第67話 これでも一応、動揺してるんです
部屋に戻ると、室内はすでに冷房で冷やされていた。
バイトに出ていた僕よりも、母親と会っていた繭墨の方が先に帰っていたらしい。それも五分や十分前どころの話ではなさそうだ。
「早かったね」
「特に話すこともありませんでしたから」
繭墨はこちらを見ることなく投げやりに言うと、文庫本を置いて立ち上がる。
文庫本の置き方に、放り投げるような雑さを感じた。
「それでは晩ご飯を作りましょうか。今日は何か、リクエストはありますか?」
「もう食材は買ってきてる?」
「はい。昨日は豚肉だったので、今日は鶏肉を」
「じゃあ親子丼がいいかな」
「皮肉ですか?」
「そう感じるならよっぽど重症だと思うよ。何かあったの?」
繭墨が僕の部屋に転がり込んできてから、おそらく今が最も、室内の空気が張り詰めていた。この程度のやり取りで、繭墨はかなり神経過敏になっている。
「……親子丼ですね。わかりました」
「今日は僕が作ろうか」
「わたしがやります。家事を行うのは、ここに置いてもらうことの対価ですから」
「じゃあ、二人で作ろうか」
「は……?」
繭墨は口を丸くする。眼鏡が若干ズレていた。
「何。そんなに驚くこと?」
「いえ、ですが……、台所、狭いですよ?」
「大丈夫だいじょうぶ、足の踏み場もないってほどじゃないし」
繭墨は不服そうな表情を隠しもせず、黙ってエプロンをかけて台所に立った。立場上、嫌とは言えないとあきらめただけだろう。
晩ご飯の準備が始まった。
繭墨が親子丼とお吸い物を担当、僕は副菜の酢和えを作るという割り振りである。
わかっていたことだが、この部屋の台所は二人で並んで調理できるような広さではない。それでも共同作業をと提案したのは、長谷川さんの話(経験談?)を参考にしてのことだ。
でもこれ、余計な手出しだったんじゃないだろうか。
お互いの動きが邪魔になって明らかに作業効率が下がっている。繭墨だけでやった方がきっとスムースに進んだだろう。
失敗したかもしれない。アドバイスを受けたからと言って、それを場所もタイミングもわきまえずに試すのは考えなしに過ぎる。
隣を見ると、繭墨はお吸い物の鍋をじっと見つめていた。表情はいつも通りの平坦なものだったが、ふと、その口が動いた。
「母と会ってきたのですが」
「うん」
「見知らぬ男性も一緒でした」
きゅうりを刻んでいた包丁の刃先が危うく指に行くところだった。
「……それって」
「お察しのとおりです」
と繭墨は言う。繭墨のお母さんの、現在の交際相手ということなのだろう。
「じゃあ、ご両親の関係は、もう……」
「お終いでしょうね」
「繭墨はどうするの」
「どうもしません。なるようになるだけです」
「そっか……」
「ごめんなさい、こんな辛気臭い話。でも食事中だとご飯が不味くなりますから、このタイミングで話しました」
「話さないって選択肢は?」
尋ねると、繭墨が不機嫌そうに眉を上げた。
「非効率な提案は、そのためでしょう? 悩み事があるんだろ、話してみろよ、俺でよければ聞いてやるぜ、話すだけでも楽になるかもしれないからな――そんな、らしくない気の回し方に、せっかく乗ってみたというのに、なんですかその間の抜けた質問は」
強烈な反撃が来た。繭墨のイメージ中の僕は、そんなイケイケのオレ様を演じているのだろうか。
二つの意味で恐れおののいていると、繭墨は声のトーンをふっと落として、
「……それに、迷惑をかけている立場ですから、事情を説明する責任があります」
「責任とか、そんなこと言わないでよ」
「すいません、格好をつけました。……これでも一応、動揺してるんです。黙っているより、誰かに話して、発散したかったんです」
「そっか」
「はい。だから、ありがとうございます」
繭墨の素直な言葉に、すぐに返事ができず沈黙が漂う。親子丼の煮立つ音がその場で一番大きいくらいだった。
「アルコールが入ったらもっと発散できるかもね」
「酔わせてどうする気ですか」
余計な一言を付け加えると、想定どおり、鋭い視線が返ってきた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
親子丼は卵のトロトロ感が絶妙で、個人的には星三つの出来栄えだった。
あっという間に食べ終えて、食器を洗うと、テレビをぼんやり眺めながら食後のコーヒーブレイク。
僕の方から触れはしなかったが、しばらくすると、繭墨の方から話が始まった。
それは男女の話だった。
「わたしの両親はどちらも、新しい相手に依存しているように感じました」
「またヘビーな話を……、繭墨の両親が仲良くしてるのは見たことないの? 依存っ
てほどじゃなくても、仲睦まじいイチャイチャした感じの……」
「ずっと昔、わたしが幼いころはそういう風だったと思いますが」
「じゃあそれと同じことを、今度は別の相手としているだけだよ、だから、依存っていうのは言い過ぎだって。付き合い始めの……バカップル? みたいな感じなんじゃないの」
繭墨は苦い顔をする。
まあね、そりゃ自分の両親が年甲斐もない感じになっちゃうのは、僕もちょっと、想像すると複雑な気分になる。
「いい歳をして、そんなこと……。母の相手なんて10歳近く下なんですよ」
「お母さんってどんな人?」
「見てみますか」
と繭墨はスマホを差し出す。ディスプレイには気の強そうな女性の写真が。
「へえ、全然、高校生の娘がいるようには見えないよ」
「守備範囲ということですか?」
「繭墨って基本、僕が特殊な性癖の持ち主であるかのように扱うよね」
お母さんを僕に下さい! とは言わない。
「確かに、アラサーにアラフォー、歳を重ねても恋していたい、なんてテーマの物語はよく見かけますが……」
「ニーズがあるってことは、実際にそうなる人もいるってことで、繭墨が思ってるより、大人って落ち着いてるわけじゃないんだよ、たぶん」
繭墨はまだ納得していない様子だ。
「……それとも、やっぱり、両親が別れるのは嫌なわけ?」
「わかりません。新しい相手と幸せになれるのなら、それでもいいと思いますが」
「ますが?」
僕はさらに問いかける。
繭墨の表情は、わかりやすかった。物分かりのいい子供の仮面が外れかけている。
「気に入らないのは、わたしのことが完全に後回しになっていたことです。母は事後報告。父に至っては発覚してからも言い訳すらないなんて」
繭墨は声を荒げて続ける。
「家族ってなんですか? わたしの家が異常なんですか? 親なら親らしく、もう少し気を配ってください。阿山君やヨーコの家のようにとは言いませんが、せめてお互いどうするつもりなのか、それくらい、伝えるべきです」
「繭墨は大人びてるから、ご両親も子ども扱いするのを忘れちゃったんじゃないの」
「わたしは大人びてなんかいません。外側はそれらしく振る舞っていましたが、中身はどうでしょう、そんな自覚は全くありませんよ」
「人は見た目で印象の九割が決まるっていうし」
「それは初対面の相手についての話でしょう。身内ですらそのレベルだったら、うちの家族って、ぜんぜん相手を見る目がなくて……、お話にならないじゃないですか」
「じゃあ、もっとしっかり見てもらうしかないよ」
「どういう意味ですか」
「我がままの一つでも言ってみたら? わたしはあなたたちが思っているほど大人じゃないんだって、ちゃんと子供のことにも目を向けろって、駄々をこねてみればいいんじゃないかな」
「つまりトリックスターを演じろと?」
トリックスター。
両親の不仲に対し、わがままを言って間を取り持とうとする子供を指す、心理学の用語だ。いわゆる「雨降って地固まる」を自演する存在と言える。
いきなり心理学の話を持ち出してくるあたり、さすがに繭墨は物知りだ。その唐突さは、僕ならついてこられるだろうという信用の証のようでうれしかった。
繭墨がわがままな子供を演じられるのかはわからない。そうまでして両親をつなぎ止めたいと思っているのかも不明だ。
ただ、それ以前に繭墨はそんな選択肢を考えたことすらないのだと思う。
だから、こういう考え方もあるよという、可能性の話をしただけだ。
ところが、残念ながら繭墨の選択はなされなかった。
選ぶよりも先に、ちょっとした厄介ごとが持ち上がってしまったのだ。
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