第40話 修学旅行の夜のような
パトリシアを部屋に置いて、猫グッズの用意などをしていると、すぐに夕食の時間になりました。
今日は家政婦の人が来ない日です。作り置きの食べ物だけでは物足りないので、自分の手でいくつか献立を追加しなければなりません。
曜子と二人で冷蔵庫の中身をチェックし、料理サイトでメニューを検索、手順に沿ってどうにかこうにか作り上げましたが、正直、味の方は今ひとつでした。
曜子がいくつかの調味料と手順を省いていたので、おそらくそれが原因でしょう。食後のお茶だけはきちんとしたいものです。
「コーヒーを淹れるけれど、ヨーコは何か飲みたいもの、ある?」
「じゃあ、あたしも……、コーヒーでお願い」
「……わかったわ」
曜子の返事は少し意外でした。彼女がコーヒーを飲んでいるところを、今まで見たことがなかったからです。
曜子の表情は、食後のブレイクタイムのそれにはとても見えません。
コーヒーを
苦いのは得意ではなかったはずですが、何か心境の変化でもあったのでしょうか。不思議に思いつつも、わたしはいつもどおりの手順に沿って、ペーパードリップでコーヒーを抽出していきます。
抽出されるコーヒーは、基本的に最初が濃く、徐々に薄まっていきます。そのため、1杯目は自分用、2杯目は曜子用にと分けてカップに入れました。
それでも、コーヒーに不慣れな曜子の舌が、どの程度の苦さをおいしいと感じるのかは未知数です。
「はい、どうぞ」
テーブルにカップを置くと、曜子の表情がさらに引き締まります。私にとっては落ち着くコーヒーの香りも、曜子にとっては精神をかき乱す刺激臭なのでしょうか。
そして、曜子は恐るべき暴挙に出ました。ミルクを4パック、角砂糖を4個も投入したのです。……ああ、もはや彼女の目の前にあるのはコーヒーではなく、ただのコーヒー
まあ、いいでしょう。それでもまだ辛うじて、コーヒーの魂は残っているはず。せめてその舌で、漆黒に波打つ魂の残滓を感じ取ってくれるといいのですが。
曜子は恐る恐る、カップを口元に運びます。
わずかに傾くカップ。曜子の眉がピクリと動きます。
「どう?」
カップをテーブルに戻した曜子に尋ねると、
「ん……、なんか、甘苦い……」
「それはそうでしょうね」あんなに砂糖とミルクをぶち込んでは。「それから?」
「ん……、……それだけ?」
と首をかしげる曜子。
「そう……」
わたしは向かいの席に腰を下ろすと、カップを手に取ってコーヒーを口にします。
きちんとおいしかったのですが、心なしか、いつもよりビターにも感じました。
味覚など人それぞれですから、仕方ありませんね。
曜子もいつかわかってくれるでしょう。
「ところでヨーコ、どうして急にコーヒーを飲もうなんて思ったの?」
わたしの疑問に、曜子は苦笑いを浮かべます。
「だって、ヒメもキョウ君も、いっつもおいしそうに飲んでるから、もしかして今ならあたしも行けるんじゃないかって思っただけ。ダメだったけど」
と、今度は寂しそうな苦笑。
「苦味なんて慣れよ、わたしも最初は、砂糖もミルクも入れていたもの」
「そっかぁ、でもね、別にコーヒー飲めなくてもいいの。ちょっと気が楽になることがあったから」
「何?」
「キョウ君ちで飲み物を頼んだとき、ミルクティーが普通に出てきたの」
猫カフェと化した阿山君の部屋で、わたしたちがくつろいでいたときのことです。わたしはコーヒーを、曜子はミルクティーを頼んでいました。
「それのどこが?」
「だって、キョウ君って今まで――あたしが知ってる限りだけど、ミルクティーなんて飲んでなかったもん。冷蔵庫に入ってるところも見たことないし。でも、今日は頼んだら出てきたんだよ? これってつまり、あたしのために用意してくれてたんじゃないかな」
わたしや阿山君がコーヒーを飲むのと同様に、曜子はミルクティーを愛飲しています。それに気づいた阿山君が、曜子のためにミルクティを前もって買っておいた――というの有り得る話です。
「長居するな、みたいなこと言っておいて、素直じゃないよねぇ」
曜子はとてもうれしそうに、歯を見せて笑っています。
「気づかなかったわ。意外と鋭いのねヨーコは」
「むぅ、意外とって何よぉ……、でもこれからは女探偵って呼んでもいいのよ。恋する探偵……、恋愛探偵、これね!」
何が〝これね〟なのかはわかりませんが、恋愛探偵というフレーズはとても
「どしたの? ぼんやりしちゃって」
「意外と鋭いヨーコに比べて、阿山君はどうなのかなと思っただけよ」
「あー……」
わたしの言いたいことを察したようで、曜子が苦笑いを浮かべます。
つまり、阿山君は曜子のことをどう思っているのか。
「案外、思いを告げたらあっさり片が付くんじゃないかしら」
「嫌われてはないと思うんだけど、今、告白をしてもダメなんじゃないかなぁ」
「どうして?」
「実際あたし、今までも結構好きだってバレバレの態度とってきたんだよ? 言葉にはしてないけど……、それでもキョウ君の態度はいつもと変わらないから、こう、決め手に欠ける感じなの」
「そう? わたしにはそのあたりの機微がよくわからないけれど」
状態が停滞しているのならば、告白こそが曜子の言う〝決め手〟になるのではないかと思いますが。
「とにかく、あたしは一時の感情に身を任せた
「そうですか」
わたしはゆっくりとうなずきます。
きっとクリスマスの後悔がそうさせているのでしょう。
曜子が決めたことならば、わたしからそれ以上、何も言うことはありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そのあと、食後の一服を終えたわたしたちは、順番にお風呂へ入りました。
部屋に戻ってパトリシアの相手をしつつ、雑談を少々。やがて曜子が大きなあくびをしたのをきっかけに、ベッドに入ることにしました。
キングサイズなので、二人が並んでも、空間的には問題ありません。
ただ、誰かがすぐ隣で寝ているという状況は、やはり落ち着かず、わたしはなかなか眠りにつくことができませんでした。
時計の秒針の音。
曜子の寝返り。
パトリシアの動く音。
遠いサイレン。
いくつかの音がわたしの意識を必要以上に刺激しますが、きっと、眠れない理由はそれらの音ではなく――
「ね、ヒメ、起きてる?」
「……ええ、起きてるわ。眠れないの?」
「うん、ちょっと、気になってることがあって」
それは、わたしの眠りを妨げている心配事と同じものでしょうか。
「何?」
「ヒメの好きな人は誰なのかな、って思って」
違いましたが、しかし眠気を吹き飛ばすには十分の、インパクトのある質問です。
居るのか、ではなく、誰なのか。
「……好きな人がいることが、前提になってる聞き方ね」
「いるんでしょ?」
「……ええ」
まるで修学旅行の夜のようなやり取り。
その連想に背中を押されます。――もっとも、わたしは実際にこのような話をクラスメイトとしたことはありませんが。
わたしは少しだけ間をおいて、今なら白状しても大丈夫だろうという打算も込みで、その名前を口にしました。
「わたし、進藤君が好きなの」
「あ、やっぱり、そうなんだぁ」
曜子の表情はわかりません。暗闇の上、背を向けあっています。
「気づいていたの? いつから?」
「一年の夏ごろから、かなぁ……。教室にいるとき、ヒメの視線の先にいる人ナンバーワンだったから。もしかしてそうなんじゃないかなって」
「そんなにわかりやすかったなんて……」
私は落ち込んだ声を作って、動揺を隠しました。
わたしが進藤君に好意を持っていることに気付いていながら、曜子は進藤君に告白し、恋人同士になった。
傍目には、想い人を横取りされたようにも見える構図です。
自分でも意外だったのですが、驚きはあっても、裏切られたという感覚はほとんどありませんでした。それどころか、曜子のしたたかさを好ましくさえ感じています。
曜子と進藤君の関係がもう終わってしまっているからでしょうか。
まだ交際が続いていれば、もっとネガティブな感情を抱いたのでしょうか。
よくわかりません。
しかし、今後は教室で進藤君を目で追うのは控えないといけませんね。
「あ、でもね、今のクラスに上がってからは、ちょっと変わってきたのかなぁ」
「それはどういう風に?」
「進藤君の方を見つつ、その奥のキョウ君にも目が行ってるみたいな感じがする」
「気のせいよ」わたしは即座に否定します。
「えー? そうかなぁ?」
「進藤君を見ていたら、位置関係的に阿山君も視界に入ってしまうでしょ? 富士山を撮影したら富士の樹海も枠に入ってしまった、それだけのことよ」
「キョウ君は樹海かぁ……、樹海ってちょっと……」
曜子がベッドの中で笑いをかみ殺しています。
とっさの比喩でしたが、思いのほか的を射てしまいましたね……。
それから、すっかり眠気が覚めてしまったわたしたちは、日付が変わっても恋愛話を続けました。お互いの想い人の、いいところ、悪いところ。そのほか、クラスの誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合っているだとか、誰と誰が別れそうだとか、そういった、ごく普通の女子の内輪話を。
ですが、語らなかったこともあります。
私は意図的に話題から外していました。
ヨーコもそうだったのでしょうか。
今日、再び訪れたあの人。
阿山千都世という、彼に最も近い彼女のことを。
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