第107話 勝負のときが近づいている
「鏡一朗さんはテレビでも見て、くつろいでいてください」
繭墨は後ろ手でエプロンを結び、長い黒髪をポニーテールにして束ねた。
お言葉に甘えて、ソファ兼ベッドに足を投げ出して座り、テレビをつける。
僕は亭主関白とは無縁の尽くし系男子なので、本心では料理を手伝いたかった。
しかし、繭墨は料理の手際がとても良いので、下手な手出しは逆効果になってしまう。それ以前にうちの台所は狭すぎて、二人だと身動きが取れなくなるという問題もあった。
家事を任せきりにすることの、なんと落ち着かないことか。手持無沙汰も少しはあるが、それ以上に、繭墨の姿が気になって仕方ない。揺れるエプロンとポニーテールを横目で盗み見ていたが、たぶんバレバレだっただろう。
包丁がまな板を叩く軽快なリズム、鍋の煮えるグツグツという音、鼻孔をくすぐる焼き魚の匂い。繭墨の調理はテンポがよく、鼻歌でも鼻ずさみそうなくらい上機嫌に見えた。豚汁をおたまで掬い、小皿に移して味を見る。かすかにうなずいて、表情をほころばせる。
僕は窓の外に目を向けた。
外は夕闇。
住宅街の家々には明かりが灯っていて、それらはどれも温かさの象徴のように見える。家ごとに、灯りごとに、誰かのために料理を作る人がいて、それを食べる人がいる――なんて、調味料のコマーシャルのような陳腐な想像だと思う。
実際にはそんな満ち足りた家庭ばかりではないのだろう。だけど、今の僕はネガティブよりもポジティブの方が上回っていた。みんなが幸せだと楽観することと、みんなが不幸だと悲観すること、どちらの観点が正しいのだろう。若造の僕にでもわかることがあるとすれば、繭墨に突然別れを告げられたら、僕はきっと後者に墜ちてしまうということだ。
小難しいことを考えているが、これは念仏みたいなものだ。
制服エプロンの繭墨を視界に入れ続けていると、妄想が際限なく前進してしまう。夕食を食べたら、そのあとはどうするつもりなのか。泊っていく気なのか。その場合、ベッドはひとつしかないので、もちろん繭墨に譲るつもりだ。僕はおとなしく床で寝ましょう。負い目なんて感じる必要はない。……ただ一応これでも僕たちは恋人同士になったわけで、夏休みとは状況が違っているわけだ。部屋へ上がるというのは、なんというか、そう、俗っぽい言い方をするならばOKのサインなのではないだろうか。あくまで一般的な感覚としてそう考えてしまう。もちろん相手が嫌がっているのを無理にするつもりはないが、ひょっとして流れやムード次第ではイケてしまうのではないだろうか。あるアンケートでは少しくらい強引に来てくれてもかまわないと回答する女性も――
「できましたよ」
繭墨が料理の完成を告げる。
「待ってました」
僕は勢い良く立ち上がって煩悩を退散させた。テキパキ動いて食器を用意する。悩み事があるときは身体を動かすのがいちばん、というのは一理ある。
◆◇◆◇◆◇◆◇
幸せな食事の時間が終わって、本来ならのんびりしたいところだったが、僕は食後のコーヒータイムを回避した。これ以上おだやかで満ち足りた、所帯じみた雰囲気になるのはよろしくない気がしたのだ。
「洗い物は僕がやるよ」
「ではお願いします」
繭墨はそう応じてベッドに座った。壁に背中をあずけ、本棚から勝手に文庫本を抜き取って読み始める。
「わたしが使った箸で変なことをしないでくださいね」
ページをめくりながらそんなことを言う。
「しないよ」
「具体的には、頬ずりをしたり、舐め回したり、洗わずに保管したり……」
手が滑って食器を落としてしまう。
シンクに当たってゴトンという鈍い音を立てた。
「まさか図星ですか」
「びっくりしただけだよ。自分の使用済みの箸がそこまでの偏愛対象になると考えるのは、すごい自信だなって。ナルシストというか」
「でも、思春期の男子は女子の縦笛を盗んで同様の変態行為に走るんですよね」
「それが一般的みたいな言い方やめてくれない?」
手当たり次第に変態行為を並べられると、いつかビンゴが出ないとも限らない。数撃ちゃ当たるというやつだ。そうしたらまた食器を落としてしまうかもしれない。
そんな心配をよそに繭墨は黙って読書に没頭してくれたので、悲劇はどうにか回避された。
しかし、食器を洗い終わると、繭墨の口からさらなる爆弾発言が飛び出す。
「やっぱり旅行の疲れがあるみたいです。本を読んでいたら眠くなってきました」
文庫本を閉じて上目遣いで、
「……先にお風呂をいただいてもいいですか」
「どどうぞ?」
3文字の言葉すら満足に発言できない、激震レベルで動揺する僕をよそに、繭墨はカバンを持って風呂場へ向かう。
覗かないでくださいね、なんて冗談めかした言葉はなかった。それが却ってよろしくない。向こうも緊張してるんじゃないかと変な勘繰りをしてしまう。
なんてことだ。
勝負のときが近づいている。そう考えてもいいのだろうか。
僕は修学旅行の土産が詰まった袋を開けて、青と緑の中間のような色の布切れを引っ張り出す。浅葱色。新選組の羽織(Lサイズ:3980円)である。
買ったのは僕ではない。赤木が自腹を切ったものを無理矢理ねじ込まれたのだ。
『勝負服だ、持っていけ』芝居がかったセリフだった。『新選組はかつて
コスプレでそういうことをするのはちょっと……、と困惑しかなかったが、まさかいきなり使いどころが来るとは思わなかった。いや、使わないよ? ご法度はしないけどね?
馬鹿なことを考えても煩悩は去らない。
ほんの数メートル向こう、壁や扉を隔てたところで、あられもない姿の繭墨が風呂に入っているのだと思うと、なんかもういろいろと駄目だった。
僕は『夜風に当たってきます』と書置きを残して部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煩悩退散、南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ……
と意味を理解していない念仏を心の中で繰り返し唱えつつ夜道を歩く。
繭墨はいったいどういうつもりなのか。
付き合っている相手の部屋へ来て、手料理を振る舞い、あまつさえ風呂に入るなんて、どう考えたってOKなんじゃないのか。
繭墨の本音がわからない。普段ならそれを楽しむ余裕もあるが、今宵ばかりは頭痛のタネでしかない。イカサマを使ってでも本心が知りたかった。イエス/ノー枕を買っておけばよかった。
吹きつける風の冷たさに、僕は羽織っていたコートの前を閉じた。ああ、晩秋の夜風は、迷い人の体温を容赦なく奪っていく。
ふと、闇夜の中で煌々と光を発しているドラッグストアの看板が目に入った。
唾液を飲み込む。ゴクリと喉が鳴った。
やはり買っておくべきなのだろうか。僕と彼女の最終防衛線を。
立ち止まって考え込んでいると、ポケットのスマートフォンが短く鳴動する。
秋浩さんからのメールの着信だった。
『乙姫が来ていないかな?』
というシンプルな問いかけの文面だ。電話ではなくメールを使うあたり、このやり取りを娘に気づかれたくはないのだろう。
外ならば繭墨に聞かれる心配はない。電話をかけると、秋浩さんはすぐに出た。
『やあ、夜分に済まないね』
「いえ……」
『こうして折り返しの電話をくれたということは――』
「はい。乙姫さんなら僕の部屋にいます」
このセリフ、なんかすごい優越感。
『やっぱりそうか……』
秋浩さんの言葉には力がない。
「何かあったんですか」
よその家の問題に口をはさむべきではないとわかっているが、僕は反射的にそう尋ねていた。繭墨が突拍子もない行動を取る原因は主に二つ。色恋と家族だ。
夏休みの一件もそうだった。秋浩さんが浮気相手を家に連れ込んでいたところに出くわしてしまい、それがよっぽどショックだったのか、繭墨はそのまま家を出て、数日ほど僕の部屋へ上がり込んでいたのだ。
あのときと違うのは僕たちの関係性だ。
前回はまだクラスメイトだからと抑えていたが、今はいちおう恋人同士なのだ。繭墨にその気がなくても、こちらはハイそうですかと物分かりよくはできない。
『お恥ずかしい話だがね……』
秋浩さんはそんな語り出しで事情を説明してくれた。
その内容は案の定だったが、僕は前回ほど、繭墨に同情的にはなれなかった。正直言って、過剰反応しすぎではないかとも思う。
「……あの、乙姫さんに帰るように言いましょうか」
『頼めた義理じゃないさ。それに、キミなら悪い相手じゃないと思っているよ』
「相手って」
『父親としては、一抹どころか百抹も千抹も寂しさがあるんだけどね。そこに口を出すような時代でもない。ただ、せめてやさしくしてやってほしい』
「ちょ、親公認とかやめてくださいよ」
軽いなあんた。
父親という生き物は娘の彼氏に対してもっと攻撃的なものかと思っていたけど、それは僕の勘違いだったらしい。浮気上等の秋浩さんにとやかく言われても、たぶん反感しかなかっただろうけど。
『ただし、家族計画は適切にね』
「余計なお世話です」
秋浩さんが公認してくれたところで、気分が盛り上がることはなかった。先ほどまで際限なく膨らんでいた妄想が断ち切られて、逆に冷静になれたくらいだ。
ドラッグストアに背を向けて、僕は来た道を引き返す。
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