第41話 「陳腐すぎる」「まったくだ」
「大丈夫ですよ、千都世さん。この猫はわたしの家で預かりますから」
繭墨がそう宣言し、百代を連れて部屋を辞すると、いやな沈黙が室内に流れた。
その雰囲気の出どころは、もちろん千都世さんだ。
猫が苦手ゆえの
さらに言えば、年下の女子二人の前でみっともないところを見せてしまったという
いったいどうしてこんなことになってしまったのかというと、百代が猫を預かると言い出したせいであり、僕がそれを引き受けたせいでもあり、千都世さんがアポイントなしでやってきたせいでもある。
だけど、何が悪いのかと追及するなら、運が悪かったとしか言いようがない。
つまり、深く考えるだけ無駄。
気の利いたフォローの言葉をひねり出すよりも、場所を変える方が簡単だ。
そろそろ夕飯どきだし、買い物へ行こう、と強引に外へ連れ出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ふーん、やっぱ
行き先はバイト先でもある近所のスーパー〝ラッキーマート〟。
千都世さんは初めて来る店のはずだけど、店内を回る足取りにも、商品をかごに入れる手つきにも迷いはない。
中学生のころから母親の代わりに家事全般を取り仕切っていた千都世さんにとって、スーパーマーケットという場所は勝手知ったる庭のようなもの。店の構造が少々違っても問題ないのだろう。
少しずつ、いつもの調子が戻ってきている。横から見ていてそう感じた。
「バターはまだある? ケチャップは? 小麦粉……、なんて常備してないよな」
食材をかごに入れつつ、調味料の残量を確認をしていくあたり、千都世さんはすでに作る料理をイメージしているのだろう。僕のように肉野菜炒め一択ではない、これが
「いらっしゃいませ」
遠くからあいさつの声が聞こえてきた。
長谷川さんが客に声をかけながら店内の見回りをしているのだ。
やがて僕に気付いたようで、こちらへ近づいてくる。
「やあ阿山君。夕飯の買い物かな?」
「お疲れ様です長谷川さん。まあ、そんなところ――」
という雑談は千都世さんの呼びかけに遮られる。
「おい鏡一朗、だし汁は――、ってあれ、知り合い?」
「うん、副店長の長谷川さん」
「コノマエノコトチガウ」
長谷川さんが古いロボットみたいなカタコトのつぶやきを発する。
どうしたんだろう。心なしか表情も平坦な気がする。
僕の紹介に、千都世さんはにこりと笑って一歩前に出る。
一瞬で
「ああ……、そうでしたか。どうも初めまして、わたし、鏡一朗の姉です」
「トッカエヒッカエ……え? ああ、お姉さんでしたか」
「はい。鏡一朗がお世話になっています」
「いえいえ、まだ若いのにとてもしっかりしていて、こちらも助かっています」
「そうですか? この子は昔っから愛想がよくなくて、接客業が務まるのかと心配していたんですけど」
「大丈夫ですよ、最初は確かに不慣れでしたが、着実に成長して――」
何このやり取り。三者面談?
僕はいたたまれなくなって、その場からこっそりと立ち去るのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の夕食は豪勢の一言だった。
ビーフストロガノフと鮭のムニエル、
そして、好物のだし巻き卵。僕は今まで千都世さんの作ったもの以上においしいだし巻き卵を食べたことがない。隠し味に何か秘密があるらしいが、いくら食べてもわからないし、いくら聞いても教えてくれなかった。
「ごちそうさま」
「はいお粗末さま」
食事を終えると千都世さんはさっさと食器を流しに運び、洗いにかかる。
時間を置くと汚れが取れにくくなる、というのが千都世さんの主張だった。
実家にいるときはせっかちだと思っていたけれど、洗い物を自分でやるようになって、千都世さんの正しさを実感した。せめて食器洗いくらい手伝っておけばよかったと後悔したものだ。
水音と、食器どうしが触れる音を聞きながら、僕は文庫本を眺めていた。
文章を目で追ってはいるものの、内容は頭に入ってこない。
話すことがないわけではない。
ただ、口を開けばやがて、面倒な話に行きついてしまいそうで
気まずい沈黙、というほどのものでもない。
実家にいた頃だって、しょっちゅう会話があったわけではないのだ。家族の団らんの時間よりも、自分の部屋にこもっている時間の方がはるかに長かった。子持ち同士の再婚夫婦とはいえ、そのあたりは普通の家庭との違いはないだろう。
やがて、洗い物を終えた千都世さんが、僕の隣に座った。
ベッドを椅子に、壁を背もたれにして、二人並んで足を延ばしている状態だ。
「アンタさ、あの二人のどちらかと、なんか進展あったの?」
さっそく来た。
「……別に、何もないよ。多少親しくなったとは思うけど、友達の
「そう。ま、アンタはそう答えるだろうね。でもあの二人はどうだろうな?」
「
断言すると、千都世さんがこちらを向いた。
僕は顔を合わせない。嘘に気付かれないように。
「二人とも、好きなやつがいるんだ」
「……へえ」
「僕の友達で、野球部なんだけど、これがまた将来有望なやつでさ、たぶん甲子園とか行けるレベル」
「そうかぁ、まあ女は才能ってやつに弱いからなぁ」
「千都世さんも?」
「一般論だよ。男は相手の性別に関係なく、才能があるやつには嫉妬するだろ? 女は割とその辺り割り切ってて、ついて行こうとするっていうか、乗っかるっていうか、面倒見てもらおうっていう方向へ考えることがあるから」
「ふぅん……」
僕にはまだよくわからない世界の話だ。
「女性の社会進出が言われてずいぶん経つけどな、したい人や、したくない人、したくないけど金銭的にきついから仕方なくしてる人、いろいろ事情があるってこと――って、ちょっと脱線したか」
千都世さんが苦笑する。たぶん、千都世さんを女手一つで育ててくれたお母さんのことを意識しての言葉だったのだろうと思う。
「そう、あの二人、ヨーコちゃんとオトヒメちゃんの話だよ」
千都世さんは強引に話を戻してしまう。そのまま脱線し続けて、昨今の社会情勢の話を延々と語らっても、僕は一向にかまわなかったのに。
「別に、言ったとおりだよ。僕の友達を好きだから、相談を持ち掛けられることもあるの」
「いつの間にか恋する相手ではなく、親身に相談に乗ってくれる彼のことを意識し始めるヨーコ。あたし、もしかしてキョウ君のこと――」
「
「まったくだ」
千都世さんがカラカラと笑う。
「僕のことより、千都世さんはどうなのさ」
「あぁ? アタシか? そうだなぁ、アタシはこれでもモテるからなぁ」
それはもう知っている。
実家にいた頃は、千都世さんの同級生から幾度となく声を掛けられたものだ。
少々の物品と引き換えに、ちょっとした個人情報を提供していたことは秘密だ。
「でも、高校の頃は浮いた話とか一切なかったじゃないか」
「あー、んー、そうだなぁ、まあちょっと、気が乗らなかったというか」
「やっぱり、家事が忙しくて?」
「いや違う、そうじゃない。お母さんもそういうことは気にするなって言ってくれたし、アタシだって、本気でいいなって思う人がいりゃ、そっちを優先したよ」
本気でいいなって思う人。
千都世さんの口からそんな言葉が出るだけで、ひどく動揺する。
「……じゃあなんで」
「なんだよ、やけに食いついてくるな……」
千都世さんが顔をしかめる。
確かにそうだ。
千都世さんの異性関係について、本人に直接聞いたのは、初めてかもしれない。
これまで尋ねることをしなかった理由なら、自覚している。
千都世さんは男子からひっきりなしに声がかかる人気者で、対する僕はただの弟という立場である。相手にされるわけがないという劣等感が、聞いてもみじめになるだけだという諦めになっていたのだ。
だけど、今になって尋ねた理由は、よくわからない。
距離と時間を置いて、千都世さんのことが吹っ切れたのだろうか。
それとも、何か別の、紛らわせてくれるものができたのだろうか。
長い沈黙を置いて、千都世さんが口を開く。
「再婚して姓が変わって、そのとき、同級生から言われたことがあるんだよ」
「なんて」
「――弟に変なことされてねーか?」
頭に血が上る感覚。
「ああ、そういう……」
「あと、一つ屋根の下に男子がいるってどんな感じ? みたいなのもあったな。とにかく、そういう言葉のせいで、なんか一気に冷めちまったんだよ。同級生の男子がみんなガキにしか思えなくなった。向こうからすれば、そんな深く考えていったわけじゃないんだろうけど……、だからこそ、かな。たぶん、失望に近い気持ちになった。ああ、こいつらには理解されないんだろうなって」
隣を見ると、千都世さんはどこか遠くを見るような表情をして、僕が贈ったネックレスを指先でもてあそんでいた。
きれいだけど透明な表情。
そんな表情をさせたことを、申し訳ないと思う。
だって僕は、そのクラスメイト達の想像どおりの感情を抱いていたのだから。
僕も千都世さんも、気の早い梅雨のようにジメジメだった。
ああ、駄目だ。この湿っぽさはよくない。
「でもさ、大学に入ってからは高校みたいにチヤホヤされてないんじゃない?」
と、僕は意識して能天気な声で言う。
「んだって?」
千都世さんはケンカ腰の口調になる。
「だってほら、華のゴールデンウイークにこんなところにいるくらいだし」
「この……、まだまだ引く手あまただっての。大手企業に就職決まってる先輩とか、イケメンの同級生とか、金持ちの新入生とか、そういうのを振り切って来てやってる優しいお義姉さんに向かって、なかなかナマイキなことを言うじゃねーか」
千都世さんは右手をわきわきと開閉しつつ、僕の方へと近づけてくる。
気づいたときには頭をつかまれていた。
僕の頭髪はもみくちゃにされ、首がゴキゴキと変な音を立て鳴った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その朝の寝起きはすがすがしいものだった。
千都世さんと同じ部屋だというのに、思っていたよりもずっとよく眠れたのだ。フローリングにマットレスを敷いただけの寝床で背中が少し痛かったけれど、そんな違和感は些細なものだ。
これはいい傾向なんだろうか。
先に起きた千都世さんがエプロン姿で台所に立っている。
漂ってくる匂いでみそ汁を作っているのが分かった。
一人暮らしを始めてから、みそ汁を自作したことはなかった。朝は忙しくて料理をする時間がないので、ずっとインスタントで済ませていた。
朝食の準備を全部任せて、寝起きのまどろみの中でぼんやりするというのは久しぶりの感覚だった。
僕の場合、自炊は必要に駆られてのもので、趣味的要素はほとんどない。常にやってくれる人がいれば、すべてお任せしてしまいたいくらいだ。……ってこれはたぶん独身ダメ男の発想なんだろうな。
朝食を食べて後片付けをし、ニュースを見ながらだらだらと過ごす。
そして、10時を回ったあたりで千都世さんが荷物を持って立ち上がった。
明らかに帰り支度だった。
玄関先へ見送りに出る。
「もう帰るの?」
「アタシはこれでも色々と忙しいんだよ」
「引く手あまたで?」
「あァ?」
「ごめんなさい」
千都世さんは眉を寄せていた表情を緩める。
「まあ、思うところあってな。有利な立場を利用してるみたいでフェアじゃないっていう気持ちもあるし、これ以上進んだら迷惑をかけちまう人もいるし……」
珍しく、歯切れの悪い物言いをする千都世さん。ネックレスをもてあそび、視線も微妙に合わせようとしない。
「なんの話?」
「アタシらしくないって自覚はあるけど、そういう
「つまり?」
「つまり、」
千都世さんの右手が動いて僕の頭をつかむ。
何度となく繰り返されてきた、乱暴なスキンシップ。
それが少し違う動きを見せた。
千都世さんの方に強く引っ張られ、僕はバランスを崩す。
さすがに倒れることはなったけれど、あわやというところだ。相変わらずの乱暴さに文句の一つでも言ってやろうかと顔を上げると、その口がふさがれた。
千都世さんの唇だ、と気づいたのは後になってからで、その瞬間は口元のやわらかさや、顔の近さや、お互い目を開けたまま至近距離で見つめあっている状況、瞳の中に合わせ鏡のように僕の顔が見えること、肌の白さ、密着している部分の熱、そういった感触と感覚だけが頭の中を巡っていた。
感情、つまり精神的なもの、気持ち、といった類のものは、ずっと後から――それこそ千都世さんがいなくなってから――遅れてやってきた。栓が抜けたみたいに漏れ出し続けて、何も手につかなかった。
千都世さんの唇がいつ離れたのかすら、よくわからない有様だった。
そうだ、掃除をしようと思い立って粘着テープを転がし、猫の毛を取り除いていく。その粘着テープの中に、猫の毛とも自分の短い髪の毛とも違う、長い長い黒髪を見つけて、たぶんそれがきっかけだったと思うけれど、繭墨に電話を掛けた。
『はいもしもし、シスコンの阿山君』
「あ……」冗談きついぜ。
『どうしましたか?』
「いや……、ああ、そうだ、千都世さんはもう帰ったから、大丈夫だって連絡を」
『何が大丈夫なのですか?』
「あ、そっか、猫……、パトリシア、ウチで預かれるからって話」
『それでしたら間に合っていますよ。そちらのアパートは動物禁止なんでしょう? 連休中はこちらで預かりますよ』
「ああ、そうか、ありがとう……」
『感謝の言葉でしたらヨーコからもらっていますので』
「あそう……」
『ほかに何か?』
「いや、別に」
『では失礼します』
「うん、また連休明けに」
『これは独り言ですが』
「……うん」
『連休の予定がなくて暇だなぁ、とヨーコがさみしがっていましたよ。それでは』
通話が途切れると、繭墨の言葉どおり、着信履歴から百代の番号を呼び出す。
だけど、いつまでたってもその番号に触れることができなかった。
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