第46話 わたしの制服に触らないでください

 バイト先のスーパー『ラッキーマート』は、駐車場が狭いので、徒歩または自転車でご来店されるお客様が多い。そのため、雨の日は必然的に来客数が減ってしまい、バイトの業務はちょっと退屈になる。


 基本的な仕事は早々に終わってしまったので、店内の清掃作業やら備品整理などをして時間を潰し、定時になった瞬間にタイムカードを通して外に出た。


「まだ雨は降っているようだね」


 副店長の長谷川さんが戸口から顔を出す。


「梅雨の雨って感じですね。強くも弱くもないけど、ずっと降り続くような」


「週に1回くらいこういう日があると、私も残業が減っていいんだけれど、毎日となるとそれはそれでまた憂鬱ゆううつになるね」


 長谷川さんは苦笑いを浮かべつつ鈍色にびいろの空を見上げ、


「君は家が近いけれど、帰り道は気を付けなさい。路面が濡れて滑りやすいし、自動車の側も運転をミスしやすいから」


「はい、気を付けます。おつかれさまでした」


「うん、おつかれ――」


 長谷川さんの言葉が不自然に途切れた。

 どうしたのかと振り返り、そして長谷川さんの視線を辿ると、


「え? ……繭墨?」


 電柱の陰に、ついさっき生徒会室で会った繭墨が立っていた。


 真っ黒な色の傘をさして雨の中に立ちすくんでいる様子は、薄暗いこともあって割と恐怖を誘う。なんのつもりかはわからないが、僕を待っていたのは確かだろう。


「何やってるのさ、連絡をくれれば――」


 近づいてその様子を見るにつけ、僕は絶句してしまう。

 繭墨が濡れ鼠になっていた。


 長い黒髪からは水が滴り、メガネのレンズにも水滴が付着している。制服は水にぬれて、スカートは水を吸っているせいかいつもの黒よりも黒く重く見える。


「どうしたの、その格好……」


「トラックにはねられました。雨水を」


「あ、ああ……」怖いよその倒置法。「もしかして、それで待ってたの? うちの部屋ならタオルならあるし、シャワーとかも」


「いいえ、阿山君にお話があります。この有様はわたしの不注意の結果であって、ここへ来た理由ではありません」


 と繭墨は首を振った。

 表情や口調から、彼女はなかなか気難しい状態にあるようだと察する。


 鉱物の堅さを測るモース硬度ならぬ、繭墨の精神的頑なさを測るマユズミ硬度によると、この状態は10段階中ですでに6を超えている。これはあくまでも現時点での指数である。マユズミ硬度はなんの対策も打たない場合、時間の経過とともに上昇する傾向がある。


「いや、そうは言っても、まず服を乾かさないと。せめて身体を拭くとか……、なんなら洗濯機も貸すよ。変なことはしないから」


 言ってから、これは余計な一言だったな、と思う。

 案の定、繭墨の視線が鋭さを増した。マユズミ硬度7へ上昇。


「お世話になるつもりはありません。すぐに済む話です」


「でも繭墨の家ってけっこう遠いじゃないか。そんな濡れ鼠の状態で公共交通機関に乗せるのは、さすがに忍びないよ」


「忍んでください。構わないでください。ほんの数分で終わりますから――」


 強気ながらも、どこか切羽詰まった様子。こんな繭墨は珍しい。ときどき、早口でまくし立ててくることはあるが、それは彼女が焦っているのではなく、こちらを慌てさせてコトを有利に運ぼうとしているか、あるいはこちらの慌てるさまを見て楽しんでいるかのどちらかだ。


 しかし、今日のこれは違う。繭墨には余裕がない。下着まで水が染みてきてつらいとか、そういう理由だろうか。違うだろうな。


「お断りだ」


 と僕は言った。繭墨はぽかんと口を開ける。おお、こういう反応が返ってくるなら、強硬な言葉を使うのも楽しいものだな、と実感。


「まずはその格好をどうにかするのが先決だから。じゃないと話は聞かない」


「な……」


「そっちは大したことないって思ってるみたいだけど、その格好は、はっきり言って、だいぶヤバいよ」


「で、ですが……」


 まだためらっている繭墨の手首をつかんで、強引に引っ張っていく。


 後方で「マタチガウオンナノコヲ」という長谷川さんの声がしたが、聞こえないふりをした。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 アパートへ向かうあいだ、ずっと無言だった。


 とても気まずかったが、それでも沈黙を貫いたのは自制のためだ。

 口を開くと繭墨の状況について余計なことをしゃべってしまいそうだった。


 なにしろ繭墨は今、雨に濡れているのだ。


 長い黒髪は湯上りのようにしっとりと濡れている。

 濡れた夏服が身体に張り付き、白い肌や下着の肩ひもが透けて見える。

 重力に耐えきれずに肌を流れ落ちていく水滴の行方を、目で追ってしまう。

 

 全身が水に濡れた姿は、弱々しさを感じ、哀れを誘う。

 繭墨乙姫のことを可哀想と感じるのは非常にレアで、この感情をどう扱えばいいのかわからず混乱していた。


 こんな風に意識してしまうのは、数日前に赤木から『濡れ透け』なるフェティシズムについて滔々とうとうと語られたせいだろう。


 そのときは知ったこっちゃないと思っていたが、いざ現物を目の前にすると、はっきり言って、だいぶヤバい。繭墨への忠告は言葉足らずだったかもしれないが、それはあまり詳細にこのヤバさを説明すると、繭墨の視線がどんどん鋭く冷たくなっていくのがわかり切っていたからだ。マユズミ硬度は9に迫っていただろう。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 繭墨を玄関で待たせてバスタオルを持ってくる。

 差し出したバスタオルを、繭墨は素直に受け取ってくれた。


 髪や肌を拭いている姿をじろじろ見るのはよろしくないと思い、先に中に入っておく。手持無沙汰は室内の片づけをして紛らわせた。

 その途中、ふと気づいて尋ねてみる。


「……あのさ、もしかして、誰か家の人が迎えに来ることになってたりした?」


 反応がなかったので振り返ると、繭墨は、しまった、という顔をしていた。


 僕の施しを受けるのを嫌がっていた割に、こんな簡単な言い訳を思いつかなかったなんて、本当に、精神的に余裕がないらしい。


 そもそも、車の水はねは注意していれば回避できるものだ。深い水たまりをタイヤが踏みそうなら、歩くペースを落とせばいい。後ろからの車だって音でわかる。


 注意力も散漫になっていたのなら、濡れ鼠になる前から――つまり学校を出るときからすでに余裕がなかったということだ。生徒会室で顔を見たときには、そんな様子はなかったはずだけど。


「……阿山君」


「何?」


「あの、すいません……、やっぱり、シャワーを、貸してください」


「――違う」


 僕は反射的につぶやいていた。


〝シャワーを貸してください〟。


 それは一人暮らしを始めるにあたって妄想した、女の子から言われたい台詞ランキングの中でもトップ3にランクインしている一言である。


 しかし、繭墨のそれには色気が皆無だった。


 まっすぐにこちらを睨みながら、淡々と命令するように言うのだ。ピンと張り詰めたような雰囲気の中で、恥じらいに頬を染めることもない。裏切られたと思った。


「阿山君? 何が違うんですか?」


「あ、いや、何でもないよ。こっちは最初からそのつもりだったし。自由に使ってよ。お湯が出るのがちょっと遅いから、それだけ気を付けて」


「はい」


「ちなみに着替えなんて持ってないよね」


「はい」


「家の人を呼ぶ?」


「それは……、今日は、両親は遅いので」


 繭墨はためらいがちにそう言った。本当かどうかはわからない。もしかしたら、ここに両親を呼べば間違いなく誤解される、という防衛本能が働いたのかもしれない。


「そっか」


 だが、繭墨の着衣は〝湿っている〟というレベルをはるかに超えている。スカートの端からぽたぽたと水が滴っているし、脱水直後の洗濯物の方がまだ着られるだろう。放っておいてすぐ乾くものではない。そして、我が家の洗濯機に乾燥機能はついていない。


「なんとかアイロンだけでも試してみようか」


「わたしの制服に触らないでください」


「アッハイ」


 本日のマユズミ硬度10が確定した瞬間だった。

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