第101話 コーヒーカップをおそろいで

 地主神社に続いて京都御所を出る頃には、ちょうど昼どきになっていた。

 

 ヒメがランチにと案内してくれたのは、古民家を改築した食堂兼雑貨屋だった。


「知る人ぞ知る名店ですので」


 とヒメは自慢げに語っていて、実際、あまり広くはない店内には、サラリーマンっぽい人たちがぎっしりだった。ちょっと5人一緒に座れるような席はなさそう。


 案の定、店員さんに、二人席とカウンターに3席しか空きがないんどす、申し訳おまへん、とほんのり京ことばで告げられて、ヒメは困った顔をする。でもあたし的にはチャンスだった。


「それで大丈夫です」

「ちょっとヨーコ?」

「じゃあヒメとキョウ君はあっちね」


 あたしはさっさと話を進めて、窓辺の席に二人をあてがう。


「ほら、あたしたちはこっち」


 赤木君と進藤君の背中を押して、あたしたちはカウンター席へ移動。ヒメたちの逃げ道をふさぐ。


「謀ったわね……」


 ジトッとした視線に笑顔を返すと、ヒメはあきらめて席に座った。


 キョウ君が『見捨てないで……』みたいな目を向けてくる。その弱々しさにちょっとゾクゾクしちゃったけど、あたしは首を左右に振ってお断りした。


 谷底へ突き落す系の優しさが必要なときもあるの。

 決して二人のぎこちない様子を面白がってるわけじゃないの。


 背中に二人の視線を感じつつ、メニューを開く。

 この店はそばがメインみたい。あたしはざるそば、進藤君はざるそばプラス釜めしと天ぷらセット、赤木君は月見そばとエビのかきあげを頼んだ。


「なあ、百代」


 注文の品を待っている間、赤木君が小さな声で話しかけてくきた。

 肩越しにキョウ君たちの方をチラ見しながら、


「なんかあの二人、えらくギクシャクしてるように見えたけど、一緒の席にしてよかったのか?」


「あ、やっぱり気づいちゃった?」


「昨日と露骨に雰囲気が違うからな」


「付き合ってりゃ険悪になることもあるだろう」


 新藤君がさらりとそんなことを言った。昼飯食ったら午後の授業で眠くなるだろ、みたいなごく当たり前のことを言っている口調だった。


「……付き合うってことは距離が近くなるってことだ。相手の物言いとか、考え方とか、行動とか、いろいろ目につくこともあるんじゃないか」


 言葉足らずだと思ったのか、そんな説明を付け足したりする。あたしは進藤君と付き合っていたころを思い出して、ちょっとだけ胸がモヤモヤした。


 一方、赤木君は進藤君の発言に衝撃を受けていた。


「あのう、進藤さん?」敬語になってる。「阿山と繭墨って」


「付き合ってるぞ。男女交際だ」


「え、マジで?」


 阿山君と仲のいい赤木君がそれを知らなかったってことは、なかなか上手に隠せてたみたい。


「マジだよ」


 とあたしはうなずいた。ちょっとだけ胸がチクリとした。


 文化祭のときにね、キョウ君の方から告白したんだって」


「マジかよ……」


 赤木君はそう繰り返してカウンターに両肘を置いた。指を組んで顎をのせて、


「じゃあ、変な空気になってるのって、単なるケンカか? ……いや、昨日の夜、消灯時間のあとにあいつ、どこか行ってたよな」


 ブツブツ言っている中に、気になる言葉があった。

 昨日の夜、消灯時間のあとに。


「あ、それヒメも同じだったよ」


 30分もしないうちに戻ってきたから、変なことはしてないと思ってたけど。


「……まさか」とあたし。

「二人で会ってたのか?」と赤木君。

「で、でも、その結果がこのギクシャクっぷりって……」

「失敗したんじゃないのか?」

「何に?」

「ナニに」


 赤木君の横顔の、口元がぐにゃりと吊り上がる。下ネタだった。

 あたしはヒメの極寒の視線を真似して赤木君をにらみつける。


「……ごめんなさい忘れてください」


 と赤木君は顔をそむけた。ヒメの視線が絶対零度だとしたら、あたしのはせいぜいマイナス10度くらいだと思うけど、いちおう効果はあったみたい。


「妙なこと言って悪かったな」


 注文の品が来る直前に、進藤君がぽつりと、あたしにだけ聞こえる声で言った。


 これは、ヒメとキョウ君の秘密をばらして悪かったな、じゃなくて。

 昔を思い出させるようなことを言って悪かったな、っていう意味だと思う。


「ううん、気にしてないよ」

「そうか」


 あれこれ思い出してしまう前に全員分の注文が運ばれてきて、ナイスタイミング、これぞジャパニーズおもてなし、なんて心の中でつぶやきつつ、あたしはそばをすすり始める。


 ズゾゾゾゾ、と右隣りで滝が逆流するような音がした。


「……いろいろ台無しなんですけど」


「そばは音たてて食うのがマナーじゃないのか」


「マナーっていうのは周りに気を遣うことなんだよ」


「キョウみたいなことを言いやがって」


 進藤君はやさぐれつつ、そばの音量を下げてくれた。

 静かになったと思ったら、今度は。

 バリバリ、と左隣りでスナック菓子を噛み砕くような音がした。


「ちょっと赤木君、かきあげの天かすが落ちてる」


「ん、ああ、あとで片づけるから。これ、歯応えいいな。百代も頼んだら?」


 バリバリ、ぽろぽろ。

 ああもう、子供みたい。


 弟がいるせいなのか、あたしはこういうお行儀の悪さが気になって仕方がない。キョウ君はマナーがしっかりしてたんだけど……、なんて、両隣りのだらしない男子どもとつい比較してしまう。


 ヒメたちはどんな感じかな、と2人席の様子をうかがう。


 味気ない病院食を食べてるみたいに浮かない顔のキョウ君と、背筋をピンと伸ばして姿勢の良いヒメという組み合わせは、正直言って、釣り合いが取れたカップルには見えなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 育ちのいい彼女は音もなくそばをすすっていた。めんつゆが跳ねることもなく、食べ残しもしない。空になった器には気品のようなものすら感じられた。全体的なたたずまいや所作がいちいち丁寧で、マナー講座でも開くつもりかと言いたくなる。

『美人講師が鋭い言葉と冷たい視線で鞭打つように厳しく指導します』

 そんな謳い文句が思い浮かんだ。体験講座に申し込んでしまうかもしれない。


 冗談はさておき、そんな完璧なマナーを誇る相手が対面に座っていると、こちらだって自らのマナーを顧みざるを得ない。

 

 僕はいつもよりゆっくりとそばをすすり、食器の持ち方にも気を遣い、箸は自分の指の延長のように神経を通わせるつもりで扱った。それでも繭墨の美しい所作の前では〝悪い見本〟に成り下がってしまう。


 生徒会室で彼女の作った弁当を食べたのが懐かしい。あのときは気楽だった。


 値段や見た目、それに客の反応からも、美味しいそばなんだろうと思う。だけど僕には肝心の味がさっぱり感じられないまま、最後の一口を飲み込んだ。


「このカップ、いいですね」


 食後のコーヒーを飲んでいると、繭墨が陶器製の無骨なコーヒーカップをかかげて言った。


「味があるね」と僕は応じた。


 これがこの食堂で繭墨と交わした、初めてのやり取りだった。

 しかも話が続かない。


 繭墨が褒め称えたコーヒーカップは、全体的に肉厚だが、飲み口の縁は薄く整えられていた。縁がぶ厚いと、口をつけた辺りに液体が残り、垂れてしまうことがある。薄い成形はそれを防ぐためのものだ。お高いカップでよく見られる形である。


 そんな繊細な部分があるくせに、器自体はぐにゃりと歪んでいる。僕はそこに作り手の計算を感じるのだけど、若い陶芸家に頭を掻きながら「失敗しちゃいました」と言われたら、そうだったんですかと納得してしまうだろう。


 そのあとで、白い髭をたくわえた老齢の陶芸家に腕組みをして「日本文化特有の詫び寂びを表現しているのだ」と言われたら、なるほど確かに渋みを感じますね、と手のひらを返してしまうだろう。僕の審美眼などそんなものだった。


「あの、これと同じカップありますか?」


 繭墨が近くの店員に声をかけた。

 食堂兼雑貨屋のこの店では、使っている食器と同じものを販売しているのだ。

「はい、ありますよ」店員の返事は残念ながら標準語だった。


 これはチャンスかもしれない。


 ここで僕も繭墨と同じコーヒーカップを購入すれば、この、昨日の夜から続くぎこちない空気を、吹き飛ばすことができるのではないか。でもペアカップなんてちょっと恥ずかしいし……、と迷っていると、


「……あの」


 と繭墨が店員に向かって、今度は遠慮がちに口を開く。


「夫婦茶碗は置いていますか?」


 僕は繭墨を凝視した。

 それはいったいなんのアピールなのか。

 こちらの動揺を誘おうとしているんじゃないのか。


 身構える僕をよそに、繭墨は店員に案内されて商品を見て回り、購入する物を決めたようだった。


「どうかしましたか? 珍妙な顔をして」


 席に戻ってきた繭墨が首をかしげた。長い黒髪がさらりと流れ、それを手櫛で整える。一連のしなやかな仕草に目を奪われる。ひどい言い草も気にならなかった。


 やがて、言葉が出てこない僕の様子を見て、繭墨は何かに気づいたのだろうか。メガネの奥の瞳が、獲物を見つけた女豹のようにギラリと光った。プロポーションはともかく、眼光だけは女豹並なのだこいつは。


「ああ、そういうことですか」

「どういうこと」

「夫婦茶碗であれやこれやと妄想を逞しくしたんじゃないんですか?」

「し、しておまへんよ妄想なんて」

「一応、言っておくと、これは家族へのお土産ですからね」

「あそう……」


 極めて現実的な購入理由に、僕の妄想は砕け散った。


 夫婦茶碗は単なるお土産であって、洗面台のコップに刺さった色違いの歯ブラシのような、甘やかなサインではなかったのだ。それどころか、こちらの動揺を誘う前振りの小道具ですらなかった。僕の完全なる勘違い、一人相撲だった。恥ずかしい。


「露骨に落ち込まないでください。ヨーコたちに見られていますよ」


 と繭墨が小声で注意を促してくる。

 カウンター席を見ると、3人ともが同じポーズで、肩越しにこちらを振り返っていた。そして目が合うと3人同時に顔をそむけた。


「昨夜のことは、まだ完全に消化しきれていません」


 繭墨はテーブルの上で指を組む。


「でも、周りにあれこれ噂されるのは、望むところではないですよね」


 まだ完全に消化しきれていない。

 正直に言われて内心たじろいだが、なんとか笑顔を取り繕ってうなずいた。


「……じゃあ、円満をアピールするために、さっきのコーヒーカップをおそろいで買うってのはどう?」


 僕の提案に、繭墨の日本刀めいた眉がぴくりと動く。

 それを誤魔化すように眼鏡の位置を直して、


「思い出が形として残っていると、別れたあとがつらいと聞きますが」


「繭墨はそんな俗っぽい話に影響されるような、ヤワなヤツじゃないよね」


「どうでしょう。花占いに一喜一憂する、アンニュイな乙女かもしれませんよ?」


「最後に残った花びらを二つに割いて、結果を改ざんする女傑じゃないか」


「今日はやけに突っかかってきますね……」


 繭墨は根負けしたようにため息をついた。


「わたしは黒にします」

「じゃあ僕は白で」

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