった。

 だが春香さんは楽しそう――というか嗜虐的――な笑みを絶やさない。


「月や花に喩えられてるんだからもっと喜びなさいな。素直じゃないんだから」


 ホントそうですよねお母さんからももっと言ってやってください。


「それは安直っていうの」


 と繭墨は即座に反論する。確かに、面倒くさくない繭墨なんて殻のないカニのようなものだ。そんなものはカニカマであってすなわち偽物である。カニカマもおいしいけれど。


「あなただけじゃなくて阿山君もよ。女の子を素直にほめるのが恥ずかしいお年頃なんだから、彼女ならそれくらい察してやりなさいってこと」


 春香さんがこちらを見てウインクをする。生でウインクする人を初めて見たが、真似してみたいと思うくらいサマになっていた。


 ともあれ完膚なきまでの子ども扱いである。素直にほめるのが恥ずかしい、というのもそのとおりで反論ができない。


 繭墨はふくれっ面で、頬杖をついて窓の外をにらんでいる。


「……いつもそうやって、何でもわかっている風なことを言うくせに」

「繭墨」


 僕はとっさに口を挟んでいた。繭墨が次に何を言おうとしているのかに気づいたからだ。彼女も〝続きの言葉〟の稚拙さを自覚したのか、ハッと目を開いて、うつむき気味で黙り込む。


「――どうして自分は夫の気持ちがわからなかったのか、って?」


 だのに春香さんは、僕がせっかく押し止めたものを簡単にぶちまけてしまう。


「わたしは何も言ってないわ」


 繭墨はふてくされたように、また窓の外に視線を投げる。ぷいっ、という擬音のつきそうな仕草は、普段の繭墨からは想像できない子供っぽさだ。


「自分じゃ気づいてないかもしれないけど、あなたは結構、わかりやすい子よ?」


 春香さんが娘の頭をそっと撫でる。丸くなったネコを撫でるような優しい手つきに、繭墨母娘の関係性がほんの一瞬だけ垣間見えた気がした。繭墨はぎろりと春香さんをにらみつけ、春香さんは舌先を出しながらすぐに手を離す。


「……仲がいいんですね」


 我知らず、そうつぶやいていた。


 繭墨が誰かをこんなに邪険に扱っているのは見たことがない。それは嫌悪ではなく慣れや惰性からくるものだ。自分の部屋では素の自分でいられるのと同じこと。気が緩んでいる。母親に甘えているのだ。


「髪を直してくるわ」


 繭墨はムスッとした表情で立ち上がって、せわしなく歩き去っていく。


「なんでか昔から髪を触られるのを嫌がるのよねぇ」


 春香さんは娘を見送りながら肩をすくめる。そんな経験談があるのなら、頭を撫でられた繭墨がどう動くかくらいお見通しのはずだ。


「席を外させるためですか」

「察しがいいのね。キミはきっと浮気上手になるわ」

「しませんから」

「男はみんなそう言うのよ」

「そういう会話は行きつけのバーでやってください」

「残念、フラれちゃったみたい」


 春香さんは再び肩をすくめ、足を組み直す。数日前に赤木と『洋画でありそうなアダルティな会話ごっこ』をしていたおかげでなんとか乗り切れたが、そうじゃなければ何も返せなかっただろう。高校生相手に振る話じゃない。何かの前振りだろうかと警戒していると、案の定、春香さんがネズミをいたぶる猫のように嗜虐的な表情を浮かべた。


「付き合いは順調のようね」

「おかげさまで……」

「男女の仲をより親密にするために必要なものはなんだと思う?」

「時間ですか」

「トラブルよ」

「映画じゃあるまいし、僕たちには爆発も墜落も沈没も要りません」

「キミは少し勘違いをしているわね」


 春香さんはグラスを手に取って水を一口飲んだ。


「付き合い始めの二人にとっては現状こそが劇的でしょう? だけど、付き合いが続けばそれが日常になる。確かに平穏は尊いものよ。否定するつもりはない」


 でもね? と口元が上がる。


「繰り返す日常は人を少しずつ鈍らせていくわ。言わなくても伝わるからと言葉が減って、どうせ見ていないからと化粧に手を抜くようになる」


 春香さんは過日の辛酸を飲み干すかのようにグラスを一気に煽った。空になったグラスをテーブルに置いて、


「少しの刺激でいいのよ。キミが考えているほどの劇的でなくていいの。ひとつまみの塩がスイカの甘みを引き立てるように、程よい刺激が人生にハリを与えるの」


 なんか団地妻の浮気の言い訳みたいだなと思わないでもなかったが、さすがにそれを口にしないくらいには落ち着いていた。それに、浮気から離婚に至ろうとしている人の発言と思えば、なんだかんだで説得力がある。


 言いたいことを言ってすっきりしたのか、春香さんは晴ればれとした表情で立ち上がった。


「まあ、心身過敏な青春時代は、あらゆることが刺激的だから。オバサンが敢えて注意する必要もないのかもね」


「いえ、参考になります」


 反射的にお世辞を口にしてしまう。律儀ね、と春香さんは笑う。


「じゃあ最後に忠告。――もうすぐ起こると思うから、気をつけなさい」


 何が、とは言わなかった。意味深なことを言い残して春香さんは店を出ていった。そして入れ違いで繭墨が戻ってくる。


「お母さんは?」

「帰っちゃったけど」

「――やられた」


 繭墨は入口をにらんで口惜しそうに短くつぶやく。しかし、なんのことかと問うより先に注文の品がやってきたので、僕たちは黙々とパスタをすすった。


 僕も『男メシ特集~チョイ手間パスタで料理力アピール~』なる雑誌記事に踊らされてパスタに凝った時期があったが、そんな素人の手習いとは比べるべくもない。パスタの食感や絡まるソースの味付けなど、お高いだけあって明らかに違いのわかるおいしさだった。


 ちなみに、繭墨のつぶやきの意味は、会計のときに明らかになった。


「――代金は繭墨春香さまよりお支払いいただいております」



◆◇◆◇◆◇◆◇



「奢るという行為の裏にあるのは、自分をより大きく格好良く見せたいという虚栄心です。気にせずもらっておけばいいんですよ」


 店を出るなり繭墨は冷たい口調で母親の行為をこき下ろした。


「乙姫も?」

 

 と僕はシンプルに問うた。

 最初は自分が奢ろうとしていたのを忘れてしまったのだろうか。


「えっ? あ……、その、わ、わたしのアレは思いやりです。それくらいの違いは察してください」


 酷い言い訳だったが、それをそっとしておくのも思いやりだろう。僕は黙っておだやかな笑顔を浮かべてみる。


「なんですか、そんな薄ら笑いを浮かべて」

「薄ら笑い!?」


 こちらのイメージと繭墨が見ている実像のズレっぷりにショックを受ける。


「確かに先ほどのわたしは、鏡一朗さんの目にはいささか滑稽に映ったかもしれませんが」

「外で家族に会ったら照れくさくて調子が狂うのって、気持ちはわかるけど」

「別に照れていたわけじゃ」

「それに僕は、いつもと違う乙姫が見られて楽しかったよ」

「またそんな洒落臭しゃらくさいことを言って……、まさかお酒を飲んではいませんよね」

「初デートに酔ってる可能性はあるね」


 繭墨は顔を赤くして押し黙ってしまった。馬鹿じゃないですか、と吐き捨てられた罵倒の拙さが愛おしい。今日の彼女は反応が素直で大げさでそれゆえに楽しくて、ついついこちらも調子に乗って妙なことを口走ってしまう。



 そんな上っ面の裏側で、春香さんの言葉がリフレインする。


 ――もうすぐ起こると思うから、気をつけなさい。


 彼女の母親が投じた一石を持て余していた。

 繭墨に心当たりを尋ねようとして、でも結局、聞くことができなかった。


 知らないのなら構わなかった。むしろその方がいい。二人で困難に立ち向かうという図式ならシンプルだし誤解もない。


 問題は、そうではなかった場合だ。

 繭墨が知っていて黙っているのなら、それは秘密であり隠し事だ。


 問いかけは〝相手への心配〟ではなく〝余計な詮索〟へと成り下がってしまう。恋人を信用せず、プライバシーを暴こうとする無神経男。そんな風に思われてしまうのは、とても恐ろしいことだった。


 付き合いが続けばそれが日常になる、と春香さんは言った。

 だけど僕はまだそんな境地には至れない。


 無理に掘り起こして雰囲気が悪くなるくらいなら、今日はこのまま、楽しい空気のままで過ごしたかった。

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