第106話 偽りの一泊
スーパーで今晩の食材を買いそろえ、阿山君のアパートへ向かいます。
少々――いえ、かなり強引に押し掛けてしまいましたが、阿山君はずっと目が泳ぎっぱなしで、こちらの意図を考えている余裕などない様子です。目論見通りでした。
わたしがなぜ通い妻のようなことをしているのか。
その理由を語るには、時間を少し巻き戻さなければなりません。
◆◇◆◇◆◇◆◇
修学旅行帰りの列車の中でのことでした。
ソファに背中を預けてまどろんでいたわたしは、カバンの中から聞こえてくる控えめな着信音で目を覚ましました。発信相手は『繭墨
「……もしもし、どうしたのこんなときに」
客車から出て連結部で電話を取ります。
『淡白ねぇ。可愛い子供の旅先での様子が、気になって仕方ない親心でしょうに』
「ご心配なく、特に問題はないわ」
『阿山君とはうまくやれているの?』
「特に問題はないわ」
『可愛げのない反応ねぇ、そんなんじゃ世の男子の心はつかめないわよ』
「アイドルになるつもりはないから大丈夫。それに彼は、わたしの可愛げのないところが気に入っている奇特なひとだから」
『……本当にうまくやれているみたいね。こんなナチュラルにノロケられると、からかう気も失せちゃうわ』
「親心はどうしたの」
『それはここからよ』
浮ついていた母の声のトーンが少し下がりました。
『お父さんがね、今日、家にあのひとを招いているみたいよ』
「あのひと……」
言葉が続きませんでした。
〝あのひと〟というのは、わたしたち母娘の間でだけ通じる代名詞です。対象は――父が現在交際している女性のこと。
そんな相手を、よりもよってわたしが修学旅行から帰ってくる日にぶつけてくる理由は、おそらく――
『娘に正式に紹介するつもりなんでしょ』
「だからわたしが逃げも隠れもできない、修学旅行終了直後を狙ったのね」
『家庭的な人みたいだから、手料理を振る舞われたりするんじゃないかしら』
「どうしてわたしに教えたの」
『心の準備というものは必要でしょ?』
わたしが無言でいると、母は『あまりツンケンして〝あのひと〟たちを困らせちゃダメよ』と言い残して電話を切ってしまいました。
外に目を向けると、高速で流れていく景色。
目を閉じて思考します。
母がこのタイミングで〝あのひと〟のことを知らせたのは、おそらく100%の親切心ではないのでしょう。きっと当てつけ。わたしが極端な行動に走るであろうことを見越して、今日の面会の場を乱せるかもしれないと、そんなことを考えたのではないでしょうか。
両親はお互いに次の相手を見つけていて、昔の相手への未練はほとんどないように見受けられます。それでも、すんなりコトが進むのは面白くないのでしょう。大人のくせに、子供じみたひとたちです。
こうしてぼんやりしている間にも、列車は刻一刻と、伯鳴市へわたしを運んでいきます。父と〝あのひと〟が待つ実家へと。
迷ったのは一瞬だけ。
わたしは父の番号を呼び出して電話を掛けました。
『もしもし、乙姫。どうしたんだい』
「
『明日の!?』
父は素っ頓狂な声を上げます。
「ええ、明日よ」
『今日ではなく?』
「明日。修学旅行は五泊だって言ってなかったかしら」
『五日と記憶していたんだが……』
「はっきり確認しなかったこちらのミスね。ごめんなさい。都合が悪いの?」
電話口でのうろたえっぷりから察するに、母の情報は事実のようです。
『い、いや、明日でも大丈夫だよ、うん。あと一日、ゆっくり楽しんでおいで』
「ありがとうお父さん。お土産を待っていてね」
わたしなりにはしゃいだ声でそう告げてから電話を切ります。窓ガラスに映り込んだ表情は、親しい人に見られたら心配されそうな程度には平坦でした。
ともあれ、これで父の企ては回避しました。
あとは、この偽りの五泊目を、どこで過ごすのか、ということですが……。
この迷いは、父に電話をかけたときよりも、ずっと深いものでした。
再び電話帳を開いて『阿山
『やあ、珍しいなオトヒメちゃん』
「
『いくらでもいけるさ、ちょうどレポートが煮詰まってて、気分転換したかったところなんだ』
「では休憩がてら聞いてください」
『っつても、どうせ鏡一朗がらみなんだろ』
「そうですね」
わたしは数秒ほどかけて最初の言葉を選びます。
「……鏡一朗さんは、三大欲求のうち特に思春期の男子が持て余しがちな」
『性欲?』
「……実家で暮らしていた頃、その欲求を千都世さんへ露骨に向けてくることはありましたか?」
『んー、そうだな、人並みにはあったんじゃないのか? まあ露骨じゃあなかったけどな。必死で隠してるけどバレバレな感じだったか』
「そうですか」
『あいつは内向きな
「それはわかります」
『どうしたオトヒメちゃん。あいつに性的な目で見られて困ってんのか?』
「いえ……」
そういう視線はむしろ曜子に向けられることが多いように思います。
『なぁに、オトヒメちゃんなら襲われたって返り討ちにできるって。護身術の一つや二つ、習得済みなんだろ?』
千都世さんと同様のイメージをわたしに抱いている人は多いようです。『薙刀とか似合いそう』『やっぱ弓道でしょ』『どっちにしても袴を着てほしい』などと陰で言われることもありました。
『んで、オトヒメちゃんは
「まだ早いと思っています」
『はぁん……、だからあんな質問をしたわけか』
「欲求よりも理性が勝っていたというお話が聞けてよかったです」
『でも過去形だぞ。それに……、それにだ。関係性がちがう。義理の姉弟の一線を超えまいと必死にタブーをこらえるのと、仮にも彼氏彼女の間柄になった相手とよろしくやりたいっていうのは』
「そうでしょうか」
そうですね、と認めることはためらわれました。
『ああ。エヴァのテレビ版と新劇場版くらい違う』
「……よくわかりません」
『じゃあそうだな……、ファーストガンダムとガンダムシードくらい違う』
もっとわからなくなりました。どちらもかなり古いですね。
「レポートで忙しいという割には、フリーな時間が多そうですね」
『大学生ってキラキラした生活を送ってると思われがちだけどな、ひと皮むいたら妙なのばっかりだぞ。時間があり余ってるもんだから、新しい趣味に目覚めちまって、のめり込むやつの多いこと多いこと』
「参考にします」
『あと、鏡一朗の理性を保証する、足しになるかはわからないが……、
「そうでしたか」
『でもまあ、本能なんて状況しだいで吹っ飛んじまうからなぁ。オトヒメちゃんがまだ早いって思うなら、なるべくあいつの部屋には入らないようにしなよ。チャラい雑誌が特集組んでるような〝女の子のOKサイン〟を探して、目が血走ってるにちがいないからな』
「心しておきます」
一応、カバンに潜ませているスタンガンの電池を交換しておきましょう。
『性の不一致はカップルが別れる原因のひとつだっていうし、あいつだって一応は男性なんだ、あんまりじらしてやるなよ。少しくらいサービスしてやりな』
「……それだったら」
『ん?』
「キスをしました」
『ほう』
わずかに遅れたレスポンスから、千都世さんの動揺を感じます。
「場所は鏡一朗さんの部屋の前の、あの共用通路です」
――お姉さんが鏡一朗さんとキスをしたのと同じ場所です。
言外のメッセージは、察しのいい千都世さんなら当然、気づいたでしょう。
「話を聞いてくれてありがとうございました」
あまりにも挑発的な言葉を吐いてしまった恥ずかしさから、わたしは早口で礼を述べ、自ら通話を切り上げます。スマートフォンを胸に当て、列車の天井を見上げました。何を言っているんでしょう、わたし。
昔はあなたと心を通わせていたとしても、今、彼の隣にいるのはわたしなのだと。
そんな当てつけめいた主張は、まったくもって自分らしくありません。ただ、
「……なるほど」
我が振りを見返して、唐突に理解しました。
母が〝あのひと〟のことを教えてくれたのも、同じ感情によるものなのだと。
違うのは向いている時間でしょうか。
わたしは未来で。
母は過去。
今、あなたの隣にいるのは〝あのひと〟だけど、昔はそうじゃない時間があったのよ、忘れないで――と、母はそういうメッセージを、わたしを通じて父へ送りたかったのでしょう。それはきっと未練ではなく、確認、念押しのようなもの。
自然と口元が上がります。母を理解したことがうれしかったのか、母と同じことをしてしまったのがおかしかったのか、よくわかりません。
ともあれ、さしあたっての問題は過去でも未来でもなく、現在にあります。
要求されているのは、子供じみた外泊の理由を阿山君に気づかれることなく、なおかつ、彼の
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