2年次1学期

第33話 花曇り


 桜並木の下に女生徒がたたずんでいた。


 薄紅うすべに新緑しんりょくが混じり合うなか、制服の黒をまとった彼女の姿は際立っている。

 映画のワンシーンのように出来すぎの光景の中心で、桜並木や花吹雪といった超一級の舞台装置に負けない存在感を、その女生徒は放っていた。


 それを遠巻きにしている自分はただの傍観者に過ぎないのではないか。ネガティブな錯覚を振り払って前進する。


 分をわきまえず舞台に上がろうとする、無粋な観客に気づいたのか、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その所作にタイミングを合わせたかのように、少し強めの風が吹く。


 ざぁっ、と葉桜はざくらが鳴って、薄紅の花弁が舞い上がる。

 女生徒の長い黒髪が風にたなびき、スカートのすそがわずかに揺れた。彼女は黒髪を片手で押さえて、はにかみながら――あるいは単に風のせいで目を細めただけかもしれないが――こちらと目を合わせた。


「おはようございます」

「おはよう」


 数メートルの距離を挟んで、僕と乙姫は朝のあいさつを交わした。

 周りにほかの生徒の姿はほとんどない。

 朝練の生徒はとっくにそれぞれの部活で汗を流しており、一般生徒の登校のピークは、あと30分以上も先のこと。そんな登校時間のエアポケットのような時間帯に、僕たちは登校していた。


 伯鳴高校の校門前には数十メートルほどの短い桜並木がある。その咲きっぷりは気候にかなり左右されるが、今年はすでに満開を通り越して、現在は六分残りといったところだ。四月七日という門出の日に、この街の桜はなかなかタイミングを合わせてくれない。


 この出会いは偶然ではない。

 前日に繭墨から連絡があって、いつもより早い時間に待ち合わせをすることになったのだ。


 久しぶりの登校のせいか準備の手際が悪くなっていて、思った以上に部屋を出るのが遅くなってしまった。僕は急いで学校へ向かったが、やはり繭墨の方が先に到着していた。


 数メートルの距離を挟んで朝のあいさつを交わすと、繭墨はすぐに僕を視界から外し、空を見上げた。天気はくもり。花曇はなぐもりだ。


 それきり無言が長い繭墨に、こちらから問いかける。


「急に呼び出して、何か用があったんじゃないの? 雑用とか、伝達とか」

「今まさに済ませているところです」


 繭墨は空を見上げたままで言う。


「説明をしてもらえると……」

「お花見ですよ」

「花見って……、ああ……、飲み食いのない、純粋な花見ね」

「もし私が桜だったら、花の下であんなに騒がれたら咲く気が失せますよ」


 なんのためらいもなく自らを花に例える、さすがの繭墨である。まあ、あの騒々しさを敬遠したくなる気持ちは、わからないでもないけれど。


「で、僕はなんで誘われたの」

「大勢は嫌ですが、4人までなら許容範囲だったんです」

「うん」


 百代と直路と僕と、そして繭墨本人という計算だろう。


「しかし、1人は早朝練習で忙しく、もう1人は極めて朝に弱いため、こういうことになりました」


 繭墨は手のひらを上にして、桜の花びらを受けようとしている。


「正直、繭墨ひとりだけの方が絵になると思うんだけど」

「絵になるというのは客観ですよね。わたしは別に、誰かに見られたいとは思っていません。むしろ、1人で学校の前にぼんやり立っている変な女、というレッテルを張られないようにするために阿山君を誘ったんですよ」

「壁役だったのか……」

「耳あり目あり、では困ります。ちょっと逆を向いていただけませんか」

「新学期早々、貴族みたいな傲慢ごうまんさで押してくるね」

「平安貴族ならアリですね。風雅ふうがでるわたしにピッタリです」

おごる繭墨は久しからずだよ」


 そう言って僕は回れ右をする。

 無数に舞い降りる花びらで、視界一面がうっすらと白くかすんでいる。

 花びらの一枚一枚が、異なる軌跡を描き、ひらひらと瞬きながら落ちていく。

 時間が経つのも忘れて、その素晴らしい光景に見入ってしまう。

 特に、人間がいないところがいい。

 わらわらと歩く生徒たちが混じっていたら、この光景すら凡庸ぼんようなものにしてしまうだろう。


 だけど、とふと思いついて、肩越しに後ろをのぞき見る。


 花霞はながすみの中にたたずむ繭墨は、世界の中心に立っているかのようで、やはり、例外的に、とても絵になると思った。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 幻想世界は登校してくる生徒の増加によって終わりを迎えた。

 僕と繭墨は赤の他人のような素っ気ない距離を取って、別々に校舎に入る。


 各学年の教室は、1年が3階、2年が4階、3年が5階となっており、僕たちは昨年度よりも一階ぶん長く階段を上らなければならなかった。


 最大の関心事は、新しいクラス分けだ。


 新クラスの振り分けは、混雑を避けるために各教室に掲示されている。

 2-1で名前が見当たらなければ隣の教室へと流れ、そこにもなければまた次の教室へ、という形で、生徒たちは自分の居場所を探して各教室の前にたむろしていた。


 僕はすぐに2-1に名前を見つけることができた。

 阿山という名字はこういうときにとても便利だ。

 去年は出席番号1番だったが、今年は僕の前に一人いるようだった。


 新クラス。

 僕はまだ人のまばら・・・な教室内を眺める。


 繭墨も同じクラスになっていたが、彼女は「縁がありますね」とだけ言って自分の席に着くと、さっそく文庫本を取り出して読書にふけっていた。いくらまだ人が少ないとはいえ、壁を作りすぎじゃないかと思う。


 無言の繭墨はただでさえ日本人形みたいな不気味さがあるのに、加えて文庫本という強力な対コミュニケーション防壁を展開してしまっては、百代レベルの強引さがないと突破は難しいだろう。


 そんな心配をしてしまう一方で、繭墨はあれでいいか、と思っている自分もいる。

 というか、教室でおしゃべりに興じる繭墨の姿というものが想像できなかった。


 徐々に埋まってくる席に比例して、教室内の騒々しさも増してくる。同じクラスになったことを喜ぶ男子たち、喜んだうえに抱き合ってはしゃいでいる女子たち、とりあえず隣人に声をかけてぎこちない自己紹介をしている生徒たち。新年度の始まりにふさわしい活気だった。


「よう、おはようさん」

 

 僕の一つ前の席に座った男子が声をかけてくる。


「ん、ああ、おはよう」

「阿山だっけ。阿山鏡一朗」

「そっちはええと……」


 話しかけてきた少し軽い感じの男子の、名前が出てこない。

 リストをよく見てなかった。


赤木あかぎだよ、赤木わたる。悪いな、出席番号1番の座をもらっちまって」

「別にいいよ。中学のときは相河あいかわってやつがいたから万年2位だったし」

「マジで? そんなやつ相手じゃオレも分が悪いな……」

「やり方しだいでなんとかなる、みたいな問題じゃないからね」

「戦いの場にいなかったんだからオレの不戦勝でいいよな」

「うん、赤木がチャンピオンだよ。誰も文句は言わないよ」


 そんな、あいさつ代わりのやり取りを経て、赤木がずい・・と近づいてくる。


「なあ、このクラスって女子のレベル高いよな」


 定番の話題が来たが、僕は正直言ってこの手の話題が苦手だ。女子の名前なんて自分が元いたクラスの子くらいしか覚えていないし、その記憶だって怪しいものだ。


 とはいえ、せっかく話を振ってくれたのだから、こちらも応じないと。


「例えば誰が?」

「元1組の飯塚と江崎、2組の倉橋、3組の西に、4組の七瀬、5組の原田と中条」

「ふぅん」


 よくスラスラと名前が出てくるものだと感心しつつ、顔と名前が一致しないまま聞き流していく。その流れが止まった。


「あと、繭墨もいいよな。そんな目立つタイプじゃないけど、顔のつくりで言ったらダントツに綺麗だし、振る舞いも大人びてて、なんつーの? 達観してるって感じがするよな」


「そうだね、能面みたいに整った顔立ちで、クラスメイトなんてガキばっかりだって風に振る舞ってて、達観というよりいろいろ諦観ていかんしてるような感じがするよね」


「……え、何お前、繭墨のこと嫌いなのか?」


「人の個性にもいろんな見方があるってことだよ」


「にしたって暗黒面ばっかり見すぎだろ……」


 赤木がやや引いたような顔になる。しかし、繭墨の真のダークサイドは、もっと奥深くにあるのだ。愛想のない仮面の内側で、どろどろと渦を巻いている。


「なあ、お前はどうなんだ? 誰か推してる女子とかいるんじゃねーの?」


 面倒くさい話題の振られ方だった。赤木が言っていた女子の中から適当に選んでお茶を濁そうか、と考えていると、後ろから声がかかった。


「元2組の百代曜子なんてどう?」

「おおぅ」と赤木。

「じゃあそれで」と僕。

「反応軽っ! おすすめメニュー即決とか、あたしそんなお手頃な女じゃないし」


 百代はそんなことを言いながら、僕と赤木の正面に回り込む。


「おはよ、キョウ君。……それと、」

「赤木航だよ」と赤木。

「赤木君もおはよ」


 百代は赤木に軽くあいさつをしてからこちらを向いた。満面の笑顔だった。


「同じクラスだね」

「そうだね」

「すっごいうれしい」

「見知った顔があると気楽でいいよ」

「あたしはテンション上がるけど?」

「百代は、今年は少し、落ち着くことを目標にしてみたらいいんじゃないかな」


 僕がそんなアドバイスを送ると、百代はプイと顔をそむけた。


「そういうタイプはヒメで間に合ってるから。キョウ君こそ今年はテンション上げていかなきゃ。進藤君を見習ってさ。春休み中すごかったらしいよ」


 百代の口から進藤直路の名前が出てきたことに、僕は心の中で反射的に身構える。

 元、彼氏彼女。ぎこちない交際、クリスマスのケンカ別れ――過ぎ去ったゴタゴタを思い出してしまう。


「オレがどうしたって?」


 と教室の入り口から声がして、ガタイのいい身体がこちらに近づいてきた。

 そう。

 クラス表には進藤直路の名前もあったのだ。

 百代と直路。この二人が視界に収まっている状況は、はっきり言って胃が痛くなる。それがこれからの日常になると思うと、不安でたまらない――などと心配していたら、


「あ、進藤君。おはよー」

「おう、また同じクラスになったな」

「よろしくねー」


 そんな風に、二人は何事もなかったようにあいさつを交わしている。


 いや、何事もなかった、わけではないだろう。

 あれからもう4か月が経つ。

 僕の知らないところで2人は折り合いをつけたのだ。

 関係は変わったが、終わったわけではない。そういうことなのだろう。


 だったら、僕も変に気を使う必要はない。


「直路、4連勝だって?」


 と二人の会話に割り込んだ。

 春休み中に何度か他校との練習試合を行い、直路がそこで素晴らしいピッチングをしたという話は聞いていたのだ。


「いや、5連勝だ」

「しかも1回はノーヒットノーランだよ?」

「雨で4回コールドだけどな」

「じゃああんまり参考にならないね」

「でも防御力0点台だよ? すごくない?」


 すごくダメージを受けそうなパラメータだ。無防備すぎる。


ちげえ、防御だ」

「えー、同じようなものでしょ」


 そんな風に、思っていたよりもはるかに自然体で話ができたことが、旧友との再会のようにうれしかった。


 やがて百代と直路が自分の席に向かうと、しばらく蚊帳の外だった赤木がポツリとつぶやいた。


「阿山お前、思ったよりリアルが充実してんな……」

「え、そう?」

「道理でイケてる女子談義に無関心なわけだぜ、すでに相手がいたんだからな」

「いやいや、それなりに興味深く聞いてたよ。バトル系のマンガでよくある、トーナメント時の脇役キャラ紹介みたいな気分で」

「やっぱり主役がいるんじゃねーか」

「人は誰もが自分という物語の主役なんだよ」

「感動的なセリフのはずなのに、びっくりするくらい響かねーな……」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 担任の先生のあいさつや始業式、ホームルームを経て、昼頃には放課となる。

 その途中で百代からメッセージが送られてきていた。


『放課後お花見しませんか?』


 珍しく丁寧語のそれに、僕は返事をしなかった。

 教室で先生に見つかることなくスマホを扱う自信がなかったし、どうせすぐ放課後だから直接言えばいいと思っていた。要するに面倒くさかったのだ。


 その約束は、思わぬ形で流れてしまう。ホームルームの途中で天候が一気に悪化し、強めの雨が降り出したのだ。そして一日中、止むことはなかった。


 窓側に視線を向ける。窓辺の列の先頭には繭墨が座り、そのひとつ後ろが百代という並びだ。彼女がどういう顔をしているのか気になったが、百代はずっと外を眺めていて表情は見えなかった。

 

 その代わりと言ってはなんだが、繭墨がこちらを向いた。

 視線を気取られたのだろうか。

 繭墨は無表情のまま、唇の前で人さし指を立てた。

 沈黙の仕草。

 それは、落胆する百代をそっとしておこうという、静観のサインだろうか。

 それとも、今朝のことは黙っておくようにという、秘密のサイン?


 深く考えようとしても、ノイズのような雨音にかき乱されてうまくまとまらない。

 雨のせいにして、僕は考えるのをやめた。

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