第105話 修学旅行の最終日

 修学旅行の全日程を消化して、帰途に着いた列車の中。


 伯鳴高校の2年生で埋め尽くされた車両には、だらけた空気がただよっていた。

 列車の乗り換えを終えた生徒たちの多くは、ハイテンションと疲労がないまぜになったゆるい笑顔を浮かべている。早々に居眠りを始めている者も、ちらほらと。


 1日目は奈良、2・3日目は京都と連日の古都見学。

 4日目は大阪の遊園地で丸一日を過ごし。

 5日目――最終日はほぼ移動のみ。僕たちは車上の人となっていた。


 繭墨とは少しばかり気まずくなることもあったが、おおむね悪くない修学旅行だった――というのは控えめな感想だろう。正直いって最高だった。好きな子が隣にいるだけで、あんなに夢心地になるとは思わなかった。


 繭墨と一緒なら、どんなにつまらない映画だって席を立たずに最後まで見られるだろう。そして、あとでどこがどうつまらなかったかを語り合うのだ。


 繭墨と一緒なら、賽の河原の石積みだって笑いながらやれるだろう。積みやすい平らな石を譲り合ったりして、編み出した積みテクを教え合ったりして。


 無人島に何かひとつ持っていくとしたらもちろん繭墨だ。モノ扱いしないでください、ピグマリオンコンプレックスですか。そんな反論が聞こえた気がした。




 伯鳴駅へ無事に到着。

 修学旅行の全日程が終わって解散となる。


 駅舎から出ると、ここが旅行先とは違う街なのだということが、五感すべてで感じられた。

 空気の匂いや、雑踏の音や、風の温度。

 あか抜けない地方都市の、今ひとつ冴えない街の景色。

 それらを好きとか嫌いとか考えたことはなかったが、帰ってきて気持ちが落ち着いているのは確かだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 部屋に戻って荷物を片付けると、僕はすぐにバイト先でもあるスーパー〝ラッキーマート〟へ向かった。食料の買い出しと、お土産を渡すためだ。


 旅行前にやっておかなければならないことのひとつに、冷蔵庫の生モノの整理がある。数日前から調理と購入のバランスを考え、計算して消費していった結果、冷蔵庫の中身は調味料だけだ。つまり修学旅行から戻ったばかりの現在、食べる物がない。


「おや、今日帰ってきたのかな」


 副店長の長谷川さんは、こちらに気づくとそう声をかけてきた。ちょうど鮮魚コーナーでパック詰めされた魚たちを並べ直しているところだった。


「はい、ご迷惑をおかけしました」


 と僕は1週間丸々休みをもらったことを謝罪する。

 長谷川さんは苦笑を浮かべてぱたぱたと手を振った。


「いいってことさ。楽しかったかい?」

「それはもう。あ、これお土産です。生八つ橋」

「定番すぎて逆に新鮮だね。ありがとう、みんなでいただくよ。しかし……、帰った当日に持ってきてくれるなんて、律儀というかせっかちというか」


 まあ、キミらしくはあるよね、と長谷川さんは笑う。


「夕飯の食材を買いに来たついでです」

「ああ、なるほど。でも疲れてないかい? 私なんて、出張から戻った日は、料理する気にはとてもなれないよ」

「作ってくれる人もいませんしね」

「やめておくれ、そろそろ切実なんだ」


 アラサーの長谷川さんは切実なため息をついた。

 しかし、お客様が通りかかると反射的に笑顔になって「いらっしゃいませ」と挨拶をするところはさすがの副店長である。


「ああいう若い女性が食材を買い込んでいるのを見ると癒されるよ」


 さすがの副店長による問題発言に、ちょっと引いてしまう。


「長谷川さん……?」


「料理は女性がやるもの、なんて古い考えを持ち出すつもりはないけど、やっぱり手料理はいいものだよ」


 長谷川さんは遠い目をしながら、しみじみとつぶやいた。


 在りし日の美しい記憶に思いを馳せているのだろうか。どうしよう、下手につつくとおかしなことになりそうだ。一応、長谷川さんは大人で、上司なのだから、あまり馴れ馴れしくするのも考えものだ。一応。


 そんな風に思い悩んでいると、


「阿山君」


 と氷でできた風鈴が鳴るような声がした。

 振り返るまでもない。


「繭墨? 家へ帰ったんじゃなかったの?」


 こちらの質問を無視して、繭墨は距離を詰めてくる。駅で解散してから、まだそれほど経ってない。家へ帰ってからここへ来る時間はなかったはずだ。それに、旅行の帰りで大荷物だったはずなのに、今彼女が持っているのは学校指定の鞄だけだ。他の荷物はどうしたのだろう。


 繭墨は僕の隣に立って、パック詰めされた魚たちが並ぶ冷蔵ショーケースに目を向ける。


「阿山君は自炊をしていますよね」


「まあそれなりに」


「でも、魚介の料理はあまり作っていませんよね」


「どうしてわかるの」


「以前にコンロを使ったとき、魚を焼いた形跡が全くなかったので。新品同様になるまで磨いたのでなければ、魚の調理自体を避けているのではないかと思いました」


「そうだよ。魚臭くなりそうだし、なんか億劫でさ」


 と僕は認めた。繭墨のいうとおり、一人暮らしを始めてからというもの、魚といえばスーパーの刺身か、調理済みの焼き魚ばかりだ。生の魚を買って調理することはまったくしていない。母さんからも、食事のバランスはしっかりするように、特に魚を食べなさい、と注意されたものだ。スルーしていたが。


「そういうことなら……。一尾まるごと捌くことはできませんが、煮ものや焼きものくらいなら提供できますよ」


「いや、できますよと言われても」


 恋人の手料理。

 願ってもない申し出のはずなのに、あまりにも突拍子がないせいで、うれしさよりも、うさん臭さの方が先に立ってしまう。その意図を測りかねていた。


 女子力アピールなんて繭墨らしくないし、そんなことをしなくても、彼女の料理の腕はよく知っている。以前よりも腕を上げましたよ、もちろんあなたのためにです、だからぜひ食べてみてください、という健気さのアピールだろうか。しかし、健気なんて形容詞もまた繭墨らしくない。


 そもそも、修学旅行が終わったばかりにそんなことをするというタイミングが意味不明だ。こんな慌ただしい日を選ばなくても、明日はどうせ休日なんだし――


 そこで僕は一瞬、頭のなかが真っ白になった。

 まさか。


 明日はお休みだから今夜は泊っていきますという、社会人どうしの恋愛っぽい雰囲気でアレをソレしたあげく、朝のコーヒーを二人で飲むような感じを目論んでいるのだろうか。週末の予定は空けておいてくださいということなのだろうか。


「ほら、阿山君、サンマがお買い得ですよ。焼き魚なんてどうでしょう」


 氷締めされたままずらりと並んだ、死んだ目をしたサンマを指さす。


「パリッと焼けた皮をほぐしてしょうゆを垂らしましょう。すだちを絞って香りづけしましょう。おろした大根と一緒に食べて、口の中に広がるかすかな苦みを楽しみましょう。どうですか?」


 歌でも詠むような軽やかさで繭墨は続ける。


「今夜は少し冷えますし、汁物なんていいですよね。あまり凝ったものはできませんが、豚汁なんてどうしょう。温まりますよ。……あっ、でも阿山君、お味噌は常備してませんよね」


「あー、うん、みそ汁はもっぱらインスタントだから」


「じゃあそれも買わないといけませんね。ほかには……、そうそう、まず冷蔵庫の中身を把握しないと。さあ行きましょう」


 繭墨は僕の腕をつかんで引っ張っていく。


「ジョシコウセイカヨイヅマ、ダト……?」


 背後で長谷川さんの震える声が聞こえたが、それも気にならないくらい、僕はさっきの話にヤラれてしまっていた。


 秋の味覚の代表格が脳裏で映し出される。

 脂がのって焼き色のついたサンマと半分に切ったスダチ、そして皿の片隅には大根おろしの小山。

 湯気を立てる鍋と、色とりどりの具材が入った豚汁。

 それをお椀によそう制服エプロンの繭墨。

 すごい。夢みたいだ。僕の身体はまだ列車で居眠りをしていているのかもしれない。スーパーマーケット幻想ファンタジーなのかもしれない。


 夢見心地で店内を歩きながら、食材や調味料の有無をたずねる繭墨の言葉に答えていく。「ニンジンは?」「ありません」「コンニャクは?」「ありません」「京ねぎは?」「ありません」「お醤油は?」「大丈夫です」「お揚げは?」「ありません」こんな具合だ。今なら銀行口座の暗証番号だってしゃべってしまいそうだった。


 すれ違う知り合いの従業員が、僕に気づいて親しげな笑顔を浮かべる。しかし隣で食材をかごに入れている繭墨の存在に気づくと、衝撃を受けたように表情をこわばらせていた。誰も彼もが同じような反応だった。失礼しちゃうよ。


 買い物をしていると、いつの間にか店内の音楽が変化していた。さっきまでは一昔前のJポップをアレンジしたインストだったのに、今は『想い出がいっぱい』(大人の階段をのぼるやつだ)がエンドレスで流れているのだ。


 ふと視線を感じて従業員用の入口に目を向けると、スイングドアの隙間から顔をのぞかせた長谷川さんが、腕を出してグッと親指を立てていた。

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