第108話 修学旅行の六日目


 勝負のときは訪れなかった。

 強いて言うなら不戦敗だろうか。


 目を覚ますと身体が激しく揺さぶられていた。左右に揺れる視界の端で、繭墨がこちらをにらみつけてくる。


「おはようございます」


 繭墨はすでに制服に着替えており、いつもと変わらぬ凛とした表情。窓から差す朝日が後光のように彼女を縁どっている。


 ここはベッドの上ではなく、玄関先の床の上だ。


 昨晩、部屋に戻ると、繭墨はジャージに着替えてベッドにもぐり、穏やかな寝息を立てていた。こちらの不埒を誘うための罠ではなくて、本当に熟睡していた。


 しかし、繭墨家の家庭の事情を知ってしまったあとでは、その寝姿をどうこうしよう気は起きなかった。


 いつも凛として張り詰めている繭墨が、本当にぐっすりと眠っているのだ。

 確かに旅の疲れはあると思う。

 だとしても、こんな無防備な寝姿を見せるのは、この部屋が彼女にとって安心できる場所だからじゃないのか。

 それに付け込んで手を出すなんて、卑怯者のすることだ。


「……おはよう」


 僕は目をこすりつつ身体を起こす。

 床に直接布団を敷いて寝ていたので、身体のあちこちが痛かった。


「いくら休日とはいえ、少しだらしない時間ですよ」


 繭墨は元気だった。睡眠は十分に取れたのだろう。対する僕は、ようやく眠りに落ちたのが明け方ちかく。寝不足のせいか、目元に綿を詰められたみたいに眼球が乾いていた。


「ほら、起きてください」


 強引に布団をはぎ取られる。


「ああ、もうちょっとだけ……」


「駄目です。生活リズムの乱れは、体調や精神状態などのあらゆるパフォーマンスに悪影響、を……」


 唐突に繭墨が顔を赤くする。


「どうしたの」


「朝から元気なのはいいですが、モーニンググローリーはほどほどにしてください」


朝顔モーニンググローリー……?」


 繭墨の視線に沿って下を向くと、身体の一部だけは元気だった。しかし起き抜けの寝ぼけた頭のせいか、あまり羞恥を感じない。


「ん、ああ……、花を枯らせと言うの?」

「そうしたら種が残るでしょう」

「種ってあんた……」


 自分の発言のきわどさに気づいたのか、繭墨はさらに顔を赤くする。


「とにかく早く起きてください朝食はできていますから」


 早口でまくし立てると、繭墨は手に持っていた浅葱色の布を投げつけて、僕のモーニンググローリーを覆い隠す。その上、


「だいたい、なんですかこの羽織。壬生狼みぶろにひっかけて夜の狼にでもなるつもりだったんですか」


 とさらに責め立ててくる。壬生狼というマイナーな単語をこんな短期間で二回も聞くとは思わなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ひと晩おいた豚汁のおかげで朝から食欲は旺盛だった。豚肉の脂や煮込まれた具材の風味が絡み合って、ごはんが進むこと進むこと。


「意外と食欲があるんですね。もっと食が細いと思っていました」

「普段はこんなに食べないよ」

「そうですか」

「やっぱり乙姫の手料理だからじゃないかな」

「まだ半分くらい脳が眠っているみたいですね」


 ほめ言葉を寝言あつかいであった。

 そんなやり取りをしつつも朝食を食べ進めていく。


 繭墨は相変わらず、マナー教室でも開けそうなくらい、上品に食事をする。きちんと正座をして、背筋を伸ばして座るので、こっちが胡坐をかいているのが申し訳なくなる。箸の持ち方や、お椀の持ち方、咀嚼する口の動き、すべての動作に意識が行き届いている感じがする。


「食べ方とか姿勢とか、もうちょっと崩してもいいんだよ。せめて他人の目がないときくらい、気を張らずにさ」


「お高く留まっているように見えてしまいますか?」


「そこまでは言わないけど……、あんまり上品にされると、こっちが恐縮するんだよ。高級レストランじゃないんだから」


「半分くらいはわたしの性質たちですので」


「もう半分は?」


「鏡一朗さんが言ったとおりですよ」


「え?」


「恐縮してもらうためです。その方が物事を有利に進められますから」


「京都でいきなり着物を着てきたみたいに?」


「さあどうでしょう」


 繭墨は口元を上げつつ、ではお言葉に甘えて、と正座を崩した。


「ではさっそく……、虚勢を張るのを、少しやめましょうか。お話があります」

「……何」


 僕は逆に居住まいを正して身構えてしまう。


「実は、修学旅行はもう一日あると嘘をついて、家から逃げてきたんですよ」


 そして繭墨の口から、淡々とした口調で彼女の家庭事情が語られた。

 それは昨晩、秋浩さんから聞かされたものとほぼ同じ内容だった。


 この一件は、大げさな言い方をすれば、秋浩さんは加害者、繭墨は被害者と取れなくもない。にもかかわらず、繭墨の説明は公平だった。


 秋浩さんの交際相手――〝あのひと〟を貶める、悪意ある先入観を植え付けるような言い方をすることもなかった。その清廉さを好ましく思う。


「……と、だいたいこんな状況なんですが、鏡一朗さん? 今の話で何か楽しいことがありましたか? うすら笑いを浮かべたりして」


「え? 僕、笑ってた?」


 頬を手で触れてみるが、自分ではよくわからない。


 家庭の不和に関するお話に、うれしさを感じる要素があるとすれば、それは、繭墨が僕に相談してくれたことに対してだろう。頼られているとまではいかなくても、愚痴をこぼす相手としてくらいは認められたのだ。うれしくないわけがない。


 そんな内心を隠しつつ、


「内容はちょっと重めだけど、やってることは家出――要するに〝逃げ〟だよね。子供っぽい行動だなぁと思ってさ」


 こちらが笑顔を作ると、繭墨は頬を膨らませた。

 そんな意図的な表情のやりとりのあとで、繭墨は自分の非を認めるような、弱みを見せるような質問をする。


「どうするのが正しいんでしょうか」


 繭墨がこんな率直な迷いを口にするなんて。

 驚きつつも僕は彼女の悩みに応えるべく考えを巡らせる。


「……この一件で乙姫が嫌なことって何?」


「えっ?」こちらの質問の意図を測りかねたのか、繭墨は首をかしげる。


 僕は言葉を選んで説明を付け加える。


「状況の確認というか、優先順位の決定をしたらどうかと思って。これは許せる、これは許せない。これはどうにかできる、これはどうしようもない、って具合に」


「事務的ですね」

「感情的に動いたことを悩んでるんだろ、なら違う視点が必要じゃないか」


 人間は感情の動物というけれど、世界は感情以外のものでも動くのだから。そのあたりのズレをすり合わせるためには、派手に動いた足跡を振り返ることも大事なのではなかろうか。


「……そうですね、鏡一朗さんの言うとおりです」


 繭墨はにこりと微笑み、その笑顔のままで言葉を連ねる。


「わたしがいちばん嫌で、許せないのは、いい歳をした大人たちが性にだらしないことでしょうか。離婚が確定していないのに、父も母も、次の相手と逢瀬を重ねて。娘の気持ちもお構いなしでサプライズを仕掛ける父もどうかと思いますが、その企てを妨害するために情報をリークする母もかなり性根がねじ曲がっています」


「なるほど」


 と僕はうなずく。昨晩、早まって手を出さなくて本当によかった。


「……ええと、そういえば京都で夫婦茶碗を買ってたけど」


「両親へのお土産にするつもりでしたが、これでは当てつけにもなりませんね。あとで粉砕しておきます」


 粉砕て。


「いやいやちょっと待って、そこは都合が合わなくてごめんなさい的な仲直りアイテムとして使えるんじゃないの。秋浩さんと〝あのひと〟に渡すとかさ」


「どうしてこっちが謝らないといけないんですか」


「ひぃ」


「そんなものをプレゼントしたら、まるでわたしがあの二人の再婚を認めているみたいじゃないですか」


「……認めてないの?」


「わたし一人が喚いたところでどうしようもないと諦めているだけです」


「あそう」


 もしかして。

 実は繭墨はファザコンで、父親を取られるのが嫌で、だから〝あのひと〟が気に食わないだけなのではないか。〝あのひと〟当人の性格などはお構いなしに。


「つらかったら、僕の胸で泣いてもいいんだよ」


 両手を広げてみる。


 繭墨は若干身体を引いて、ブランド物にしては安すぎるバッグを買わせようとする露天商を見るような、不信感いっぱいの目を向けてくる。


「どうしたんですか。昨日のサンマは傷んでいなかったはずですが」


 冷たい視線にさらされて、僕は広げた両手をそっとたたんだ。父性のアピールをするにはまだまだ貫禄が足りなかったらしい。


「ええと」閑話休題。「諦めるってことは、もう、再婚の話は確定っぽいの?」


「はい」


「一緒に住むのが嫌とか?」


「知ってのとおり我が家は広いので、ほとんど顔を合わせずに生活することは可能でしょう。相手が干渉してこなければ、の話ですが」


「でも。それを面と向かって言うのはキツいんじゃないの」


「ええ、わたしもさすがに躊躇します。それに相手は――」


 そこで不自然な間があった。何かを言い淀む繭墨。


「ん?」


「いえ、なんでもありません。……思い切って、一人暮らしをするというのも手ですね。どうせ、大学進学と同時に家を出るつもりでしたから、一年と半年……、家賃くらいなら貯金で……、しかしそのお金も両親に与えられたものですし、結局は親のすねをかじっているだけ……」


 繭墨は顎に手をやって、ブツブツと独り言をつぶやいている。


 ……じゃあさ、いっそ、2人で同じ部屋を借りてみる?


 不意にそんな質問が思い浮かんだが、返ってくる言葉の予測がつかなくて、口にするのをためらってしまう。


『それも悪くないですね』とぼんやり肯定されるのか。

 あるいは『まだ早いですよ』とやんわり否定されるのか。


『いいですねそうしましょう』と積極的に肯定されるのか。

 はたまた『絶対に嫌です』と断固として否定されるのか。


 あまり強く拒まれると、立ち直れないかもしれない。


 危険な話題をそっと避けて、僕たちは繭墨家の問題について語り続けた。

 それは雑談ていどのもので、気の利いた解決策が出ることはなかった。そもそも解決があるような問題でもないし。彼女の気晴らしになればそれでよかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「そろそろ、おいとまします」


 十一時を少し回ったころ、繭墨は雑談を切り上げてゆっくりと席を立った。


「あ、うん」


 自分の声は拍子抜けしたような響きをしていた。

 決して意図していたわけではないが、もう帰るの? まだ早いんじゃない? というがっかり感が露骨に出てしまっていた。


「わたしの嘘に、父も気づいていると思いますので」

「確かに穴だらけだったからね」


 基本的に、繭墨の企みは用意周到だ。下手をすれば月単位で前もって準備を進めていることもある。それに比べたら、修学旅行の日程を誤魔化すというウソはあまりに場当たり的だった。繭墨の言うとおり、秋浩さんは気づいていて、昨日の夜には僕に連絡をよこしてきた。


 嘘を吐かれた者はそれに気づいていて、嘘を吐いた者も気づかれたことを察している。それでもなお、嘘がバレていないていで接するのだろうか。


「難儀な親子関係だよね」


「それを明言しない傍観者あなたは、共犯者と同じことですよ」


「大企業の隠ぺい体質が一向によくならない理由がわかったよ」


 なかったことにしよう。その言葉を重ねていくうちに、取り返しのつかないことになってしまったんだろうな。


「謝罪会見を開かずに済むように、今度〝あのひと〟が来ることがあったら、きちんとお話をしてみようと思います」


 冗談めかした前向きなセリフに頬がゆるむ。


「それがいいよ。……本当、それしかないよ」


 心の底からそう口にしていた。

 繭墨がその結論に達してくれてよかったと思う。

 顔を合わせなければ、ケンカだってできないのだ。


 実の母を亡くしている僕にとって、直に会って話せるチャンスをみすみす捨ててしまうのは、宝石をドブに捨ててしまうような、とてももったいないことだった。だから、繭墨の〝逃げ〟が気に入らなかったのだ。


 かといって、昔の不幸話を持ち出して説教を垂れる、鼻持ちならない人間にはなりたくないわけで。


「予定になかった修学旅行の六日目が、いい勉強になってよかったよ」


 玄関口に立って見送りながらそう言うと、


「上からの目線を感じますね」


 上目遣いでつぶやきつつ、繭墨は距離を詰めてくる。


 忘れ物かなという思考はすぐに訂正。身体が触れるくらいの距離、あ、これは、と気づいたときには背伸びをしていた。メガネのレンズが当たらないよう、僕は首をわずかにかたむける。ワイングラスでの乾杯に似た、軽く合わせるだけのキス。天体の最接近のように、唇はあっという間に離れていく。


「ではまた明日、学校で」


 繭墨は振り返らないが、長い黒髪からのぞく耳たぶは真っ赤になっていて、そのサインだけで僕はじゅうぶん満ち足りてしまう。


「ん、また明日」


 だけど、彼女の姿が見えなくなると、もう一人の冷めた僕が顔を出す。


 昔、実家で飼っていた犬にエサをやるのは僕の役目だった。食欲が旺盛なやつで、僕の姿を見ると尻尾を振ってせがんできたものだ。エサの時間がまだ早いときは、ビーフジャーキーをひと切れだけ、おやつとして与えていた。


 さっきのキスは、そのおやつと同じものなんじゃないのか? と。

 唇を舌で湿らせながら、そんなことを考える自分も、確かにいるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る