第50話 人間関係は変化する
翌日の朝。
教室に現れた繭墨は、僕の席の横を通り過ぎつつ、ぞっとするような冷たい視線でこちらを見下ろしていった。
あの反応は、すでに百代から勉強会の話を聞いているのだろう。
余計なことはしないでください、とあの視線が物語っていた。
出会った頃の僕ならばひと睨みでおびえて縮こまっていただろう。
だけど今は違った。
過剰な反応をされると逆にノリノリになってしまう。
どうしてそんなピリピリしてるんだい? ただの勉強会じゃないか。意識しすぎなんじゃないかな? と
勉強会をするとして、席の配置はどうしようか。繭墨と直路を引き合わせるのが目的なのだから、そのあたりも考えないといけない。
向かい合わせだと顔がよく見えるが、距離がちょっと離れてしまう。
隣に並んで座った場合、顔は見えないが距離は近くなる。肩が触れ合ったりして、やだ、方程式よりも彼の体温の方が気になっちゃう、みたいなノリになってはいけない。名目上は勉強会なのだから。そんな難しい悩みを百代に持ちかけると、キョウ君ちょっとキモい、と一蹴された。
◆◇◆◇◆◇◆◇
休み時間になって、僕は着席している直路に声をかけた。
「直路、テスト勉強ははかどってる?」
「まあそこそこだ。よかったらノート貸してくれないか?」
「なら、いい話があるよ」
「金を取るってことか?」
「それは僕にとってはいい話かもね。実は放課後に勉強会をしようと思ってるんだけど、直路も一緒にどう?」
そう話を持ち掛けると、直路はしばし沈黙する。
「それって、百代と繭墨もってことか?」
「そう。久しぶりに4人でさ」
「……いや、やめとく」
と、直路は渋い顔で首を横に振った。
僕は少し面食らってしまう。断られることは想定していなかった。
というか、直路には断る理由がないと思っていた。
「どうして」
「実は先約があるんだ」
そう語る直路の口元は、抑えきれない喜びでだらしなくゆるんでいた。男子のそういう表情は積極的に見たいものではない。
「……誰」
恐る恐る尋ねる。
返ってきた名前は女の子のものだった。同じ2年の野球部マネージャーだという。
「それってつまり、付き合ってるってこと?」
「おお……、まあ、そうだな、そういうことになるな」
「へえ」
「あんまり言うなよ? あの二人までならいいが」
あの二人。繭墨と百代のことだ。
そこは誰にも言うなよと徹底してくれた方が、まだ気が楽だった。
しかし……、繭墨にどう説明すればいいのだろう。
僕も、繭墨も百代も、直路に付き合っている相手はいないと思い込んでいた。加えていつも成績に不安があるやつなので、勉強会をやろうと声をかければあっさり寄ってくると、そう思っていた。断られることは想定していなかったのだ。
人間関係は変化する。その、当たり前のことが頭から抜けていたのだ。
直路にとっての最優先は野球だった。しかし今は、それに加えて恋人という存在ができてしまった。僕たちは二の次なのだ。
もっとも、僕はただの男友達だから、まあうまくやれよというくらいの気持ちだし、百代だって新しい恋に進んだ昔の彼を、今さら惜しんだりはしないだろう。
問題は繭墨だ。
直路一筋だった繭墨は、直路に彼女ができたという現実を直視できるのだろうか。
「おい、どうしたキョウ、黙り込んで」
「いや、どっちから告ったの?」
「どうすんだそんなこと聞いて。恋バナとか憎悪してるだろお前」
「いやいや、僕だって多少は丸くなったよ」
「はぁん……」
と直路はにやにやと笑う。こちらはただ適当に話を合わせているだけなのだが、妙な意味に取られてしまったようだ。
そこから、僕は質問を続けた。
いつから付き合い始めたのか。彼女のことをどう思っているのか。どちらから告白したのか、彼女のどこが好きになったのか、などなど。
それらは僕が興味を持っているわけではなく、繭墨と百代に説明するための資料として、義務感からの質問であった。
男子のノロケ話を聞き続けるのはとてもしんどい。芸能レポーターはこんなことを仕事にしているのか。人の醜聞で飯を食う虚業だとバカにしていたが、これは大変な精神的重労働じゃないか。
質問の最後に、その子の顔が見たいと頼み込んだ。
友達のよしみ、クラスメイトのよしみ、野球少年のよしみなどを動員して、次の休み時間になんとか面会にこぎつけることができた。
結論から言うと、とてもいい子だった。
外見的には決して派手なタイプではないが、家庭的そうで、穏やかそうで、それでいて芯の強そうなしっかり者の雰囲気も兼ね備えている。
具体的には15人以上の大所帯での飲み会で、
もちろん僕の体験談ではない。長谷川さんからの伝聞だ。そういうさりげなさが、あとあと重要になってくるんだよ、と語る長谷川さんはそのとき相当にダウナーだったので、飲み会で何か嫌なことがあったのかもしれない。
ともあれ、直路の彼女を見て、なるほどと思う。
百代みたいにグイグイ来たり、突拍子もないことはしそうにない。
繭墨みたいに愛想がないこともないし、キツイことを言いそうにもない。
こういうタイプの子がいいのか、と僕は納得してしまったのだった。
――付き合ったらそれでハッピーエンド、なんて物語の中だけですから。
それは、いつか繭墨が言っていた言葉だ。
百代と直路が付き合っていたときも、繭墨はあきらめていなかった。実際、百代と直路はすぐに別れてしまったのだが、そのあとのチャンスに動けなかったのは、先走った告白での失敗が後を引いていたのかもしれない。
そうこうしているうちに、直路はまた別の女子と付き合い始めてしまった。
しかも話を聞いている限り、告白は直路の方からだったらしい。淡々とした口調だったが彼女のことをかなり気に入っているようだ。
二度目の失恋。しかも同じ相手となれば、繭墨の失意はどれほどだろう。
直路を振り向かせられなかった自分に対して絶望してしまうかもしれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
昼食を終えると、僕は友達と談笑していた百代に声をかけた。状況の大幅な変化に伴う作戦会議である。数分後には校庭のベンチで合流した。
「教室出るとき、友達に冷やかされちゃった」
「えっ……」
こちらが反応に困っていると、百代はさらりと流して隣に腰掛け、話を続ける。
「で、どうしたの? 教室で声かけるなんて。キョウ君ってそういう目立つことを避けまくってるイメージなのに」
「それくらいの緊急事態ってこと」
「緊急事態……?」
首をかしげる百代に、僕はゆっくりと話し始める。
直路に彼女ができたこと。それも直路の方から告白したこと。実際に彼女を見ての感想など。――そのうえで、当然ながら勉強会は中止という話も。
「はぁ~」
話を終えると、百代は気の抜けたため気をついた。
「それ絶対、ヒメには言わない方がいいよね」
「とりあえずテスト期間中は絶対に黙っとこう。ショックの大きさで勉強が手につかなくなるかもしれん」
「あ、でも勉強会を中止にする理由はどうするの?」
「野球部の赤点がやばい連中を集めた合同勉強会、みたいな話にしとけばいいんじゃないかな」
「そっか。うん、部活によってはホントに勉強会やってるところもあるしね」
部活内ルールとして、赤点が一定数以上の者は大会への出場を禁止する、という決まりを設けている部もあるらしい。
「でも……、あーあ、こんなの、単なるその場しのぎだよね」
百代が諦め混じりの声でつぶやく。
学校なんていう狭い社会の中のことだ。遅かれ早かれ絶対にバレてしまう。繭墨はただでさえ、人の心の機微には鼻が利く。おかげで僕は彼女の言葉によってしょっちゅうズタボロにされてきた。
……とまあ恨み言はさておき、好意を寄せる相手の変化ともなれば、さらに敏感にもなるだろう。
「でも、やれることは何もない」
「くっつける相手がいなくなっちゃったもんね」
何かと情緒不安定になる繭墨に落ち着いてもらうためにも――そして僕へのとばっちりを回避するためにも――、さっさと直路と付き合ってしまえばいい。
そのためのお膳立てとして勉強会を画策したのだが、その企ては1日と持たずに崩れてしまった。対象たる直路へのリサーチ不足が原因だ。
「とりあえず彼氏がほしいっていう軽めのノリじゃないからなぁ」
「進藤君っていう目的がはっきりしてたから、別の誰かをセッティングしても意味ないし」
「そんなことしたら、その別の誰かを腹いせにズタズタにしそうで怖いよ」
もちろん精神的に。
「……あたし、ヒメのことをこんな風に、その、痛ましく感じる日が来るとは思わなかったなぁ」
百代がぽつりぽつりと、言葉を選ぶような口ぶりで言う。
「どういうこと?」
「あたしにとってヒメって、ただの友達っていうより、もう一段上のね、尊敬してるみたいなところがあって。見た目がキレイで勉強もできて、スポーツはそれなりだけど……それ以外にも生徒会に入ってたり、色々しっかりしてるから、だから、どんなことにもつまずかないで、どんどん進んでいっちゃう、そういうイメージだったの」
「挫折知らずの天才って感じ?」
こくり、と百代は浮かない顔でうなずいた。
「でも、そうじゃないんだって、最近、わかってきちゃった」
「それは、幻滅?」
「ううん、ちょっとホッとしただけ。やっぱり思い込みだけで決めつけちゃダメだよね。鉄壁みたいなイメージだったけど、近づいてみたら、ちゃんと隙があったもん。それも、結構あちこちに」
「何それじっくりと聞きたいんですけど」
僕は身を乗り出した。さんざん繭墨に振り回され、攻撃を食らってきた身としては、今後の対策のために、ぜひとも知っておきたいところだ。
しかし、百代は笑って首を振った。
「それはダメ。あたしが見つけ出した攻略法だもん」
「残念。……まあでも、今いちばんわかりやすい隙は、さすがにそっとしておくしかないけど」
失恋という隙、あるいは傷と呼ばれるもの。それは時間が癒してくれるというのが一つの通説だ。
しかし、僕の言葉に対して、百代は静かな口調で問いかけてくる。
「ホントにそう思う?」
「え?」
百代はゆっくりと立ち上がる。
「あたしの方は、一人、当てがあるんだけどなぁ」
当てがある。
それは〝直路の代わりの誰か〟を意味しているのだろう。
繭墨の傷心を埋める、誰か。
その〝誰か〟の存在は、良いか悪いかで言えば、たぶん良い話のはずだ。
それなのに、百代は浮かない顔をしていた。
「キョウ君にはないの? 心当たり」
「いや……」
「そっか。あたし、先に教室に戻ってるね」
百代は踵を返して、少し足早に去っていった。
首筋に汗が浮かんできたのは、梅雨の晴れ間の、生ぬるい風のせい――
そんなのただの言い訳だと自覚できる程度には、僕だって鈍くはないつもりだ。
百代の言いたいことはわかる。
だけど、違うと突っぱねることも、そのとおりと
自分で自分がよくわからなかった。
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