第62話 どこへ行けばいいのでしょうか
阿山君の実家で迎える朝は、涼しくて寝やすかったおかげか、とてもすっきりとした目覚めだった。
あたしたちはちょっと遅い朝ご飯を食べたあと、リビングに集まってテレビを見ていた。
今日は我らが伯鳴高校野球部の甲子園デビューの日。
進藤君が芸能人みたいに、画面のど真ん中に映っている。画面の端に地区予選の成績とかのデータが出ていたけど、元カノ:百代曜子、なんて情報はもちろんない。
あたしは相手チームが強いのか弱いのかもわからなかったけど、試合は常にうちの高校が有利に進めていたと思う。本大会で最初の試合だからか、予選の後半とかと比べても進藤君の体力が有り余ってる感じで、速いストレートをど真ん中にビシビシ決めていた。
「ほー、大したモンだなぁ」
千都世さんがしきりに感心している。
「こいつ、鏡一朗の友達なんだろ?」
「直路が赤点を回避できているのは僕のおかげだね」
「あと、オトヒメちゃんの思い人なんだろ?」
「おふッ……!?」
ちょうど麦茶を飲んでいたヒメが変な声を出す。
吹き出すことはなかったけど、お茶が気管に入ったみたいでけっこう激しく咳き込んでしまう。
「ちょっとヒメ大丈夫?」
背中をさすってあげていると、ようやく落ち着いたヒメが顔を上げる。
メガネに長い髪がかかって、怪談に出てくる幽霊みたいだった。白い顔をして、恨みがましい視線を、千都世さんではなくキョウ君の方に向けた。
「……阿山、君?」
「おお、ナイスボール、今のコースは直前のスライダーと途中までボールの軌道が同じだっただろ、だから相手はまたスライダーだと思ってつい手が出てしまうんだよ」
とキョウ君は野球の解説を装って、全力でヒメから目を逸らしている。
ヒメも物理的につい手が出そうな顔になってるんだけど……。
でも、ここでキレたら負けだと思ったのか、ヒメはソファに座る姿勢を正して、
「昔の話です」
とだけ短く言う。
「そうかい」
千都世さんはニヤリと笑って、それ以上は追及しなかった。
その後、進藤君は最後まで投げ切り、試合は伯鳴高校の勝利に終わった。スマホに友達からメッセージアプリの着信がいくつも来ていて、その返信が面倒だった。
試合が終わる頃にはもう12時を回っていて、千都世さんがお昼ご飯にと冷麺を作ってくれた。
コシのある麺だとか、タレの酸味と辛みのバランスが絶妙だとか、上手に説明できないけれど、とにかく今まで食べた中で一番おいしい冷麺でした、ということを伝えると、千都世さんはうれしそうに笑った。
「ちょっとした工夫や手間の掛け方で、料理ってのはいくらでも美味しくなるんだ」
そう言って、ちらっとキョウ君を見る。
「料理は愛情、ですか?」
「陳腐な言葉だよ、アタシは好きじゃない。まあ、不出来な料理の言い訳に使わなけりゃなんでもいいさ」
「う……、肝に銘じます」
食事を終えると、あたしは千都世さんにお願いして、この家にひと部屋だけある和室に入らせてもらった。
そこには仏壇があって、キョウ君の、もう一人のお母さんが眠っているのだ。
あたしとヒメは正座をして、仏壇に手を合わせた。
キョウ君……じゃなくて鏡一朗君の友達の、百代曜子です。初めまして。
鏡一朗君は色々と面倒な性格をしています。素直じゃないというか若干ひねくれ気味で、あと、優柔不断です。告白したんですけど返事はまだもらってません。でも優しい人です。しっかり者というか大人びているというか……、老成してます。そこそこ頼りになります。何回か助けてもらいました。最初は変な人だと思ってたけど、だんだん、一緒にいると楽しいと感じるようになりました。
今の鏡一朗君はそういう人です。えっと、それじゃあ、よろしくお願いします。
自分でも何を言いたいのかよくわからない報告が済むと、立ち上がって、それから部屋を出る前にもう一度お辞儀をした。遺影のお母さんは笑顔だったけど、その表情が一瞬だけ、苦笑いしたように見えた。ごめんなさい、変な話で。
◆◇◆◇◆◇◆◇
帰りはキョウ君も駅まで見送りに来てくれた。
「キョウ君は、夏休み中はずっとこっちにいるの?」
「下旬までは居ると思う」
「そっか、過ごしやすいもんね、ここ」
「避暑地に最適だよ」
という割に、キョウ君の表情は冴えない。
「どしたの? なぁんか浮かない顔してる」
「そうかな」
「あ~、もしかして」
「何」
「あたしと離れちゃうのがさみしいとか」
「そうだね、他所様の目がなくなってしまうのはマズい」
「どゆこと?」
「僕はこのあと、家族裁判という名のつるし上げを受けることが確定してるから」
「何それ」
「二人がいなくなったから、昨日の続きだよ。どういう関係か、っていう尋問の」
「ああ……」
いいことだと思った。こってり絞られちゃえばいいんだ。
そして、こっちへ戻ってくる頃には気持ちが決まっていればいいのに。
「……百代はなんでそんな笑顔になってんの」
「さあ、どうしてでしょう」
キョウ君がげんなりした顔をして、あたしはそれを見てまた笑う。
そんなやり取りをしていると、線路がカタンコトンと音を立てた。
遠く、緩やかなカーブを抜けて列車が近づいてくる。
またすぐに会えるのに、駅のホームというシチュエーションのせいでちょっと切なくなってしまう。
あたしたちは列車に乗って、ホーム側の席に座った。
「じゃあまた、新学期に」
キョウ君が窓越しに言う。
「うん、またね」
「さようなら」
それから、千都世さんの方を向いて、
「お姉さんも、ありがとうございました」
「ああ、気をつけて帰れよ。向こうじゃ鏡一朗をよろしくな」
列車が出る。
別れの仕草は四者四様。
あたしは窓から腕を出してぶんぶん振った。
ヒメは顔の高さに軽く手を掲げていた。
キョウ君は小さく手を振るだけ。
千都世さんは親指をグッと立てていた。男前だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
昨日辿ってきた線路を、今日は逆向きに帰っていく。
流れる景色にちょっと飽きてきたころ、あたしは向かいの席で読書をしているヒメに声をかけた。
「ねえヒメ、どうだった?」
あたしの質問に、ヒメは読んでいた本から顔を上げて、
「質問が大雑把すぎるわ。でも、そうね、悪くはなかったわ、結果的には」
「そう、よかったぁ」
今回、ヒメを連れてきたやり方はかなり強引だったから、そう言ってもらえるとホッとする。
「……ヨーコはどうだったの?」
と逆に聞かれて、あたしは少し考え、正直に話すことにした。
「千都世さんに、
「意外ね、二つ返事だと思っていたわ」
「そりゃ、キョウ君の実家ってすごく興味あったけど……、再婚してるわけじゃん。
「同感ね。でも、思っていた以上に普通の家庭だった。普通というか、正常というか……、元は別々の家族だったのに、今はちゃんと、ひとつの家族になっているように見えたわ」
ヒメの言い方は淡々としていた。家族っていう暖かいものを、冷静に分析するような口調。
ヒメから直に聞いたわけじゃないけど、ヒメの家族はあまりうまくいってない気がする。ヒメの家に遊びに行ったとき、家政婦の人がいるって話は聞いたのに、お父さんやお母さんについての話題は一切なかった。
お父さんのこういうところが好きとか嫌いとかうっとーしいとか、お母さんに教わるであろう料理とか化粧とか昔の恋の話とか。そういう、両親の思い出を感じさせる話が、ヒメの口からは本当にさっぱり出てこなかったのだ。気配すらなかった。
あたしの家に来たとき、家族仲がいいのね、ってポツリとつぶやいたりしていた。
キョウ君の家でも、ときどき遠くを見るような、寂しそうな目をしていた。
ヒメの考えごとは、悪い方へ向かっている気がして、それを方向転換させるように、あたしは能天気な声で話を変えた。
「そういえば、せっかく水着も持ってきてたのに、着るチャンスがなかったなぁ」
ぴくり、とヒメの眉が動く。
「……ここぞとばかりに悩殺するつもりだったの?」
「悩殺ってなんか古いよヒメ」
「そうかしら……」
「戻ったらプールとか行かない?」
「行かないわ」
「あ、やっぱり。ヒメって夏休みはずっと冷房かけて部屋に引っ込んでるイメージだけど」
「当たらずとも遠からずよ」
「たまには外に出ないと。プール行こうよプールぅ」
「不特定多数の人間が漬かっている液体の中に入るのはちょっと……」
「漬物の残り汁みたいな言い方やめてよ、こっちもプール行く気が失せちゃうじゃん……」
「それでいいのよ。ヨーコも引きこもっていた方がきっと身体にもいいわ。体温に匹敵するような高気温、紫外線たっぷりの直射日光、ストレス要因でしかない人混み――外で遊ぶことが健全だなんて、わたしにはとても言えないわ」
っていう感じで、ヒメはだんだんいつもの調子を取り戻していった。
それはよかったんだけど。
でもこれ、口調だけは一丁前だけど、内容はただの引きこもりの言い訳だよね。
あたしにはヒメの頑丈な
◆◇◆◇◆◇◆◇
伯鳴駅で曜子と別れると、バスに乗り換えて家へと向かいます。
バスを降りる頃には体の疲れをはっきりと自覚していました。
ほんの一泊とはいえ、いつもと違う体験はやはり身体に負担があったようです。わたしの体力が少ないこともあるでしょうが。
停留所から、丘の上の家までは徒歩です。
家へ続く坂道をうんざりした気分で登りながら、阿山家の雰囲気を思い出します。
阿山君は、わたしの知る彼よりも、少しだけのんびりしていました。きっと家事をしなくていいからダラけていたのでしょう。それから、わたしたちに対して少しだけ世話焼きだったように感じます。右も左もわからない土地に来た女の子を導く〝お兄さん〟を自任していたのかもしれません。
千都世さんは、こちらで2度会ったときよりも刺々しさが薄れていました。弟との関係に区切りがついたことによる精神的な余裕のおかげでしょうか。台所に立つ彼女の姿は、年齢以上に落ち着いていて、所帯じみているレベルでした。
お父さんは優しい目をしていました。家族を大切に思い、見守ろうとする視線。子供たちや、突然の来客に対して邪険にするようなそぶりは全くありませんでした。
お母さんはあらゆる動作がテキパキしていて、お父さんとは対照的でした。早いから雑ということもなく、急な来客で困るであろうこと――例えばお風呂に入る順番や、わたしが生活用品を持ってないことなども、こちらから話す前にフォローがありました。
その4人がそろっていることが当たり前の空間。
ああ、ここはちゃんとしたホームなのだと感じました。
その感慨は百代家にしても同じです。
曜子と弟さんと、ご両親と、まだまだ健在のお
以前、わたしの家に泊まった曜子は、繭墨の家の大きさや洋装の作りについて、しきりにうらやましがっていました。
ですが、わたしは自分の家が好きではありません。
大きいだけで空っぽの我が家と比べたら、百代の家の、ちょっと古風な木造の1戸建ての方がはるかに素敵だと感じます。
そんな二つの家族に
やがて薄ら寒い繭墨の家にたどり着くと、いつもと違う点に気が付きます。
ガレージに父の乗用車が停まっていたのです。
カーテンも多くが開いています。
そんなことだけで、足取りがほんの少しだけ軽くなるのを感じました。
扉を開けて「ただいま」と呼びかける声が、いつもより大きく家の中に響きます。
ですが、返事はありません。
廊下の先、部屋の奥から物音が聞こえ、姿を見せたのは焦ったような顔の父。
その後ろからついてくる、見知らぬ女性。
年齢は父と同じか、少し若い程度でしょうか。
……そういう、ことですか。
気持ちがすうっと冷めていくのを自覚します。
血圧は間違いなく下がっているでしょう。
繭墨家は、末期でした。
家庭内別居ならばまだしも、妻と娘の居ぬ間に女性を連れ込むだなんて。
「あ、ああ乙姫、帰ったのか」
「ええ、久しぶり、お父さん」
「その……、今の女性は」
「わたしのことは気にしないで、またすぐに出かけるから」
父の言い訳をさえぎって自分の部屋へ上がると、鞄の中身を入れ替えて、またすぐに家を出ました。
帰ってきた道を逆行しながら考えます。感情のままに飛び出てしまいましたが、いったいわたしはどこへ行けばいいのでしょうか。
母の居場所を頼ってみようと思い立ち、電話をかけます。
今回の件は家族会議ものの大問題です。その相談も兼ねての連絡でしたが、一向に電話はつながりません。
次に思い浮かべたのは曜子の家でしたが、すぐに選択肢から外します。
静かな縁側、蚊取り線香の匂い、風鈴の音――あの穏やかな家庭に、わたしが立ち入ることはためらわれました。
きっと曜子は笑って受け入れてくれるでしょう。
距離を取ってしまうのは、わたしの方。
今は彼女に甘えたくありません。
孤独だと感じました。
それは、わたしの好む静謐とは異なるもの。
人混みの中で自分だけが遠巻きにされているような、ガラスケースの孤独です。
この与えられた部屋から出たいと強く思います。ですが、子供の立場ではどこへも行けません。
……いえ、ひとつだけ、わたしの手が届く場所があります。
そこはとても魅力的で、同時にとても危険なところ。
私は迷いながらも、その鍵に指先で触れます。
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