第104話 この道をあなたと
着物姿の繭墨に見とれているあいだに、班の他のメンバーはいなくなっていた。気を利かせてくれたのだろう。
二人きりで
境内は思っていたより狭かったが、意外と見るところが多く、僕たちは時間を使ってゆっくりと回った。和服に合わせて下駄履きの繭墨があまり早く歩けないという理由もあったが。
そして現在は、
見目麗しい着物姿は、1日レンタルで5千円(税込み)だそうだ。それを高いと思うか安いと思うかはそれぞれの価値観次第だろうが、個人的には、その効果は絶大だと言わざるを得ない。和服が最も溶け込む街であるはずの京都で、すれ違う人のことごとくが和装の繭墨に注目していた。目を奪われていた。
外国人旅行者に写真を撮らせてほしいと頼まれたことも1度や2度ではない。
〝ビューティフル〟〝アメイジング〟〝ファンタスティック〟〝エレガント〟〝ソークール〟〝ブリリアント〟〝KAWAII〟〝ジャパニーズモエ〟などなど、賞賛を浴びまくった。
「注目を集めるのは疲れますね」
頬杖を突いて窓の外を眺めながら、繭墨は気だるげに言う。
だったらそんな目立つ格好をしなけりゃいいのに、なんて馬鹿な返事はしない。
うぬぼれではなく、繭墨は僕のために着飾ってくれたのだから。
とはいえ、それは『あなたを喜ばせたくて』的な尽くすような気持ちではない。
『あなたを驚かせたくて』が近いが、それでもまだ物足りない。
『あなたを思考停止するくらい絶句させて優位に立ちたくて』あたりが妥当なところだろうか。衣装による先制攻撃、視覚に訴える電撃戦だった。当方は敵軍の大攻勢を受けて戦線おおいに混乱中であります。
「そりゃ仕方ないよ、綺麗なんだから」
ようやく落ち着きを取り戻して、格好つけたことを言ってみるが、
「ありがとうございます。そう言ってもらえると手間をかけた甲斐がありました」
なんて疲労を隠してにっこりと笑顔を浮かべるものだから、それ以上ことばが続かなくなってしまう。
繭墨は切り分けた抹茶シフォンをゆっくりと咀嚼しては表情をゆるめている。僕も同じものを頼んでいたが、確かにこれはおいしい。生地に溶け込んだような控えめな甘味が上品で、コーヒーにとてもよく合う。
「乙姫って本質的にクールでビターなのに、結構スイーツ好きだよね」
下の名前で呼ぶことも、以前よりは慣れてきた。
「はじめにコーヒーありきです。コーヒーが好きなので、その延長ですよ」
繭墨はそう言ってカップをかたむける。
和服でカフェというなんだか文明開化の香りがする組み合わせだ。
「昔はコーヒーに黒煎豆なんて漢字を振ることもあったらしいよ」
「豆知識ですね」繭墨が口元を上げる。
まさか、豆だけに、とか考えているのだろうか。
目が合うと逸らされた。
「……そろそろ出ましょうか」
草花の成長を早送りで見るような、ナチュラルな動作で立ち上がる繭墨。
◆◇◆◇◆◇◆◇
カランカラン、とカウベルが鳴る。
外に出ると、白い石畳の歩道と、石垣の間を流れる小川。
銀閣寺から若王子神社までをむすぶ遊歩道――通称〝哲学の道〟である。有名な哲学者がこの道を歩きながら思索にふけった逸話からそう名づけられたらしい。
若王子神社のさらに先にある南禅寺を目指して、僕たちは哲学の道を歩いていく。
道中でも繭墨の注目ぶりは相変わらずだ。古都京都にふさわしく、和服美人という役割になり切っているかのようだった。
「あのぉ、写真、撮ってもいいですか?」
二十代中盤らしき女性の二人組にかけられるが、その対応も慣れたものだ。
「はい、かまいませんよ」とゆっくり頷き、「……あ、ちょっと待ってください」
繭墨は相手に断りを入れると、メガネを外して、つるの方を僕に向けた。
「え、何」
「かけてください」
「なんで」
「いいですから」
言われるままにそれをかけると、視界が
眼鏡を外した繭墨は、見返り美人みたいな
「眼鏡をかけるのは変装の基本です。ならば逆もまた真なりと言えるでしょう」
「んな大げさな」
「班行動を破るというイケナイことをしているわけですから、一応の用心です」
「さんざん写真撮影されて、今さらって気もするけど」
「そうですね。この格好で気を張っていたせいか、気づくのが遅れました」
繭墨はわずかに視線を下げるが、またすぐに僕を見上げる。
「眼鏡を取ったので……、少し、足元がおぼつかないですね」
小首をかしげてまばたきを数度、じっとこちらを見つめてくる。
僕は女の子を楽しませることの上手なイケメンでもなければ、女性の扱いに慣れたジェントルメンでもないので、彼女の意図を察するのに数秒、そして確信するのにさらに数秒、無言の要求を実行するのにプラス数秒を要した。
繭墨の手を取る。
力加減がわからなくて、最初は触れるように。
握り返してくる力よりも、少しだけ強く握り直す。
手をつなぐのはこれで2度目なのに、1度目よりも明らかに緊張していた。
前回は夜の生徒会室の薄闇の中――特殊すぎるシチュエーションで、緊張を感じる余裕すらなかったせいだろうか。白日の下で僕らの秘密が溶けていく。
そして無言で歩き出す。
哲学の道の石畳。からんころんと下駄の足音。さららさららと小川のせせらぎ。赤と黄色と少しの緑、混じった
そんな幻想を振り払ったのは同じく修学旅行生の集団だった。
反対側から歩いてくる、中学生と思しき男子の五人組。
哲学の道を闊歩しながら、哲学とか何の役に立つんだよ、などと定番の文句を垂れていた彼らも、繭墨の姿を見ると、うぉ、すっげえ美人、と目を丸くした。思考と言動が直結している。
この道はそれほど幅が広くないので、手をつないだままだと邪魔になってしまう――心の中で言い訳をしつつ、僕は手を離そうとする。実際は人に見られたせいで夢うつつから覚めてしまい、気恥ずかしくなっただけなのだが。
そんな僕の小心をとがめるように、つないだ手が強く握られる。
「このまま行きますよ」
小さくつぶやきつつ繭墨が前に出た。僕は引っ張られる。
男子中学生たちは接近してくる和服美人に注目する。その視線が最大限に集まったタイミングで、繭墨は淡雪のような微笑を浮かべた。
男子中学生5人組はそろって棒立ちになる。繭墨は小さく頭を下げつつ、彼らの脇を通り抜けていく。
「魔性の女だ」
まだ突っ立ったままの中学生たちを振り返りつつ僕は言った。
「心外な。どこに出しても恥ずかしくない清楚さだったはずですが」
繭墨は唇をとがらせる。
「清楚さを計算しているから魔性なんじゃないか」
「打算や計算は嫌いですか?」
「好きだよ。意図がわかるからね」
わからないのは、今日の繭墨の行動だ。
班行動を破るというルール違反を、繭墨の方からやってくるとは思わなかった。
もちろん繭墨は言外の疑問をしっかり読み取ってくれた。
「今日、班行動を破ったことに、抵抗がなかったと言えば嘘になります」
ですが、と繭墨はもう一度、つないだ手を強く握った。
「京都の名所を調べていて、ここの写真を見たとき、思ったんです。この道をあなたと歩いてみたい、って」
僕は思わず立ち止まった。
繭墨も足を止めた。からん。下駄の足音が止んだ。
隣を見やると、繭墨もこちらを見ていた。かすかに口元を上げて、結い上げていた後ろ髪から、かんざしを引き抜く。
押し止められていた黒髪がほどけて、そよ風に乗って流れる。川面に墨を落としたように空間に広がっていく。まるで繭墨の周りだけが夜になってしまったみたいに。
狙ったようなタイミングだったし、狙ったとおりですと言われても納得してしまいそうだった。綺麗なものには有無を言わせぬ説得力がある。
「では、わたしからの質問です」
「何」
僕は身構え、心構えをする。
「鏡一朗さんは、眼鏡フェチなのですか?」
眼鏡がずれそうになった。
「なんで、そう思ったの」
「わたしが眼鏡を外したとき、がっかりしたように見えました。わたしへの好意の何割ほどが眼鏡に注がれているのかと、不安になる乙女心を理解していますか?」
「お乙女心ってのは理解不能なものじゃないの」
「それは思考放棄ですよ。〝考えるな、感じろ〟だなんて、そんな手抜き、わたしは許しません。じっくりと考えてください、乙女心というものを」
手をつないだまま、ずいと近づいてくる。
「ええと……、ありきたりな答えかもしれないけど」
僕は眼鏡を外して、本来の持ち主に返した。
視界がクリアになって、繭墨の不機嫌そうな表情が鮮明になる。
「眼鏡をかけていれば誰でもいいってわけじゃない。繭墨が眼鏡をかけているのがいいんだ。なんというか、すごくグッとくる」
繭墨は紅色の縁の眼鏡をかけ直した。茫洋としていた瞳の焦点が定まって、鋭い視線がよみがえる。なのにそれを受ける僕は、恐怖どころか安堵を感じてさえいた。眼鏡フェチに加えてマゾヒストの
「……まったくありきたりではありませんし、勢いで誤魔化そうとしているところはいただけませんが……、追及はここまでですね。少し急がないといけません」
「どうして?」
「予定よりも遅れています」
「そう? そんなに時間をロスした覚えはないけど」
「慣れない服装を考慮に入れていませんでした」
「ああ……」
僕はうなずいた。確かに着物は慌てて歩くと着崩れしそうだ。個人的には着崩れて
「ゆっくりでいいよ」少し迷ったが付け加えた。「また来ればいい。二人で」
「それは泊りがけですか?」
繭墨は口元を上げる。僕を動揺させるための切り返しであることは明らかだったが、こちとら想定の範囲内だ。
「じっくりと考えてみてよ、思春期男子の思考ってものを」
そう反撃すると、繭墨は目を丸くした。それから、
「……セクハラですよ」
と鋭い視線で睨みつけてくる。しかしその頬はメガネの縁と同じくらいに赤くなっていた。じっくりどころか、ほとんど一瞬で思春期男子の思考をトレースしたらしい。まあ、
繭墨の頭の中がとても気になったが、あまり追及すると本気で怒られそうなので、今日のところは止めておこう。
――この道をあなたと歩いてみたい、なんて。
意識して歯止めをかけないと。
その言葉だけで僕は、どこまでも浮かれてしまいそうだった。
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