第48話 だから積極的にいかないとね


 繭墨は僕のジャージを着たまま帰っていった。


「部活帰りということにすれば、人目についてもおかしくはないですから」


 そんな言い訳を口にしていたがどうでもよかった。


 繭墨の指摘は、僕の心を深くえぐった。


 千都世さんから距離を取ったのは、姉と弟という関係性のせいじゃない。

 もっと単純で平凡な理由。

 僕では千都世さんと釣り合わないことに気付いたから。


 思えば千都世さんは、実家にいたころから僕に対してそれなりに好意的で、ときにその親しさは姉弟間のそれを超えていると感じることもあった。


 だからこそ、怖くなったのかもしれない。

 自分は千都世さんの好意に釣り合わないのではないかという不安。

 それに気付いた千都世さんに、失望されてしまうのではないかという恐怖。


 僕は自分でも気づいていなかった――あるいは忘れていた――千都世さんへの引け目、劣等感を、今になってはっきりと意識していた。


 思い出したことはもう一つある。

 交際相手との釣り合いを気にしていたやつが、身近にいる。

 百代のことだ。


 以前の百代はいつも、自分が直路と釣り合っていないのではないかと不安がっていた。その悩みは最終的に別れの原因になり、別れた後も引きずっていた。


 そんな百代を見かねたどこかの誰かが、格好をつけて慰めの言葉をかけたりもしたのだが、しかし、その実、慰めの言葉を吐いた当人こそが、実家から逃げ出すほどに相手との釣り合いを気にしていたなんて。


 こんな人間の言葉には何の価値もない。なんの説得力も持たない。

 こんな人間自体にも価値はない。僕はダメ人間だ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「なんかダルそうな顔してる。どしたの?」


 内省に沈んでいると、百代が声をかけてきた。

 いつの間にか放課後になっていたらしい。教室内に残っている生徒は半分くらいにまで減っていた。


「僕もたまには落ち込むことくらいあるよ」

「ヒメとケンカでもした?」


 何の前触れもない問いかけは、当たらずとも遠からず。

 適当な返事でごまかすことも、平坦な表情を保つこともできなかった。


「あ、図星の顔してる」

「……なんでそう思ったの?」

「ヒメがいつもよりピリピリしてたから」

「それだけ? っていうか繭墨って常時ピリピリしてる気がするけど」

「あたしくらいになると、ヒメのちょっとした変化も見分けられちゃうの」

「へえ」


 百代は自慢げに口元を上げる。


「ちなみにね、いつものヒメは鞘に入った日本刀って感じだけど、今日は鞘から出した日本刀って感じだったよ」

「じゃあピリピリじゃなくてギラギラじゃないの」

「ギラギラでイライラだったかなぁ」

「それもう刃傷にんじょう沙汰だよね」

「カッとなってやりました。後悔はしていません」


 百代が繭墨の口調を真似して言う。


 言葉のナイフ、というのは陳腐な比喩かもしれないが、刃物に例えるしかないほどに、繭墨の言葉は鋭利だった。朝からずっと繭墨の言葉が頭の中でリフレインして、心の傷口を刺激している。実際の傷なら失血死しているレベルだ。


「それで、どうしてケンカしたの?」

「……いやいや、そんなんじゃないから。僕が勝手にダメージを受けてるだけで、お互いが険悪になってるわけじゃない」

「ホントに?」

「本当だよ。その証拠に、これから僕は生徒会室へ行くつもりだったし」

「ああ、クラスごとの意見書のことで?」

「うん。提出状況とか、内容とかも見てみたいし」

「あたしも行っていい?」

「さあ……、一応、僕はクラス委員長っていう建前があるから普通に入ってるけど。まあダメって言われたら帰るだけだけだし、いいんじゃない?」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「失礼します」


「はい、阿山君、今日はどうしましたか?」


「ちょっと例の意見書はどうなってるかなと」


「2年4組から提出がありました。ご覧になりますか?」


「ああ、それじゃあ。……やっぱり、重なってる意見があるね」


「すべての組が出そろったところで、重複した意見を集約し、どのクラスが発言権を得るか、話し合いかあるいは抽選で決めようと考えています。外れた組に不公平感が出ないよう、なるべく均等に割り振りたいとは思っていますが」


「そうか。何か厄介そうな提案とかは来てない?」


「実現不可能あるいは悪ふざけに類する要望は、ある程度の量が蓄積されたらプリントにまとめて各教室に配布、〝悪い見本〟として晒すことで、排除が可能です。本気の要望ならばなんらかのリアクションがあるでしょうし、軽い気持ちでのおふざけ・・・・なら自然消滅します。圧倒的に後者が多いでしょうが」


「なるほど……」


「ほかに何か?」


「いや」


「わざわざ様子を見に来ていただいて、ありがとうございます。ですが今後は放課後の貴重な時間を潰してまで来てもらわなくても結構ですよ、無関係の方に手間を取らせるのは心苦しいですから」


「あ、うん、そうだね、それじゃあ」


「はい、さようなら」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「やっぱりケンカしてるじゃん……」


 生徒会室から出た百代の第一声がそれだった。

 僕たちは並んで廊下を歩きながら、先ほどの繭墨の様子を振り返っていた。


「ヒメどしたの? 超そっけなかったよ?」


「僕も一瞬クラスメイトだってことを忘れそうになった」


「ツンデレってレベルじゃないよ……」


「感情の起伏が見られなかったね」


「どうしたのホントに。冷戦中って感じだったけど」


「冷戦と言えば、そろそろ期末テストだけど世界史の勉強はどう?」


「キョウ君……、びっくりするほど話を変えるの下手になってるね……」


 百代がいたわるような目をしつつ、強引な話題の切り替えに乗ってくれた。

 そのやさしさが心にしみます。


「あたしこれでも最近はそこそこ勉強してるんだよ?」


「授業中に当てられても、あんまり慌てなくなったよね」


「そりゃあもう、がんばってますから」


 百代は大きな胸を張ったあと、うつむいて「見てくれてるんだ……」と小声でつぶやく。僕はそれを聞こえないふりをする。


「いいことだと思うよ」

「あたしの周りって勉強できる人が多いから、自分も頑張らなきゃって思うの」


 と、百代は苦笑しつつ、勉強に励む動機を口にする。


「そうか……、まあ、動機なんて結果に比べたら大して重要じゃないよ」


「そんなことないよぉ、動機って、最初の一歩を踏み出すためのエネルギーじゃん。だから、強い動機がないと結果までたどり着けないと思うなぁ」


 思いもよらない百代の主張に、僕はふと足を止める。

 一理あると思った。


「そう、だね。そうかもしれない」


「あたしの動機はやっぱりね、あたしのまわりの勉強できる人たちに、ちょっとでも近づきたい、釣り合うようになりたいっていう、ちょっとピュアじゃない感じなんだけど」


 釣り合うようになりたい。

 その意識が高じて、百代はやりすぎてしまい、直路と別れることになったわけだが、それを気にすることはないのだろうか。


「……ねえ、ちょっと変なことを聞くけど」

「はいなんでしょう」


 百代はあざと可愛い仕草で首をかしげる。


「付き合ってる相手と自分とが釣り合ってないって思うとき、百代ならどうする?」


 百代の表情がはっきりと曇った。

 が、あまり深刻にならないように、ぷくりと頬を膨らませる。


「ホントに変なこと聞いてくるとは思わなかった。っていうか、失礼なこと」


「……ごめん。忘れて」


「ううん、答えたげる。その代わり、何か要求するかも」


「わかったよ」


 僕はうなずいた。これは対価を決めて交渉成立、というより、不躾な質問をしてしまったことへの謝罪の気持ちもある。


 百代の言うとおり失礼極まりない質問だった。


 昨日、繭墨から心をめった刺しにされたせいで、相手を思いやる気持ちがマヒしているのだろうか。


 いや、他人のせいにするのはよくないな。

 僕が迂闊だっただけだ。


「そうねぇ……」


 と、百代は視線をさまよわせる。言葉を探すように、過去を思い返すように。


「あたしは、だいたいはキョウ君も知ってると思うけど、進藤君と付き合ってたときは、おかしな方向に積極的になってたから」


 そこまでは知っている。僕が気になっているのは、それ以降のことだ。

 百代は直路と別れてしまったあと、その間違った積極性を悔いて、どうすればよかったと思っているのか。


 要するに――、百代の後悔と反省と、次への展望を知りたかった。


「今思えば、やっぱり空回りしてたんだよねぇ」


 百代が弱々しく笑う。


「お付き合いって自分だけじゃできないのに、進藤君とちゃんと話をしなかったのがダメだったのかも。あたしのどこが好きかとか、彼女でいていいの? とか、重いと思われるから怖くて聞けなかったけど……、でも、そういうことをちゃんと話さないと、手をつないでても、ちょっとずつ歩調がずれていくんじゃないかな」


 百代は再び歩き始め、僕はその後についていく。


 ――手をつないでいても、少しずつ歩調がずれていく。


 それは、恋人同士になることが二人の関係を保証するわけではないと、そう語っているように聞こえた。


「必死で手を伸ばして、離さないように、って指先だけでつながってる状況は、ドラマのピンチのシーンみたいでそれなりにグッとくるけど、そんなギリギリの演出、あたしはいらないかなぁ。歩くの早いからちょっと待ってって、こまめに声をかけるだけでいいと思うの」


 ドラマティックな恋愛を、意外にも百代は敬遠しているらしい。

 恋愛は日常の延長――それが百代の恋愛観なのではないかと、なんとなく思う。


「確かに、ピンチのあとにチャンスあり、なんてわかりやすいものじゃないからね。チャンスは気が付いたら手が届かない場所へ遠ざかってるし、ピンチはもう手の打ちようがない距離に来てやっと自覚したりするし」


「そうそう。だから積極的にいかないとね。――で、あたしからのお願いなんだけど」


 百代は、歩きながら肩ごしに振り返り、イタズラっぽく笑う。

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