第68話 美人生徒会長に男の影!?
母と久しぶりに顔を合わせたその翌日、わたしは朝の分の家事を手早く片付けて、阿山君の部屋を出ました。
目的地は市民図書館です。
わたしは近代の文豪の代表作を手に取り、フリースペースで読み始めます。名前は教科書に載るほどに知れていても、まだ読んだことのない作品を、少しずつ片付けていくつもりでした。
しかし、今日は文章に集中できません。
作品に非はありません。わたしの側の問題でしょう。睡眠不足でした。
部屋の主である阿山君を廊下に追いやり、こちらはベッドを使わせてもらい、その上冷房も自由に使えるという至れり尽くせりの環境。そこまでしてもらっても寝付けなかったのです。
阿山君のせいだと思います。
彼の行動の変化に気付いて、それを意識してしまっています。
昨夜の彼は、わたしとの距離をぎこちなく図りつつも、それを縮めようとしていました。母の行動に動揺して、苛立っていることに気づかれたのでしょうか。
試すような言葉でわたしの反感を誘い、その隙に距離を詰めてきました。
さり気なさなんて少しもない、不器用な傾聴。
それが却って好ましくて、つい事情を説明してしまいました。
だから、そう、端的に言って、昨夜の阿山君は優しかったのです。
……この言い方は誤解を招きそうですが。
しかし、わたしは安心を求めて阿山君の部屋へ来たわけではありません。
ただ家から逃げ出したかっただけです。
阿山君と仲がいいと思ったことはありません。異性の中で最も距離が近いことは認めますが、しかし、意見をぶつけ合うためには近づかなければなりませんし、それは友情や愛情ではなく、接近戦のための距離です。
その関係は緊張感とともにありました。
あまり見られたくない情けない
そういう相手だからこそ、同じ部屋にいても間違いが起こることはないだろうと考えていました。
だから、阿山君の優しさに違和感があるのです。
物理的な距離が近くなっている状況で、そんな風に態度を変化させる彼には、警戒が必要でした。
万が一にも、下心が芽生えているのではないか。
その考えが浮かんでしまい、昨夜はあまり眠れませんでした。
起きてからも、長く過ごすことなく、早めに部屋を出ました。
〝二人きり〟を意識してしまうようでは、この居候生活もお終いでしょうか。
わたしは本を読み進めるのをいったん諦め、眼鏡をはずしてテーブルに突っ伏しました。仮眠をとることにします。
1時間弱の眠りを覚ましたのは、スマートフォンの振動音でした。
顔を上げるとすぐに止まりましたが、ディスプレイを確認すると、音声着信の前にメッセージアプリへの着信も複数回あったようです。
相手はいずれも百代曜子。
その名前を目にすると、反射的に背筋が伸びてしまいます。
「ヨーコのことはどうするつもりですか」なんて阿山君に尋ねたのも、そうすることで、彼の側の確認を取っていると思いたかったから。言い訳がほしかったからです。
わたしはこの行動に罪悪感があります。直接迷惑をかけている阿山君ではなく、彼に明白な好意を抱いている曜子に対して。
わたしが阿山君に好意を持っていない以上、あくまで客観的事実にすぎませんが、抜け駆けと取られてもおかしくない行動を取っているのですから。
わたしは立ち上がると、ロビーへ出て電話をかけます。
ワンコールでつながりました。
『あ、もしもしヒメ? 今どこ?』
「え? ええと、今は図書館にいるわ」
『これから会えない?』
「……構わないけれど」
『それじゃあキョウ君ちの近くのファミレス――はちょっと人目が多いかな、でもほかに室内で落ち着いて話せる場所っていったら……』
曜子は電話口で奇妙なことをつぶやいています。
人目の少ない落ち着いた場所で会いたい、ということでしょうか。
その条件で阿山君の部屋が出てこないことに違和感を覚えますが、指摘はしません。あそこにはわたしの私物が転がっています。踏み込まれては一大事です。
「商店街の近くに公園があるでしょう? そこで待っているわ。近くに静かな喫茶店があるから」
『ん……、わかった、じゃあそれで。すぐ行くね』
せわしない口調で通話を切ろうとする曜子は、その最後に、聞き捨てならないことを言いました。
『キョウ君にも声かけといてね。これ、絶対だからね!』
◆◇◆◇◆◇◆◇
『キャトル・マン』は住宅街の奥まった場所にある、小さな喫茶店です。
公園前で合流したわたしたちは、言葉少なにここまで歩いてきました。
特に曜子と阿山君の間には、間合いを探るようなぎこちなさが漂っています。
思えば違和感はありました。阿山君の連絡先を知っている曜子が、どうしてわたしに伝達を頼んだのでしょう。顔も見たくない、という険悪さとは違うようです。仲違いをしているのなら、そもそもこの場に呼んだりしないはずですし……。
わたしは店内に入る前に、入口の看板を見つめます。
『キャトル・マン』。フランス語で『4つの腕』、転じて2人で1台のピアノを演奏する『連弾』を意味する言葉です。
夫婦で営業していることから、二人で息を合わせてという意味合いを込めて名付けたそうです。しかし、そんな心温まるネーミングも、今のわたしたちの状況を思うと皮肉めいています。
連弾は2人でやるもの。
わたしたちは3人ですので、必然的に1人が余ってしまいます。
……さて、余り者は誰なのでしょうか。
4人用のボックス席に通されると、片側に曜子が、もう片方にわたしと阿山君が並んで座りました。
この並びは曜子からの希望でした。
曜子はわたしと阿山君を見つめて、彼女にしては静かな口調で切り出します。
「単刀直入に聞くけど、二人って同棲してるの?」
わたしは店内に流れているあわただしい曲調のピアノ曲に耳を澄ませます。
ああ、これは〝子犬のワルツ〟ですね。
「ええと、同棲という言い方にはいささか語弊があるというか大げさというか」
阿山君が早口で言い訳めいた言葉を発しています。
わたしはそれを遮って、
「なぜ気づいたの?」
曜子はその問いに答える代わりに、スマートフォンをこちらに向けました。まるで印籠のように。
「これ見て」
ディスプレイ上には掲示板が表示されています。
伯鳴高校:生徒専用と題された掲示板です。
わたしは見たことがありませんが、存在するであろうことは想定していました。人が集まれば裏で意見を言い合う場が出現する。それはいつの世も同じこと。特に現在は携帯端末のおかげで簡単に〝場〟を作ることができますから。
その中で、ひときわ目を引く見出しがありました。
『美人生徒会長に男の影!?』という陳腐な一文です。
「そっかぁ、ホントだったんだ……。狭い町だもんねぇ」
曜子はうんざりした顔でつぶやいて、スマートフォンを片付けます。
わたしは自分のスマートフォンを操作し、曜子にパスワードを教えてもらい、問題の掲示板を開きました。
「友達から変な噂が立ってるって教えてもらって、この掲示板を見たんだけど」
一番古い記事は2日前。時期は一致しています。
動揺を顔に出さないよう気を使いつつ、わたしは文章を検分していきます。
「アパートへ入っていくところを見られたのかしら」
「画像とかは上がってないみたい。書いてる内容も、あんまり具体的なのはないよ」
「でも、この先はわからないわね。むしろ噂があったせいで、興味本位で張り込みをする輩が出てくるかもしれないし」
潮時でした。
両親の気を引くためにわがままな子供を演じる、という昨日の話を思い出します。
わたしはすでに、無意識のうちにそれをしていたのです。
家出という行動がすでに子供のわがままであり、加えて、生徒会長という立場のわたしは、生徒たちからはそれなりに目立ちます。こんな狭い町では目についてもおかしくはないでしょう。
家を出た当初はそうしたことにまで考えが回っていませんでしたが、果たして、本当にそうなのでしょうか。もう断言はできません。無意識のうちに意図していたのかもしれませんし。
「出ていくことにします」
わたしは阿山君にそう伝えました。
わたしが直接、阿山君に迷惑をかけることは構わないのです。それは阿山君の手の届く範囲で解決できる問題ですし、わたしに制御できる問題です。
しかし、この行動が不特定多数の、好奇の視線に晒されるとなると話は別です。〝世間様〟の流れは制御できません。わたしたちに実害が及ぶ可能性もあります。
「そう……。まあ、よかったよ」
「よかった?」
阿山君の安堵した表情に、わたしは少しだけ、不快を感じました。
「ほかの人間の印象など知ったことか、わたしはわたしの道を行く、とか言うんじゃないかと思ったから」
人が心配しているのに、なんてひどい言いぐさでしょう。
これ以上話をしていると、どんどん口が悪くなってしまいそうです。この喫茶店の雰囲気にふさわしくありませんし、曜子の前で口の悪い自分を見せるのも嫌でした。
そこでわたしは阿山君を遠ざけることにしました。敵がいなければ、肩ひじを張る必要もありません。
「わたしの荷物を取ってきてください」
「ええ……? まあ、仕方ないか」
「直に受け渡しをするのは、目撃されたときのことを考えると危険ですね。駅のロッカーに入れておいてください」
「まあ……、仕方ないか」
いくらか不服そうな表情をしつつ、阿山君は席を立ちました。
そして、店を出る前に曜子を見つめて、
「……ありがとう百代、教えてくれて。……僕は」
「いーのいーの、気にしないで? 貸しを作ってるだけなんだし」
曜子は冗談めかして笑い、しかし阿山君はその明るさにすら痛みを感じているかのように、そっと目をそらし、足早に席を離れました。
◆◇◆◇◆◇◆◇
わたしと曜子の二人だけになります。この組み合わせは想定していませんでした。
「ごめんなさい」
わたしが謝るのと同時にショパンの練習曲のひとつ〝別れの曲〟が流れ始めます。
「どうして謝るの?」
「ヨーコの気持ちを知っていたのに、自分の都合を優先してしまったから」
「都合なんだ? 気持ちじゃなくて?」
そういえば、曜子には説明をしていませんでした。
わたしが阿山君の部屋へ転がり込むに至った経緯――すなわち〝都合〟を話すと、曜子はため息をついて、眉をひそめます。
「はぁ……、ヒメのご両親ってそんなことになってたんだ……」
「でも、軽率だったわ」
「確かに、家出先がオトコノコの部屋だなんて、チョー大胆だよねぇ」
「そこではなくて……」
「あたしの気持ちを知ってたのに、っていう話?」
「……ええ」
会話の流れは、完全に曜子に支配されていました。
こちらに多大な負い目のある状況ではどうしようもないことですが、それでも何か、ペースをつかむ材料はないものでしょうか。
そんな主導権握りたがりの性分も今回ばかりは、さらなる曜子の発言によって、完全に屈服させられてしまいました。
「実はね、あたし、もうキョウ君に告白したの」
「え……」
「でも、フラれちゃった」
「そう……」
「場所はね、さっき待ち合わせした公園」
返す言葉がありません。今のわたしは打たれるがままのサンドバッグでした。体型的にもちょうどいい喩えですしね。
「ヒメはキョウ君のことが好きってわけじゃないんだよね」
「ええ……」
「家出先に選んだのは、他に選択肢がなかったから?」
「……そうよ」
「じゃあ、
からん、とグラスの中の氷が音を立てます。
「もちろん考えたわ」
「どんな風に?」
「……わたしと阿山君は、互いに、非常に格好の悪いところを見せたわ」
「うん」
「相手の痛いところを意図的に狙うような口論もしたし」
「うん」
「好きな人がいることも明言したわ」
「進藤君ね」
「性的な視線を向ける回数はわたしよりも曜子の方が圧倒的に多いし」
「ロコツだよね、本人はバレてないと思ってるみたいだけど」
「動揺を誘おうとして、わたしのことが好きなのかと聞いても、返ってきた答えは「わからない」だったし」
「わぁ大胆、そんなこと聞いたんだ」
だから。
「阿山君はわたしのことが好きではないし、そもそも異性としてすら見ていないわ」
今までの10か月に渡る関係から導き出した、それが結論です。
そのはずでした。
ですが、ほんの2日で、その結論は揺らいでしまったのです。
わたしの想定していた〝キョウ君の気持ち〟は、彼の部屋に居候をする前と後で、明らかに変化していました。あるいはその変化も、わたしの行動によるものなのかもしれませんが。
「ふぅん……、よかった」
曜子が立ち上がります。
「……よかった?」
「あたしに気をつかってるわけじゃないっぽいから」
「言ったでしょ。異性として見られていないのだから、気を遣う以前の問題よ」
「それはヒメがそう思ってるだけで……、って、その話はいいかなぁ。あと、これからもあたしのことは気にしなくていいからね?」
「これから?」
「だってあたし、まだキョウ君のことあきらめたわけじゃないし、卒業までまだ時間あるし、競争相手も少なそうだし……、そういうのを抜きにしても、ヒメやキョウ君と一緒にいるのって楽しいし」
そう言って去っていく曜子の笑顔にしなやかな強さを感じ、そして同時に、阿山君はどうしてこの子を振ってしまったのだろう、という疑問が浮かびます。
ですがわたしは、その疑問を放置しました。
深く考えるのは危険な気がしたのです。
放置というより、踏みとどまった、という言い方が近いでしょうか。
わたしはホットのコーヒーを頼み、そして別の思考を走らせ始めます。
次に何か問題が起こるとしたら、数日後の登校日でしょう。
それまでに、起こりうる問題の形をはっきりとさせる。
問題の形がわかれば、次は対策です。
無責任な噂は放置するのが基本スタンスですが、実害がありそうならば捨て置けません。
まったく。
こういう考えごとなら、いくらでも深く踏み込めるのですが。
運ばれてきたコーヒーを口に含み、目を
店内はコーヒーの香りと、サティのピアノ曲〝あなたが欲しい〟の旋律で満たされていきます。
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