第69話 指一本触れていません


 読み方のわからない外国語の店名の喫茶店を出ると、自分の部屋に戻って繭墨の荷物をなるべく中身を見ないように回収して、伯鳴駅のロッカーへ押し込み、その旨のメッセージを送って再び自分の部屋へ戻ってくる。


 部屋の中央に仰向けになって、天井を眺めた。


 狭いはずのワンルームを広く感じてしまうのは、ほんの数日間の居候がいなくなったという、物理的な理由だけではないと思う。


 好きな女の子が同じ部屋に泊まっていたのに何も起こらなかった。


 その事実を振り返ってみる。

 ……僕は、とんでもない好機を逃してしまったのではないだろうか。


 もう少し強引――というほどでなくとも、積極的に、こう……、アレしておけばよかったんじゃないかという後悔が、ないといえば嘘になる。


 しかし一方で、これでよかったのだと納得している自分もいる。

 石橋を叩き落して川を堰き止めてから渡るくらいの慎重さでないと、繭墨はこちらのやましい心を察して距離を取ってしまうだろう。

 

 どちらの選択が正しかったのかはわからない。

 どちらの行動を選んでも、やりかた次第という気もする。


 堂々巡りだった。昨日までとは違う理由で、懊悩して眠れない夜を過ごした。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 その翌日、繭墨から電話がかかってきた。


『両親と会ってください』


「両親と」


『はい』


「両親っていうと」


『わたしの父と母です』


「ちょっと待って」


 僕はスマホを耳元から遠ざける。

 いきなり何を言っているんだろう繭墨は。ペースを乱されないよう、深呼吸をしてから再び口を開く。


「……それってやっぱり、僕の部屋に泊まったのがバレたから?」


『はい。わたしがバラしました』


「え、なんで!?」さっそく乱れるペース。


『両親はわたしの外泊など気にもしていませんでしたから。まずはそれを、掲示板で話題になっているところまで含めて知ってもらい、助力を仰ぐためです』


「助力っていうと……?」


『あの手の掲示板に書き込むのはほとんどが学生です。しかし、閲覧となると範囲が広がります。先生たちが子供社会の状況把握のために目を通すこともあるでしょう。おそらく来週の登校日に、学校側に何らかの動きがあるはずです』


「ああ、生徒指導室への呼び出しとか」


『はい。なので、掲示板の内容が根拠のない噂に過ぎないことを、はっきりさせなければ』


「いや噂じゃなくて事実だよね」


『大丈夫です。漠然とした噂ばかりで、細部の情報は出ていませんので、そのあたりの〝説明〟についてはあとからでも準備ができます』


 繭墨は平然と、黒いものを白にすると宣言した。


「……わかったよ、いつ?」


『今すぐに、タクシーで来てください。領収書を忘れずに、料金はこちらで支払います。父に出させます』


「また急な……、それって心証どうなの? 娘さんを部屋に泊めたってだけでもかなりイメージ悪いと思うんだけど」


『大丈夫です、阿山君とうちの両親が顔を合わせるのは今回限りでしょうから』


 お嬢さんを僕に下さい、の機会はないと断言された。


「じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ。今月は懐具合が厳しいところで――

 あっ」


『あっ』


 僕たちは同時に声を上げた。

 僕は繭墨と電話をしながらも、音を消してテレビを見ていた。画面に映っているのは伯鳴高校の試合だ。繭墨も同じだろう。

 両チームのエースによる緊迫の投手戦は、しかし9回表――たった今、直路がツーランホームランを浴びて0対2とリードを許してしまった。


 そして、出かける準備をしているうちに、9回裏の攻撃は終了していた。

 三者凡退でゲームセット。三回戦敗退。直路の夏も終わってしまったわけだ。

 

 それでも大したものだと思う。甲子園出場の宣伝効果はすさまじいものがある。来年は才気あふれる新人たちが多数入部し、野球部はさらに盛り上がるだろう。タクシーを待っている間、繭墨とそんな話をしていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 高台にある住宅地でタクシーは停まった。


 料金メーターはとめどなく回転を続け、とても直視できないような金額になっていた。格好をつけて「それくらい僕が払うよ」とか言わなくて本当に良かったと思う。


 領収書を切ってもらいタクシーを降りると、周囲の家屋の大きさ、庭の広さに圧倒される。3階建ては当たり前、外車が停まっているのも当たり前、レンガ造りの壁も当たり前。商店街の周りに広がっているような一般的な住宅街とは明らかにランクが違っていた。


 本当にここで合っているのだろうか。

 位置情報は繭墨に聞いた住所のとおりで、表札にも〝Mayuzumi〟と記されているので間違いはないのだろう。しかし僕がここにいることに場違い感はある。


 門扉は繊細な格子模様。その前で僕はインターフォンではなくスマートフォンを手に取った。繭墨の番号をワン切りすると、しばらくして鍵の開く音がした。事前に決めていた合図だ。


 扉を押して庭に入る。庭というか庭園というか……。剪定された植木や、魚の泳いでいる池や、色とりどりの花を咲かせる花壇があり、それらがこれでもかとばかりに裕福さをアピールしてくる。僕も多くの金を手にしたら、こういう無駄としか思えないものに散財するようになるのだろうか。


 純洋風の家屋に近づくと、中から扉が開いて繭墨が現れた。

 薄いグリーンの七分袖のシャツに、ブラウンのロングスカートという装いだ。


「いらっしゃい、ご足労ありがとうございます」


「本当にこの家で合ってたんだね」


「住所は伝えたはずですが」


「半信半疑だったから。こういう場所に来ると、庶民はビクビクするんだよ」


「文句は父に言ってください」


 繭墨邸は外観だけでなく内装にも拘っていた。壺やら絵画やらが並んでいるわけではないが、例えば置いてある靴箱やスリッパ、じゅうたんや扉のデザインなどに統一感があって、センス良さげだなと素人ながらに思う。


「ところで、その服装はどうしたんですか?」


 スリッパに履き替えたところで繭墨が尋ねてくる。

 僕の服装はワイシャツにスラックス、学校指定の制服であった。


「ああ、これ? 大人の人に会うんだからコンビニ行くみたいな恰好はちょっとと思ったけど、でも格式ばった服も持ってないから、どうしようかと悩んだ末の、コレですよ」


 僕は制服を指さした。

 冠婚葬祭すべてに対応するパーフェクトな服装である。


「……わかりました。ちょっと、ついてきてください」


 繭墨はため息をついて階段を上がっていく。僕は細やかな木彫の手すりを撫でながらついていく。


「ここで待っていてください」


 と繭墨が扉の前で立ち止まる。


「ここって?」


「わたしの部屋です。着替えてきます」


「え、なんで」


「服装は揃えてこそ、より効力を発揮します。連帯感や意識共有ですね。特に制服はそういった用途でデザインされていますから。相手にも多少は、こちらの意志をアピールできるでしょう。それなりの決意でここに来たのだと」


 制服というものの機能性を繭墨は語った。

 それはそのとおりだけど、と僕は思う。両親と話をするだけにしては、ずいぶんと強気というか積極的というか、攻撃的でさえある。


 いったい繭墨は、自分の両親に対してどういう感情を抱いているのだろうか。少々心配になったが、繭墨が部屋に引っ込むと、それはそれ、と気持ちが切り替わる。僕の耳は繭墨の足音や衣擦れの音、タンスの開閉音などを聞き取るべく集音モードに入ったが、重厚な扉は室内の音の一切をシャットアウトしており何も聞こえなかった。


「お待たせしました。行きましょうか」


 制服に着替えた繭墨は、生徒会長として登壇する際のように、颯爽と歩いていく。僕も後に続き、そして、この家の中でひときわお高い・・・雰囲気のある扉の前で、いったん立ち止まった。


「それでは、打ち合わせどおりに」


「せいぜい人畜無害な男子高校生を演じてやるさ」


「それなら自然体で大丈夫なのでは?」


 扉がゆっくりと開いていく。

 

 高級なインテリアに囲まれた室内、その中央にテーブルがあり、挟み込むように2人掛けのソファが二つ。一方にはすでに繭墨のご両親が座っている。


 相手を待たせている状況のせいか、2人とも険しい表情。それは僕の顔を見てから変化したのではなく、最初からずっと、この室内は険悪な雰囲気だったようだ。……ああ、そういえばこの二人、離婚するかどうかの瀬戸際だった。それを同じ部屋に押し込めるには、繭墨も苦労しただろう。


 だから急いでタクシーで来いだなんて、強引な呼びつけ方をしたのか。

 今日しか都合がつかなかったんだろう。


 ――お父さん、お母さん、こちら、クラスメイトの阿山鏡一朗君よ。

 ――阿山君、こちら、わたしの父と母です。


 そんな英会話の例文のようなやり取りをして、僕たちは席に着いた。


 僕の正面には繭墨父が座っている。

 正直な印象として、この邸宅の持ち主というには少々威厳が足りないと感じる。まあ今は剛腕・辣腕でなくても株の扱いがうまければ財を築けるみたいだし、資産と外見はあまり関係ないのかもしれない。よくわからない。

 

 その隣には繭墨母。先日、繭墨のスマホで画像を見たけれど、実物の方が若々しい印象だった。気が強そう、を通り越して冷たさすら感じる瞳は、繭墨のそれを思い起こさせる。あいつは確実に母親似だ。


 ただし、その冷たさは微妙に違う。例えるなら、同じサディストであっても繭墨は放置プレイを好むが、繭墨母の方は道具を用いたプレイを好みそうだ、という違いである。


 そんな風に繭墨の父と母を分析していると、まず父の方が口を開いた。


「阿山君、だったね。君が乙姫と付き合うことに、口を挟むつもりはない。建物のサイズこそ大きいけれど、繭墨家うちはそんなに格式ばった家柄ではないからね。許嫁などいないし、政略結婚まがいの嫁ぎ先の計画もない」


 ただし、と繭墨父は両手を合わせて指を組んだ。


「同棲の真似ごとを許すつもりもない。君たちはまだ子供だ。何か間違いが起こったとき、責任のとれる範囲は限られているからね」


「はい」


 僕は神妙にうなずいた。実際問題、ネット掲示板で噂に上がる事態になっている以上、何の言い訳もできない。まったくもって正しい話だったからだ。繭墨父が浮気さえしていなければ、もっと真摯に受け止めることができただろうに。


「それじゃあ、乙姫。本題だ。この場で話したいことというのは?」


「ネット掲示板にわたしたちの噂が有ること無いこと書かれているわ。その誤解を解くために、力を貸してほしいの」


「誤解といっても、同棲うんぬんは事実だろう。どうするつもりだ?」


「まだ修正可能よ。例えば、わたしと阿山君が同じアパートに入っていくところを見た、という一文があるけれど。これは、同じ部屋に入った・・・・・・・・ところは見ていない・・・・・・・・・、ということでもあるわ」


 それに反論したのは繭墨母。


「そんなのこじつけでしょう? 通用しません。書き込む人間や、それを読んで騒ぐ人間――興味本位の部外者は、事実なんて見やしない。面白そうなことしか目に入らないし、なくなったら、今度は平凡な事実を面白おかしく脚色するだけ。暇つぶし目的の相手に、本気になっても無駄ってものよ」


「そうよ、お母さんの言うとおり。それでも、わたしにとっては理由が要るのよ。こじつけでも屁理屈でも、『だから違います』と強く否定できるだけの理由が、口実が必要なの」


 繭墨は背筋をまっすぐ伸ばして、父と母に抗弁する。

 繭墨父はため息をついて、


「それで、力を貸して、というのは具体的にどうするんだ?」


「阿山君の住んでいるアパートの空き部屋を、お母さんの名義で借りるように――借りているようにしてほしいの。それなら、わたしが阿山君と同じアパートに出入りしていることも、不自然ではなくなるわ。わたしは母親に会いに行っているのだから」


「建前ね」と繭墨母。


「大人って建前で動くものでしょ」


「借りているように、ということは……、噂が立つ以前から賃貸契約を結んでいた風に偽装しろということか。まったく、我が娘ながら無茶なことを」


 父親の言葉に、繭墨は答えない。


「しかし……、そういう搦め手の言い訳を使うというのなら、お前たちの付き合い自体も無かったかのように振る舞わなければ、誤魔化しの意味が薄れるんじゃないか?」


 大人特有の、子供を試すような意地の悪い質問。

 ただしこれは前提が間違っているので効果はない。


 繭墨は両親に、僕たちが付き合っていると説明していた。

 僕の部屋に繭墨が居候していた理由として、それが最もシンプルで、納得できるものだったからだ。倫理的にはともかく、感情的には。


「ええ、そのつもりよ」


「こちらは別に構わないが……、乙姫はそれでいいのか? 噂を打ち消すために自分たちの交際を制限するというのは。阿山君は?」


 繭墨父がこちらに水を向ける。


 なんなのだろう、このやり取りは。

 とても親子の会話じゃない。


 子供の自主性を尊重している、とか言えば聞こえはいいが、自分の子供を子供として扱っていないのは、普通ではないと思う。親として子供に向ける身びいきや偏り、意見の押し付けがない、不自然なまでの対等な扱い。


 まるで、自分の子供とどう接すれば良いのか、わからないような。


 最初は緊張して隅っこで黙り込んでいた僕も、だんだん、苛立ってきていた。

 だからつい、言ってしまった。


「ご心配なく。僕たちはもともと、付き合ってなんかいません」


 僕の言葉が予想外だったのか、繭墨の両親と、そして繭墨当人も僕を注視した。


「繭墨――乙姫さんが僕の部屋に転がり込んできたのは、ご両親の不仲を見るのが嫌で、家に居たくなかったからです。僕の部屋は、お二人が考えているような、同棲めいた甘ったるい場所ではありませんでした。避難場所のようなものです」


 ぽかんと口を開ける繭墨父。

 繭墨母は面白がるような表情をして、


「そ、それじゃ阿山クン、あなた、この子に何もしてないの?」


「はい、指一本触れていません」


 高らかに宣言すると大笑いされた。


「指一本! 触れていませんって……、ぷっ、アッハハハハハハ……!」


「おい、失礼だろう」とたしなめる繭墨父。


 しかし、僕の言動は繭墨母のツボにハマってしまったらしく、


「同じ部屋で! 同い年の娘と一緒で、なんにもないって……、ちょっと乙姫、あんた女子力足りてないんじゃないの? くっ、はははははは……」


 僕だけではなく繭墨まで巻き込んで、爆笑は続いたのだった。


 いい歳をした女性がこんなに馬鹿笑いするのを見るのは初めてだった。

 僕は笑われた恥ずかしさよりも困惑の方が勝ってしまい、どう反応していいのかわからない、長い長い数十秒だった。

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