第61話 わたしの言葉を優しいと感じるのなら

 今日の騒がしさは、夕食のときがピークだった。


 二人が僕の部屋へやってきてあれこれ物色することもなく、脱衣所であられもない姿の彼女たちとばったりというハプニングもなく、時間はおだやかに過ぎていった。


 ところが、このおだやかさというやつが曲者だった。

 ベッドに横になってもすぐに眠気は訪れない。


 目を閉じても眠れずにしばらくして目を開け、枕もとのスマホで時刻を確認する、という行動も、もう3回目だった。実家の周辺はド田舎ゆえに熱帯夜とも無縁、クーラーをかける必要のない環境だ。


 暑さによる寝苦しさは感じないのに、眼が冴えてしまっているのは、結局、繭墨と百代のせいなのだろう。同じ屋根の下に女の子が二人もいる状況で眠れるほど、僕の神経は図太くないらしい。


 喉の渇きを感じてスポーツドリンクが恋しくなった。

 音を立てないように1階へ降りる。


 冷蔵庫を物色してポカリをがぶ飲みし、ついでにアイスバーを1本食べ終えたところで、ミシッ、という家鳴やなりの音が聞こえた。


 振り向くと、台所の入口に幽霊が立っていた。


「ひぃ……!?」


 違う。人間だ。繭墨だった。


「阿山君……」


「繭墨、どうしたの? 寝付けない?」


「はい。枕が変わると眠れないタイプらしいです、わたし。それと喉も乾いたので、勝手とは思いましたが……」


「人の実家まで勝手に押しかけといて、今さら気にしなくても」


「それはヨーコにだまされたんです」


 言いながら繭墨は中に入ってくる。僕はグラスにポカリを注いで差し出した。


「はい」


「ありがとうございます」


 繭墨はグラスをあおってポカリをほとんど一気に飲み干した。

 白い喉が液体を嚥下えんかする動きがなまめかしいと思う。


 繭墨の格好は、赤地に謎のキモカワキャラがプリントされた姉さんのTシャツに、下は青地のショートパンツという、今までに見たことがないラフな格好だった。


 夏の寝間着なら薄着になるのは当たり前だ。でも、繭墨は普段から肌を見せない服装が多いせいか、露出の多い今の姿はインパクトが強い。太ももの白さや、二の腕の白さや、相変わらず起伏の少ない胸元に、つい目が行ってしまう。


 だから、グラスをテーブルに置く音が少々乱暴に聞こえたのは、僕の無遠慮な視線に対する警告だったのだろう。

 

「阿山君」


「……なんでしょう」


 恐るおそる問いかけると、繭墨は涼しげな微笑を浮かべた。


「少し、歩きませんか?」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 サンダルを履いて外に出る。

 8月の夜の底の、肌に絡みつく空気の中を歩いていく。

 聞こえてくるのは、虫の音と、二人の足音だけ。

 月は半月。ぎりぎり懐中電灯がいらないくらいには明るかった。


 無言で歩くこと2分弱くらいだろうか、三歩前を歩く繭墨は、前を向いたまま、歩く速度もそのままで話しかけてきた。


「千都世さんから聞きましたよ」


「……何を」


「もう、そういう関係じゃない、と言っていました」


「ああ……」


 その話か。

 苦い感情が広がる。


 繭墨め、今度はどんな切り口で僕の精神を刻むつもりなのか、と身構えてみたものの、続きの言葉が飛んでこない。


 恐る恐る尋ねる。


「……それだけ?」

「はい。千都世さんから阿山君への、恋愛感情がなくなったことは察したのですが……、その経緯が判然としないので」


「繭墨には関係ない話だよね」


「ですが興味はあります」


 率直な物言いに、返す言葉がない。


 聞いて面白い話とは思えないし、そもそも、あまり語りたい話でもない。だけど、姉さんがそこまで明かしているのなら、隠す必要もないのかなという気もする。


 それ以上に、繭墨に隠し事はできないという今までの経験則が、僕を諦めの境地に立たせていた。


「面白い話じゃないんだけど」


「娯楽代わりにするつもりはありません」


 僕はため息をついて話を始める。


「……この前、5月の頭に姉さんが来たことがあったよね」


「はい。猫騒ぎの頃ですね」


「そのときに告白されて……、うん、たぶん、あれは、告白だったんだと思う」


「ハッキリしませんね」


「で、夏に帰省した初日にその返事をしようとしたら、すでに姉さんには大学で付き合ってる彼氏がいるって言われたんだ」


 わずかに繭墨の足音が乱れる。


「……それは、また、急転直下ですね」


「だからつまり……、僕は姉さんに振られたんだよ。それだけの話」


「5月から8月ですよね。3か月も待たせたら、普通は脈がないと受け取られますよ。自業自得です」


「ですよね……」


 帰省するなり彼氏ができました宣言をされたとき、姉さんも同じようなことを言っていた。


 確かに、告白をした立場なら、3か月も返事がなければ断られたと思って当然だ。ずっと迷い続けていたなんて言い訳にもならない。その辺りを先延ばしにしたのも、家族という関係ゆえの甘えがあったからだと思う。


「ちなみに、どのような返事を?」


「断るつもりだった」


「それは、ほかに気になる相手がいるからですか?」


 繭墨の言葉には探るような気配があった。

 僕は答えずに、話を続ける。


「会えない時間が気持ちを育む、って風にはならなかったんだよ」


 僕が姉さんを好きだったのは、一番近い異性だったからだ。唯一の理由ではないとしても、大きな理由だったことは間違いない。


 それは姉さんにしても同じことで、だから、あんな唐突な〝告白〟に踏み切ったんだろう。会えない時間が気持ちを隔てていくことを実感したから。


「距離の切れ目が縁の切れ目というか、そのつもりで一人暮らしを始めたんだから、願ったり叶ったりだよ。姉さんも弟のお守りから解放されたし、結果オーライってやつさ」


「千都世さんなら相手には困らない――それを見事に実践していますしね」


「まったくだよ」


 僕は苦笑交じりに同意する。

 ふと、繭墨の足音が止んだ。繭墨は立ち止まってこちらを見ている。

 僕も足を止めた。


「これは私見ですが、千都世さんが彼氏を作ったのは、阿山君が後ろめたさを感じないようにという配慮だと思いますよ」


「そう……、かな。当てつけじゃなくて?」


「振れば罪悪感が残ります。振られれば敗北感が残るでしょう。阿山君にとって、どちらの方がよりつらい感情でしょうか」


 繭墨のそれは、問いかけではなくて確認だった。


「僕は……」


 負けることには慣れているが、傷つけることには慣れていない。

 だから、敗北感からの方が早く立ち直れるだろう。

 僕はそういう性質の人間だ。


「千都世さんは、阿山君のそういうところを、よく理解しているはずです」


 理解というなら、それを察する繭墨も相当なものだ。

 繭墨は今までも、その鋭さでもって、僕の言動を散々に看破し、喝破してきた。

 

 直路への嫉妬心も。

 百代への距離感も。

 クリスマスの迷いも。

 千都世さんへの引け目も。

 それらの根幹にある、しみったれた自尊心も。


 見抜かれ抉られるたびに、僕は繭墨への苦手意識を深めていった。

 繭墨の苦言はあまりにも苦く、それでいて的確だったから。


 だけど、今日の繭墨が示したのは、千都世さんの思いやり――その可能性だった。


 だからつい、こんな言葉が口をついたのだろう。


「……今日の繭墨は、優しいね」


「そうですか?」


 繭墨は首をかしげつつ歩き出す。僕の横を抜けて、来た道を家に戻る方向へと。

 真夏の夜の長話も、そろそろ締めということだろう。


「わたしはいつも事実を語っているだけです。わたしの言葉を優しいと感じるのなら、それは事実が優しかったということでしょう」


「じゃあ、ただの偶然?」


「はい。……月明りに目が慣れてきました」


 繭墨は道端の石ころを蹴飛ばした。


「〝月が綺麗ですね〟って知っていますか?」


「だいぶ使い古された感があるよね。〝桜の下には死体が埋まっている〟ほどじゃないけど」


「どっちもどっちでしょう」


「まあね」


 そう言って笑い合う。

 こんな穏やかな気分で繭墨と話をするのは、本当に久しぶりだった。


 夏の夜の生ぬるい空気と、ぼんやりとした月明かりと――そして、繭墨は否定したけれど、彼女自身の優しさが、この穏やかな空気を作り上げている。


 そう感じるのは希望的観測だろうか。

 確信できない僕には、これ以上踏み込むことのできない夜だった。

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