第66話 〝手を取り合って〟の精神だよ

「おはようございます。眠そうですね」


 朝、起きて顔を合わせるなり、繭墨はそう言った。

 僕はあくびを一つ。


「くぁ……、おはよ。僕はまだ、同じ部屋に女子がいても平然と寝られるほど、悟りきっちゃいないらしい」


「こんなまな板でもですか」


 繭墨は胸に手を当てながら言う。

 まな板の上の恋、なんて言葉が思い浮かぶあたり、まだ脳が働いていない。


「いつからそんな自虐的になったんだよ」


「すぐ近くに比較対象がいると、どうしても卑屈になってしまいます」


「ああ……」


 比較対象というのは百代のことだろう。

 ここはとりあえずノーコメントを通しておく。


「朝食はどうするの」


「もちろん作りますよ。洋風ですがかまいませんか?」


「食べられさえすればもうなんでも。ありがたいことです」


 繭墨は白い長袖のワイシャツに黒いパンツという、ビジネスマンじみたシンプルな服装。それにエプロンをかけて台所に立った。


 調理を始める繭墨を横目に、床に敷いていた布団を担いでベランダまで持っていき、そのまま手すりに干した。


 昨晩、繭墨にはベッドを使わせて、僕は廊下で寝たのだ。


 しかし、共用通路を歩く人の足音が響いたり、繭墨の寝息を意識したり、とにかくいろいろと眠りを妨げる要素が多すぎた。ようやく眠くなるころには、外がうっすら明るくなっていた。


 ジュウッ……、という肉の焦げる音がして、香ばしい匂いが漂ってくる。ベーコンエッグだろうか。パンの方はコンロのグリル――魚を焼くための網のやつだ――に並べて置いてそこで焼いていた。なるほど、そういう使い方があるのか、と感心してしまう。


 十分と待たず、料理がテーブルに並ぶ。


「いただきます」

「はいどうぞ」


 普段は食前のあいさつなんてしないのに、こういうときは手まで合わせてしまう。


「ん、おいしいよ」


「焼いただけのシンプルな料理です」


「シンプルイズベストだよ」


「このところ、妙にわたしを持ち上げますね……。何か企んでいるのですか?」


「いやいや、そんなことはないよ」

 

 ただ想いを秘めているだけですよ。

 まるで同棲、どころか新婚生活のようだと考えて浮かれる反面、その妄想が僕の独り相撲に過ぎないことも理解していて、明暗どちらに振り切ればいいのかわからない精神状態のまま、気持ちが立ち往生している。


「そうですか……」


 繭墨は怪訝な顔をしている。

 ニュースでは今日も最高気温は真夏日の予報、戦後○○年の悲劇を振り返る、暑い夏を乗り切るひんやりスイーツ特集、あの芸能人夫婦がついに離婚か、エトセトラ……。


 チャンネルを切り替えると、高校野球がすでに始まっていた。


「あ、ウチの2回戦って今日だったのか」


 映し出されたのは、マウンド上の直路。ワインドアップから直球で空振りを取った。今日も調子は良さそうだった。


 高校野球の進行は早い。2時間半とかからずに試合は終わり、伯鳴高校野球部は2回戦も突破していた。



「気の重い用事の前に、良いものが見られてよかったです」


 玄関口で繭墨は笑顔を見せた。


「それでは行ってきます。そう遅くはならないつもりですので」


「別に気を使わなくてもいいよ。久しぶりに会うんだろ。行ってらっしゃい」


「はい、行ってきます」


 この部屋から、行ってらっしゃいと言って誰かを送り出すのは初めてで、そんな些細なことにも感慨深いものがある。それは繭墨が相手だからだろうか。


 僕はバイト先へ行く前に、1時間ほど仮眠を取るべくベッドに横になる。


 今朝の繭墨の様子をさりげなく見ていたが、寝不足をうかがわせるそぶりは見せなかった。

 男子の部屋で眠ることに、本当にまったく、緊張などないのだろうか。


 それはまずい。さすがにそこまで男として思われていないとなると、打つ手がないのではないか。こちとら彼女が寝ていたベッドに横になるだけで、その残り香を意識して落ち着かないというのに。


 だからといって、強引に行くのは論外だ。その気のない繭墨は、僕が近づいた分だけ距離を取ってしまうだろう。実に悩ましい。おかげでろくに仮眠もできなかった。


 ベッドから起き上がり、だるい身体に鞭打ってバイト先へと出かける。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 菓子折りを持ってバイト先の『ラッキーマート』の裏口をくぐると、バックヤードは非常にバタついていた。荷物の搬入に対して売り場への陳列が間に合っていない、人手の足りていない状況であることが一目でわかった。


 ちょうどパートさんたちに指示を飛ばしている、副店長の長谷川さんが通りがかった。


「今から入れますけど」


 シフト上は休日だが、あまりに慌ただしい様子を見かねてそう声をかける。

 長谷川さんは数秒ほど迷ってから、


「……じゃあ四時間で頼むよ。キツイよ?」


 と苦笑した。こういう申し出はやんわり拒否することの多い長谷川さんには珍しいことだった。それほど忙しいということだろう。


 出したそばから売れていくペットボトル系飲料をひたすら補充し、それがひと段落するといつの間にか品薄になっているお菓子類を並べ、お客様の回転につれて溜まっていくカゴやカートを片付け、それらの合間に何度もお客様に呼び止められ――

 常に動き回っているうちに、いつの間にか4時間が経過していた。


「阿山君、君、休憩に入ってないだろう。まだタイムカードは押さなくていいから」


 長谷川さんに呼び止められ、事務所へと連れ込まれる。例によっておごりの缶ジュース付き。ここへ顔を出した理由の半分は、長谷川さんに相談したいことがあったからだ。ちょうどよかった。


「いやあ、助かったよ、本当に。ありがとう」


 長谷川さんは礼を述べると、ペットボトルのスポーツドリンクを一気に半分ほど飲んだ。


「ずいぶん忙しそうでしたけど」


「突発的な休みが重なったのと、単純に荷物が多いからだね。特に飲料類」


「毎日暑いですもんね」


「空調の利いた店内にいると実感しづらいけどね。……ところで、こちらへ戻ってくるのはもう少し先の予定じゃなかったかな」


「突発的な事件が発生したもので……」


「ほう」


 どう質問したものかと考え、そして口を開く。


「同棲ってどう思いますか?」


「どうせい?」


「同じ部屋に棲む、の同棲です」


「え? 阿山君? ……同棲? 何? 君、するの?」


 長谷川さんの言語能力に著しい低下がみられる。


「あ、僕じゃなくて、姉がですね。彼氏とそういうことになるかもしれないという話をしておりまして、弟としましては軽率に男と女が同じ部屋に住まうというのはいかがなものかと、疑問を感じた次第でありまして」


「ああ、そういうこと。お姉さんって確か春ごろに会った……」


「はい、そうです。だから、同棲のいい点や悪い点、あと上手にやっていくコツなんかがあればご教授いただけないかと」


「ふぅん……」


 長谷川さんは腕を組み、視線を落とす。何か深く考え込んでいるかのような表情。


「そうだね……、結婚を前提に付き合うというのなら、同棲はしておいた方がいい。ただし、そこまで考えていない、言い方は悪いが〝軽め〟の付き合いだというのなら、やめておくことをお勧めするよ」


「どうしてですか」


「デートのときには秘匿されていた相手の悪い部分が、どうしても目についてしまうから。同棲というと一つ屋根の下、そんな響きに惑う人は数多いけれど、距離が近くなれば粗も見つけやすくなる。意図していなくても、自然と目についてしまう」


 長谷川さんはため息をつき、天井を仰いだ。


「料理の味付けやら家事担当の偏りやら、果てはいびきがうるさい、トイレのふたを閉めてない。食事の食べ方が汚い、リモコンを変なところに置くな、シャンプーを勝手に使うな……、どうでもいいことでいちいち腹を立ててはケンカばかりさ。同じ部屋に住んでいれば嫌でも顔を合わせなければならない、その環境も状況を悪化させる。距離を取ってクールダウンってことができなくなるからね」


「そんな……」


 僕は膝をつきそうになる。

 長谷川さんの言葉が事実なら、同棲なんて悪いことしかないじゃないか。


「希望はないんですか?」


 すがるように尋ねると、長谷川さんは柔らかな笑みを浮かべた。


「希望なんて、どこにあるのか不確かなものだよ。だったら作ればいいのさ。大切なのは、相手を思いやること。ちょっとしたことに感謝して、相手のミスをあげつらわないこと。相手が大変そうなときは、「一緒にやろう」と声をかけること」


「声をかける。思いやること……」

「クイーンも歌っている。Let us cling together.〝手を取り合って〟の精神だよ」


 長谷川さんの言葉は、人間関係において気を付けるべき、ごく当たり前のことだ。だけど、それをおろそかにしては同棲はうまくいかない。そういうことなのだろう。


「ありがとうございます」


「いやいや、つい熱が入ってしまって恥ずかしい限りさ」


「まさか実体験を?」


「一般論だよ。……というか君の方こそ、一人暮らしだし、まさか本当に――」


「いえいえ」僕は首を横に振る。「いえいえいえ」


 そして後ろ手にドアを開けて、「お疲れ様でしたー」と事務所を退出した。

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