第47話 釣り合い
シャワーを浴びて風呂場から出てきた繭墨が、冷たい視線で見つめてくる。
「用意がいいんですね」
その手には女性用下着の外袋を持っている。雨で全身が濡れてしまっていた繭墨のために、僕がコンビニまでひとっ走りして買ってきたのだ。
しかし、繭墨は妙な誤解をしているらしい。
「やはりひとり暮らしともなると、行きずりの女性を部屋に連れ込む機会があるということですか。意外と隅に置けませんね」
「いや今買ってきたやつだから、ほらレシートもあるし」
僕はこうなることを想定して捨てずにいたレシートを差し出すが、繭墨は手の甲でそれを叩き落とす。
「一応、お礼を言っておきます。ありがとうございました。ところで、なぜショーツだけなのですか?」
「それは……」
僕は押し黙り、自問自答する。
問:なぜブラジャーを買わなかったのか。
答:繭墨にそれが必要だという発想がなかった。
まともに答えたら血を見てしまう。
「あ、ああ……、サイズが分からなくて」
「そうですか。ちなみに、コンビニではショーツや靴下を販売していますが、ブラジャーは置いていませんよ」
かくして、繭墨は僕が買ってきた下着をはき、僕がふだん着ている学校指定ジャージの上下を着用して、ベッドの端に腰かけている。
ジャージのサイズは繭墨には大きいため、
サイズの大きい服を着た女子のだらしなさというのは良いものだ。特に繭墨のような、普段は隙のない子のだらしない姿は非常にレアで、いわゆるギャップ萌えの手本のような格好である。
しかし、あまりじろじろ見ないように、僕は手作業に集中する。雨に濡れて身体が冷えた繭墨に、コーヒーを淹れてやるのだ。
それなりに上手に淹れられたという自負を持って、コーヒーカップを繭墨に手渡す。僕は彼女から少し離れて、パソコンデスクのチェアに腰かけた。
ほぼ同時にコーヒーカップを傾けると、
「……豆を変えましたか?」
繭墨が一口すすってからそう尋ねてくる。
「スーパーに置いてあるやつだけでも種類が多いから、棚の端から試していって、今のところ、僕の口にはこれがいちばん合ってるかなって。繭墨はやっぱりコーヒー豆専門店みたいなところで買ったりするの?」
「いえ、そこまでの拘りはありませんが……、強いて言えば、一杯ごとに豆を挽くようにしています」
「面倒じゃない?」
「それなりには。ですが、多種多様な豆、ブレンド、好みの味、飲み方が存在するコーヒーにおける唯一の真理は、挽きたてが一番おいしい、ということです。粉は楽でいいですが、開封してからしばらくすると、鮮度が落ちてしまいます。冷蔵庫に入れていても限度があるでしょう?」
「まあ、それは確かに」
「それはともかく、コーヒーの香りというのは落ち着きますね」
繭墨はカップを顔に近づけて、香りを嗅ぎながらつぶやく。
あれだけ頑なだった繭墨の表情が、コーヒー一杯であっさりほぐれてしまった。鋭い目つきは変わらないものの、雰囲気の張りつめ方がまるで違う。何があったのかは知らないが、落ち着いてくれたのはいいことだ。
――いや、しまった、よくない。
話がある、と繭墨は言っていた。雨に濡れながら僕を待つほどに、その話は重要なのだろう。彼女のピリピリした態度から察するに、
そんな恐ろしい話を携えてきた繭墨を冷静にさせてしまうだなんて、何をやっているんだ僕は。もっと動揺させておけばよかったのに。
まだ湯気の立つコーヒーカップをテーブルに置いて、繭墨がこちらを見据える。
静謐で平坦な、いつもの表情に戻っている。
「コーヒー、ごちそうさまでした。では本題に入りましょうか」
「本題?」
「生徒会に提出してもらった意見書についてです。あれは阿山君が主導してクラスメイトから意見を募り、まとめたそうですね」
繭墨の話は、こちらの思ったとおりの内容だった。
カマをかけているのとは違う。クラスメイトか誰かから事実を聞いたのだろう。となると、はぐらかすのは無理そうだ。
「その方がスムーズだと思ったからね」
「生徒総会の進行を、気にしてくれたのですか?」
「総会をやってる途中で意見を求めるよりも、あらかじめ各クラスから意見を集めておいて、それに対する返事をじっくり考えてから、総会で発表する形にした方が、混乱が少ないじゃないか」
「それは阿山君の考えでしょう。余計なことはしないでください。生徒会としての予定が狂います」
繭墨は切り捨てるが、それはいつもの、ぐうの音も出ない正論による否定ではなかった。不条理な感情論。
「それは嘘だよ。ちゃんと意見がまとまって届くなら、作業が楽になることはあっても、煩雑になるはずがない」
繭墨のやり方では、生徒総会はおそらく混乱する。それを予定どおりと言い張るのなら、つまり最初から総会の混乱は織り込み済みということになる。……いや、むしろそれを狙っているかのような。
「こちらにも都合がありますので。阿山君は、わたしの演説を誤解をする人がいるかもしれないと言っていたそうですが、余計なお世話です」
繭墨は眼鏡の位置を直しつつ、目を細めてこちらを見据えてくる。その迷惑そうな表情に、ある種の予感が確信に変わった。
「……やっぱり、わざとだった?」
もともと退屈なイベントである生徒総会をトラブルなく終わらせるよりも、発生したトラブルを見事に収める方が、明らかにインパクトが強い。
繭墨乙姫はただの生徒会長ではなく、優秀な生徒会長として、生徒たちに記憶されるだろう。
それは目立つことを好まない繭墨らしからぬやり方だと思う。彼女の価値観では、有名というのは決して良い状態ではないはずなのだ。
だから、彼女の狙いは別にある。
誰も気づいていないだろう。
百代ですら、繭墨の心の内を理解できていない。
繭墨乙姫の劣等感を知っているのは僕だけだ。
思い浮かぶのは、わが校における有名人。
強豪校も一目置く、野球部のエースピッチャー。
その相手にふさわしい知名度と能力を、繭墨は示そうとしている。
「――そうまでして、直路と対等になりたいの?」
はっきりその名前を出して問いかけると、明らかな反応があった。
あの繭墨が僕から目を逸らしたのだ。
ほんの少し、眼球を動かしただけ。そんな些細な動作であっても、彼女にとっては逃げに等しいリアクションだった。
鳥肌が立つのを感じる。それはもちろん雨に濡れた肌寒さのせいじゃない。たぶん僕は、繭墨を追い詰めていることに興奮しているのだ。
「……だったら、どうだというのですか」
感情を抑えた低い声と、敵意を乗せた鋭い視線。
「無理して演出しなくても、普通に生徒会をやればいいんだよ。今までと違って生徒が自発的に意見を出してるんだから、それで十分じゃないか」
「それは阿山君のお手柄でしょう。あなたのお膳立てに乗るなんてお断りです」
「利用すりゃいいって言ってるんだよ。ちょっと
「それでも多くの女子にとっては特別視してしまう人です。……わたしだって」
繭墨はうつむいて、か細いつぶやきをこぼす。
告白の失敗からずいぶん経つが、まだ引きずっているのだろうか。
不安になる気持ちはわからないでもないが、今はあいつもフリーなんだから、思い切って打ち明けたら、案外うまく行くのではないか。そうアドバイスしようとして、気づいてしまった。
「――まさか、直路の方から告白してくるように仕向けるつもり? もうフラれたくないから誰もが認めるデキる女子になっぶ」
顔面に飛来した枕によって言葉が遮られる。
枕によって閉ざされた視界は、すぐに明転。
「ええそうですよ!」
繭墨の顔は真っ赤になっていた。告白直後の保健室でも、ここまでの赤面っぷりではなかったと思う。
「柄にもない向上心、自分磨き、どれも進藤君を振り向かせたいなんていうバカげた目的でやっていることです。笑いたければ笑ってください」
そこで怒気が抜けたのか、繭墨は数秒ほど沈黙し、そしてため息をつく。
ベッドの上で膝を抱えて顔をうずめた。
「……さすがに、あのプランは、取りやめることにします。あなたの言うとおり、面倒ごとが多くなるし、周りに迷惑がかかるのは、本意ではないですから……」
「それに、周りに迷惑をかける繭墨を、直路が好意的に見るわけがないしね」
繭墨は顔を上げた。すごい目で睨まれた。
反論とばかりに、絞り出すような声で言う。
「……自分に自信が持てないという心理は、恋愛関係において致命的な亀裂になります。阿山君だってよくご存じでしょう」
思わぬ反撃を受ける。
今までにない危機感、恐怖感があった。
なぜって、繭墨が言う「よくご存じでしょう」が僕にはまだ思い当たらないのだ。
狙いがわからなければガードができない。
無防備な精神に受ける傷は深くなる。だから焦る。
繭墨は続ける。
「阿山君は、千都世さんのことが好きだったのに、進学のための引越しというかたちで距離を置きましたね。義理とはいえ、姉弟の間でそういう感情を抱くことは良くないから――ですが、それは本当の理由ではありませんね」
僕は何も言わない。
繭墨は続ける。
「義理の姉弟という特殊な関係でなくとも、人間関係に常に付きまとう平凡な問題。
自分と千都世さんの差について、意識したことがありますよね。能力、容姿、年齢……、阿山君みたいな人が、それらを考えないはずがありませんから。
倫理的な問題ではなく、それ以前の理性的な判断です。
自分では千都世さんとは釣り合わない。
自分は千都世さんにはふさわしくない。
そうやって諦めてしまったのではありませんか?」
僕は何も言えない。
繭墨は続ける。
「家族に迷惑がかかるというのは言い訳にすぎません。とはいえ、理屈は通っていますし、他人を気づかい自分を
立て続けの挑発に、僕は思わず立ち上がっていた。
繭墨がわずかに肩を震わせる。
その怯えたような反応で、少しだけ冷静になることができた。
立ち上がってどうするつもりだ僕は。相手は女の子だ。ひどい暴論で正確に急所を狙ってくるハードパンチャーだが、繭墨は女の子なのだ。
だから、そういう相手と打ち合うには、手ではなく言葉を繰り出すしかない。
「――僕は繭墨の鋭さが最高に
「奇遇ですね。わたしもあなたの
そこから僕たちは、コーヒーが冷めるまでずっとにらみ合っていた。
子供じみた思考だが、目を逸らしたら負けだと思った。
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