第113話 それなりの労力が必要なんだよ


 今日一日に起こったことを思い返していた。


 朝は教室に入るなりクラスメイトから妙な視線を集めて。

 体育の時間はサッカー部に謎フォーメーションで絡まれて。

 放課後は校長室に呼び出されて修学旅行での違反を注意されて。


 精神的にここまで疲れたことなんて、短い人生の中でも数えるほどしかない。

 それでもさらに考えてしまう。

 犯してしまった過ちを、どう挽回すればいいのだろう。


 今までにも、ちょっとしたトラブルや面倒ごとに出くわすことはあった。そのたびに僕たちは、策を弄したり、誰かの力を借りたりして乗り切ってきた。


 しかし、今回のトラブルは、これまでとは性質が違う。

 何が違うって、僕たちに落ち度がある・・・・・・・・・・という点だ。




 僕は校長室でのやり取りを思い出す。


『どうするつもりかね』


 得意げな校長の問いに対して、繭墨はいくつかの対策を提示した。


 各クラスを回ってお詫びをするというシンプルな案から、生徒会長を辞任して再選挙をするという大げさな案まで。


『……このように考えてはみたのですが、わたしの一存で決めるのもよくないかと思います。まずは、先生方のご意見をいただければ助かるのですが』


 止めに繭墨がそう話を振ると、校長と担任は押し黙ってしまった。

 まさかこちらが具体的な案を用意しているとは思わなかったのだろう。


 この呼び出しはそこまで深刻なものではない。〝厄介ごとを起こした生徒をちょっと注意しておこう〟程度のもので、学校側としてもコトを大げさに扱うつもりはないようだ。校長の反応がそれを証明していた。


 もっとも、夏休みの同棲疑惑と同じく、やっかいなのは教師よりも生徒の方だ。

 学校の法的責任者は教師なのかもしれないが、実質的に支配しているのは圧倒的多数派である生徒なのだから。


 どうにも落ち着かない。

 各クラスを回っての謝罪や、場合によっては生徒会長の再選挙までも繭墨は考えていたが、前者はいささかへりくだりすぎだし、後者はあまりに大げさすぎる。


 それだけじゃない。

 それらの案では決定打にはならない気がしていた。


 何が足りないのか、どこが欠けているのか、違和感の輪郭はぼやけていて言葉にできない。そいつをはっきりさせないと、状況が悪い方へ転がってしまうのではないかという焦りと不安があった。


 僕はともかく、繭墨が悪意に満ちた噂の標的にされてしまうことが、嫌で仕方がなかった。その原因を作ったのが自分であることが、情けなくてしようがなかった。


 バイト中にそんなことを考えていたから、トラブルを招いてしまったのだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 曲がり角で周りをしっかり確認しなかったせいでお客様のカートと軽くぶつかってしまい、お客様がカゴに入れていた荷物が落ちてしまった。幸い割れ物はなかったが、缶飲料が落ちて派手な音を立てた。


 その音を聞きつけて、トラブルの対処に定評のある長谷川副店長が光の速さでやってきた。お客様お怪我はありませんか、凹んだ商品はお取替えいたします、いえいえお代は結構ですから、はい大変失礼いたしました、ごゆっくりお買い回りください――と円滑にお客様とやり取りをする副店長の隣で、僕は押し黙って中途半端なお辞儀をするだけのペッ〇ー君以下の存在になっていた。


 そのあと案の定、休憩室に呼ばれてしまう。


 今日の飲み物は長谷川さんのおごりではなく、ついさっき落として凹んで売り物にならなくなった缶コーヒーだった。あったか~くはなかったが、さすがにそんなことで文句は言わない。


「あんな凡ミスをするなんて珍しいね」


 長谷川さんは揺らめく炎が刻印された缶コーヒーをあおる。


「すいません」


 僕はパイプをくわえた男性の絵がプリントされた缶コーヒーをあおりつつ、微糖って表記ははやめた方がいい、まったくかすかじゃない、と心の中で愚痴る。


「何か悩み事でもあった? 彼女とのトラブルとか」


 長谷川さんは冗談めかせて言うが、それはあまりにタイムリーなネタだったので、僕は言葉に詰まってしまう。


 あからさまな動揺を見せてしまったせいか、長谷川さんが表情を硬直させる。


「え、まさかビンゴでしたか……」


 地雷を踏んでしまったとでも思っているのか敬語だった。


「いや、まだリーチにもなってないんですけど……」


 と前置きして、僕は一連の問題をダイジェストでお送りした。


「それで心ここにあらずだった、と」

「はい。すいません……」

「自由行動を守らなかったくらいでそんなことになるなんて大変だねぇ。下品な言葉だが、有名税ということになるのかな」

「……ですね」


 僕はだだ甘のコーヒーを飲み下しつつ、苦々しい思いでうなずいた。この件は違反者が繭墨乙姫でなかったら、なんの話題にもなっていないはずだ。


「それに、班行動を破っている人間なんてほかにも山ほどいるだろう。そういう人たちも一緒になって騒ぎ立てているとなると、君も胸中穏やかではないんじゃないかな」


「はい、正直うんざりしますね」


 率直に本心を口にすると、長谷川さんは軽く笑った。


「はは、そう思っていても、簡単に表に出しちゃあいけないよ。君たちにも非があることは確かなんだ。それなのに悪びれない態度を取ったら、相手に叩く口実を与えてしまう。反省していない、ってね。それは悪手だ。なんの得にもならない」


「あ……」


 長谷川さんは口元を上げる。

 僕の愚痴に同意して理解を示すことで、抑えていたはずの本音を引き出された……ということだろうか。こういう手を使ってくる人もいるから気をつけなさい、とアドバイスされたみたいだった。


「さてと、話は変わるが、君は〝ヒヤリ・ハット〟という言葉を知っているかな」


 本当に話が変わった。そして聞き覚えがない。


「いえ……、宅配ピザ屋が始めたアイスクリームの新ブランドですか」

「そのネタ面白いね、こんど使わせてもらうよ」


 やっぱり違っていた。


「ヒヤリ・ハットというのは、安全対策の用語でね。一つの大きな事故の裏には、いくつかの軽い事故と、たくさんのニアミスがあるとされている。そのニアミスのことをヒヤリ・ハットというんだ。実際に何かが起こったわけじゃないけど、ヒヤリとした、ハッとするような出来事のことだね。冗談のようなネーミングだけど」


「今日のは軽い事故ということになるんですかね」


「うーん、事故というレベルでもないんだが……、例えば落としたのが缶コーヒーじゃなくて一升瓶だったら、売り場が大変なことになっていたし、その傍に小さな子供がいて飛び散ったガラス片でケガをしたとなれば偉い人が直々にお詫びに行くレベルだし、そのガラス片が眼などを傷つけてしまったとしたら、これはもうお詫びじゃ済まなくて裁判沙汰のレベルになってしまう」


 倍々ゲームで悪化していく事態とその責任の重さに、例え話とはいえゾッとしてしまう。


「だからまあ、そういうふうにならないように、不安要素を潰しておきましょうという話さ。世の中、こんなことをしてなんになるんだ、っていう物事は多いけれど、なんにもない状況を維持するためには、それなりの労力が必要なんだよ」


 長谷川さんはフォローするように笑ったが、僕はかえって身が引き締まる思いだった。好きな子を守るためには努力しないとね、とかなんとか、そういうことを言われているような気がした。


「さてと、それじゃあ」


 休憩を切り上げようとする長谷川さんに声をかける。


「……今日は本当にありがとうございました」

「そう気にしなくていいよ」

「でも、仕事のミスだけじゃなくて、相談にも乗ってもらって」

「部下の相談に乗るのも業務のうちさ」


 振り返って長谷川さんは笑う。


「なんかしょっちゅう長谷川さんの業務を増やしている気がします」

「これくらいは序の口だよ。……相談というものには三種類あってね」

「三つですか」

「二つという人もいるし、もっと多いという人もいるが、私は三つだ」


 長谷川さんは人差し指を立てた。


「まずは真っ当な悩みの相談。今日の君がそれに当たる。自分だけでは解決できない問題の、手掛かりを求めるものだ」


 長谷川さんは中指も立ててVサインになる。


「二つ目は同意を求めるもの。当人はその悩みに答えを出しているのに、あと一歩踏み出せないから、誰かに背中を押してもらいたいという、とても面倒くさい人の相談だ」


 長谷川さんは薬指も立てた。指先が震えていた。


「そしてラスト、三つ目は、相談の名を借りた自慢だ。いわゆる贅沢な悩みというやつを楽しそうにしゃべくって鬱陶しいことこの上ない。例えば……、A子に告白されたんですけどオレってばB実ともいい雰囲気なんスよねぇ、これどっちを取るべきだと思います? いっそ二股かけちゃう系ですかね? あー、でも今オレ元カノにもより戻そうって言われちゃってて、マジどうしましょうかね――」


 例え話という割には誰かの口真似だった。それが唐突に元に戻る。


「――とか言われてもねえ、そんなの、心の底からどうでもいいんだよね。ただ、職場恋愛というものは人間関係がゴチャつくなるだけだから止めてしいという思いを込めて元カノを勧めてみたら、――あ、もしかして長谷川さんってA子狙い? それともB実っすか? ……あー、なんかすんません――って憐れむような顔をするんじゃないよどうしてそういう発想になるんだ、ってこっちは穏やかな上司の笑顔を保つのに必死だったよ。あの日の夜は久しぶりに飲んだなぁ……、嫌な酒だった……」


 早口でまくしたてていたのが、いきなりいつもの口調に戻ったり、かと思えばふっと遠い目をしたりと、長谷川さんの新たなヤバい一面を目の当たりにした僕は、ほんの数十秒前まで抱いていた尊敬の念が音を立てて崩れていくのを感じていた。

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