第114話 相手の押し付けにも付き合うのが男女交際
アパートから出ると、戸口に繭墨が立っていた。
事前に連絡はしていたが、それでも、待ち合わせをしての登校という行為に、僕は特別なものを感じていた。約束によって相手の都合をコントロールするのは、とても贅沢なことだと思う。逆に相手にコントロールされていると言えなくもないが、繭墨の手のひらの上で踊らされるのは、まあ別に、まんざらでもないというか。
「おはようございます」
朝日の下で繭墨の吐息は白い。
11月も後半に入って、今朝の伯鳴市は今季一番の冷え込みだった。ダッフルコートに白いマフラー、黒のハイソックスと繭墨も今季一番の厚着をしている。というか膝上を超えているソックスはもはやストッキングと言っていいのだろうか、分類がよくわからない。
「おはよう」
「疲れているのではないですか?」
繭墨が眼鏡の奥の目を細める。
「そう見える?」
「反応が鈍い気がします」
ソックスをじろじろ見ていたせいだなんて言えない。
「朝からナマ繭墨が見られてちょっと感動してただけだよ」
とっさの言い訳は本音とどっこいどっこいのクオリティだったが、繭墨は特に気にしていなかった。小さく首をかしげて、
「なままゆずみ……、早口言葉みたいですね」
色違いの巻紙を連呼するやつのことだろうか。
赤繭墨、青繭墨、黄繭墨……。頭の中で唱えてみた。
寒気を感じたら赤の繭墨。
無自覚な恥ずかしいセリフでこちらの心を温めてくれる。
風邪の引き始めには黄色の繭墨。
おかゆを振る舞って家庭的なところを見せてくれる。
熱が下がらないときは青の繭墨。
絶対零度の視線で身も心も底冷えさせてくれる。
「失礼なことを考えていませんか?」
「寒くなってきたし、体調管理には気をつけないとね」
「ありきたりな話題を持ち出して何かを誤魔化しているとしか思えません」
「ところで繭墨はヒヤリ・ハットって言葉を知ってる?」
「誤魔化しを隠すことすらしなくなりましたね……」
強引に話題を変えて歩き出す僕の背中に、チクチクと視線を感じた。いつものことですし、大目に見るのも女性の甲斐性ですね、などとため息交じりの言葉も聞こえてくる。
「……ヒヤリ・ハットというのは安全対策に関する用語ですね。重大事故の裏には数多くの〝あわや〟が潜んでいるという――どうしたんですか阿山君、イタズラを見抜かれてやる気をなくした子供のような顔をして」
「いや気にしないで」
「彼氏の博識っぷりに感心して惚れ直す彼女を演じられなくて申し訳ありません」
知識でマウントを取れなかったのは残念だが、彼氏と明言されることに比べたらどうでもいいことだった。
「謝る必要なんてないよ、隣にいてくれるだけで十分」
「その反応は予想外でしたね……」
繭墨の声は引き気味だったが、頬はごまかしようもないくらい赤くなっている。それを恥じてか、こほん、とわざとらしい咳ばらいをひとつ。
「こんなタイミングでその単語を持ち出すということは……、このままでは
ああ、さすがは繭墨だ。たったそれだけで、僕が考えていることを見抜くなんて。多少の動揺があっても、その鋭敏さは変わらない。
僕は歩きながらうなずいた。
昨日の話の、その続きだ。
「生徒会長自らの謝罪や、再選挙の提案っていうのは、責任回避的なアクション――悪い言い方をすれば、逃げだと思う」
繭墨はあごに手をやって、やや視線を下向きにする。彼女が考えごとをするときのポーズだ。
「確かに……、しおらしく頭を下げてみたところで、どこかの誰かの怒りや義憤を一時的に紛らわせるくらいの効果しかありません。本当に責任を取るというなら、与えた被害をきちんと補填しなければなりませんね」
僕がずっと抱き続けていた漠然とした不安は、繭墨の言葉によって急速に形を成していく。
「この一件での被害者っていうと」
「本当はほかの班の友人と回りたかったのに、我慢してきちんとルールを守った人たち。つまり、正直者が馬鹿を見る羽目になった人たちです」
「改めて言葉にすると……、キツいね」
「はい。軽率だったと言わざるを得ません。ただ、そういう人たちは他者のルール違反について、大げさに騒ぎ立てたりはしない傾向にあります。彼らがルールを守るのは、損得以上に
寝た子を起こす必要はない。敢えてこちらから踏み込まなくてもいいのではないかと、繭墨はそう言っているようだった。
今回の一件について、僕が傍観者であれば、まあそういうこともあるよな、と興味を抱かなかっただろう。
「繭墨の言うとおりだよ。損得よりも矜持。僕もそう思っている」
僕たちは同時に立ち止まった。
敵対したり何かが決裂したわけじゃない。ただ信号が赤になっただけだ。
「ルールを破った責任を取らないと、鏡一朗さんの気が済まないんですね」
「そういうこと」
「……律儀ですね。あるいは潔癖でしょうか」
二人して黙り込む。その目の前を何台もの車が通りすぎる。
律儀と潔癖。
両方とも当たっているが、同時に、決定的に的を外している。
それらは自分だけに課した重しではないからだ。
僕は繭墨乙姫こそ、律儀であってほしい、潔癖であってほしいと思っていた。
誇り高く凛々しく花咲く、一輪の水仙のような潔さを、彼女に求めていた。
高嶺の花の生徒会長。定期テストでは常に学年トップ。非公式ミスコンで一位を獲得。告白された相手は数知れず。
この学校で最もイメージの押し付けやレッテル張りに晒されている彼女の、一番の理解者でありたいと思っていた――そんな自分が、彼女の一番近くで
「あなたがわたしの面倒くさいところを認めてくれたように――」
穏やかな声は、自動車の走行音の中でも不思議と掻き消えることなく、はっきり聞こえてくる。
「――わたしもあなたの不器用なところに好感を持っています」
ああ、これは。
見抜かれている。例によって。
「欠点をほめられても、イマイチうれしくないな……」
出てくるのは恥を隠した憎まれ口。
「小器用なところも好きですよ」
その付け足しはフォローになっていない。小器用は褒め言葉ではないのだが、繭墨はもちろん理解した上で使っている。
信号が青に変わって繭墨が歩き出す。僕も遅れてそれに続いた。青信号に促されるのではなく、恋人に離されないように。
「過ちをごまかすのではなく清算するとなると、謝罪や再選挙とは異なる手段が必要ですね」
「早めに考えないと」
「はい、おぼろげには試案が浮かんでいるので、今日の授業中に形にして、放課後には顧問の国沢先生に――」
「ちょっと待った」
僕は思わず口を出してしまう。
試案が浮かんでいる、だって? それはあまりにも早すぎる。
「どうしたんですか」
「早めにとは言ったけど、急ぎすぎだよ。これは確かに僕たちのミスだけど、他の生徒は生徒会長のミスと捉えている。だったら、繭墨だけで考えるんじゃなく、生徒会の意見として話をまとめるべきだ」
「ですが、自分たちのミスをほかの人にフォローしてもらうというのは」
繭墨は珍しくはっきりと表情を曇らせる。
僕も同感だった。自分の不手際を人に押し付けるのは心苦しいし、恥をさらしているみたいで心地が悪い。
それでも、繭墨はもっと生徒会メンバーの手を借りるべきだ。
文化祭のときもそうだったが、繭墨は放っておくと一人で突っ走ってしまう悪癖がある。自分のことを自分で片づけようとするのは全く正しい姿勢だが、彼女はそれが行き過ぎて体調を崩したこともあるのだ。ムキになりやすいとも言う。だから、誰かに見守っていてほしかった。
その役はもちろん僕でありたかったが、今回ばかりは難しい。生徒会に属していない僕が生徒会室に出入りすれば、彼氏を特別扱いしている、などと反感を持たれてしまうからだ。副店長の言葉を借りれば、叩く口実を与えることになる。
「大丈夫、遠藤さんや近森さんなら笑いながら手伝ってくれるよ」
遠藤のゆるふわな笑顔や、近森のボーイッシュな笑顔を思い返しながら言う。遠藤は気が利くし、近森は面倒見がいい。フワッとした言葉になるけど、2人ともいいやつだと思う。
ところが、繭墨は何が不満なのか、より表情を曇らせる。
やはり人の手を煩わせるのが嫌なのだろうか。どうすれば納得してくれるだろうと思い悩んでいると、繭墨は横目でジトッとした絡みつくような視線を向けてきた。
「……あの二人のことをずいぶんと信用しているんですね」
「え、そっち?」
が、すぐに表情をほころばせて、
「冗談ですよ。阿山君がわたしの保護者
「
こちらの軽口にも繭墨は笑顔を返す。
「心配してくれてありがとうございます」
「こっちこそ、ありがとう。僕の――」
律儀とか潔癖とか、そういった綺麗な言葉を使うのは気が引けて、別の言い方を数秒ほど考えた。
「――融通の利かないところに付き合ってくれて」
「相手の押し付けにも付き合うのが
そのセリフは冗談めかしていたが、こちらにとっては、どこまで察せられているのか、という底知れなさを感じる言葉でもあった。
そして、それとは別に、チクリと刺さる棘ひとつ。
僕が繭墨に盲信めいたイメージを押し付けたように。
繭墨が僕に何かを押し付けてくれる日は来るのだろうか。
そんな日が来るとして、僕はそれを受け止められるのだろうか。
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