第32話 心凍える冬は去り

 百代が去ったあと、僕はバイトの作業を続けながら、ホワイトデーのことを思い出していた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 喫茶店のトイレから出ると、すでに3人はいなくなっていた。


 本来なら後を追うべきなのかもしれないが、僕が合流することで何かよからぬことが起こるのではないかという不安を払拭ふっしょくすることができず――まあ飾らずに言うならビビってしまったわけで――しばらくバッティングセンターで時間を潰してから部屋に戻った。

 部屋にいたのは千都世さんだけだった。繭墨と百代が一緒でないことに安心する。


 テーブルの上にはおいしそうな料理が並んでいた。

 これは何かの罠ではないか。食べたら代償として何かを差し出さなければならない系のやつではないか。そんな警戒心も、久しぶりの千都世さんの手料理の誘惑には逆らえなかった。


 誇張でも何でもなく、箸が止まらなかった。うまい料理をお腹いっぱい食べて気がゆるんだところで、千都世さんは恐ろしい質問を投げてきた。


「で、鏡一朗、アンタどっちがいいの?」


 僕は真顔の千都世さんから目を逸らし、からっぽになった皿へと視線を落とす。


「この手ごねハンバーグもよかったけど、こっちのマリネもおいしかったよ。こんな味のドレッシング置いてなかったと思うんだけど、もしかして手作り? ちょっとレシピ教えてほしいんだけど……」

「そういうのはいい」

「ハイ」


 僕は姿勢を正した。

 

「百代曜子ちゃんに、繭墨乙姫オトヒメちゃん。どっちもいい子じゃないか」

「どっちもただの同級生、友達だよ」

「ま、アンタの性格ならそう答えると思ってたけどね」

「ただの事実だから」


 千都世さんは呆れたという風に肩をすくめ、片目を細める。


「鏡一朗は、なんつーか、こう……、女に興味ないの?」


 僕は絶句しそうになるが、何とか反論に転じる。


「いやいや……、そんなことはないって」

「性欲とかの話じゃない。アンタの部屋の押し入れはぜんぶ把握してるからな」

「あぁ……」絶望的なため息が出た。

「そうじゃなくて、アレだ、特定の相手とのおつきあい、ってやつだよ。実家にいたころの鏡一朗には、色恋沙汰の気配がさっぱりなかったじゃないか」


 恥ずかしい秘密の暴露ばくろや、人間関係の詮索せんさく

 千都世さんの攻撃はいつもけで容赦ようしゃがない。

 僕は羞恥に顔を伏せつつ、ボソリと反撃をつぶやく。もちろん、絶対に届かない声量で。


「……誰のせいだと思ってるのさ」

「ああ? なんか言ったか?」

「ううん何も」


 本当にささやかな抵抗。小さい男だという自覚を深めただけだった。


「ま、とにかく、かわいい弟が恋愛不能者なんじゃないかと心配だったおねーさんとしては、少しホッとしてるんだ。こっちに越したプラスの影響が出てるみたいでよかったよ」

「何それ。今はあるってこと? その……、色恋沙汰イロコイザタの気配が」


 問いかけると、千都世さんは「はぁ?」と顔をしかめる。


「気配なんて段階じゃないだろ、季節が変わってるレベル」

「季節が」

「そう。心凍こころこごえる冬は去り、恋の花咲く春爛漫はるらんまん、ってな」

「まだ梅くらいしか咲いてないよ」

「じゃあ次は桜だな」


 そう言って、千都世さんは花が咲くように笑っていた。

 梅や桜なんていう控えめな花じゃなく、主張の強い向日葵の花のように。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ――実際、バレンタインの頃から兆候はあったのだ。

 百代がやけに距離感を詰めてきていることは、自覚していた。

 そこに千都世さんがあんなことを言うから、余計に意識してしまう。


 僕はため息をついて気持ちを落ち着かせ、次の通路へ向かおうとする――


 ――商品棚の陰から長谷川さんが顔を半分だけ出してこちらを見ていた。


「阿山君。君はもうすぐ退勤だったはずだよね。なぜあのような嘘を?」


 さっき百代に話した内容を聞かれていたのだろうか。僕が答えるよりも先に、長谷川さんは何かに気づいたかのように表情をこわばらせる。


「何? まさか……、君が仕事に逃げている理由って、女性がらみ?」


 ああうらやましい、畜生、私にはまぶしすぎるぜ、さらば青春の光……、などと、長谷川さんはわけのわからないことをつぶやきながらバックヤードへ下がっていく。

 かと思いきや、最後に扉のすき間から顔を出して釘を刺される。


「あ、そうそう、わかってると思うけど、ちゃんと定時で帰るようにね」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 タイムカードを押して、従業員用の通用口から外へ出ると、外気の冷たさに肩がすくんだ。今の時期、西の空はまだ明るいが、夕方になると一気に冷えてくる。僕はコートの前を閉じ、やや前かがみになりながら家路を急いだ。


 やがて、アパート近くの自動販売機を通りがかったときだった。


「――お疲れさまです、阿山君」


 自販機の陰から、黒っぽい繭墨がするりと歩み出てくる。


 繭墨の服装は黒づくめだった。コートも黒、スカートも黒が基調のチェック柄、ハイソックスも黒。白っぽいのはインナーのセーターのみ。夜道だと危ない服装だ。


 僕は時間のあいさつに少し迷い、


「……こんばんは、繭墨。どうしたの、こんなところで」

「阿山君が勤労少年になったと聞いたので、少し様子を見に来ました」

「勤労少年って、僕のイメージだと新聞配達やってるような感じなんだけど」

「スーパーでのアルバイトだと違和感がありますか?」

「いや、単なる刷り込みじゃないかな。昔見た古いドラマとかのせいで、苦学生のバイトの定番っていうイメージができてるのかも」

「それは、少しわかります。日も昇らぬ早朝から、学校指定のジャージで自転車をこいでいるイメージですよね」

「そうそう、そういうやつ」


 と、どうでもいい雑談がひと段落したところで尋ねる。


「で、なんで知ってるの」

「ヨーコから流れてきた情報です」


 繭墨はスマホの画面をこちらに向ける。

『阿山君告発サイト・ヨコリークス』

 というタイトルのメッセージがあった。

 国際ニュースネタ、しかも対象は名指しで僕一択だった。


「それで、いかがでしたか?」

「まだ数日しか働いてないし、単純労働だけだから、なんとも言えないけど。普通に続ける分には問題なさそうかな」

「それは何よりです」


 繭墨は自販機にお金を入れ、ディスプレイされた缶コーヒーを指さしながら訊いてくる。


「どれにしますか?」

「えっ? ああ、ありがとう。それじゃ……」


 僕は缶コーヒーのラインナップを確認して、微糖タイプのものを選んだ。

 続いて繭墨はブラックを。相変わらずの大人舌である。


「缶コーヒーってどうして微糖やら低糖はあるのに、無糖ミルクのみ、みたいなやつがないんだろうね」

「あ、それ、昔見たことがありますよ。どマイナーなメーカーの製品でしたし、しばらくしたらなくなっていましたが」

「ニーズが少なかったってことか」


 繭墨の手から缶コーヒーを受け取る。

 去年の年末にも、似たようなことがあった。商店街でアイスクリームを奢ってくれたのだ。あのときの繭墨は借りを返すためという理由があったが、今回のこれには、どういう意図があるのだろう。


 缶コーヒーをすぐには開けず、しばらく手の中でもてあそんで暖を取る。


「日本に冬がある限り、自動販売機が無くなることはないでしょうね」

「機械のくせに、なんか風情があるよね、自販機って」

「ホットの缶コーヒーは季語として使えるレベルの存在でしょう」

「古いJPOPの歌詞ではすでにその兆候が見られるけど」

「未来の日本語学者が研究対象にするかもしれませんね」

「かじかんだ指先を温める缶コーヒーのぬくもり、みたいな」

「いい感じのベタさですね」


 指先が温まってきたので、缶を開けてゆっくりと飲み始める。

 甘ったるい液体はコーヒーと名がついているがほとんど別の飲み物だと思う。


 繭墨もブラックの缶コーヒーを傾けている。

 立ち上る湯気が顔を撫でて、メガネをかすかに曇らせている。


 中身が半分ほどに減ったあたりで、僕は思い切って問いかけた。


「あの後、千都世さんと何かあった?」


 繭墨はうっすら曇ったメガネでこちらを見据え、


「あの後というのは、お姉さんとの羞恥プレイに耐え切れなかった阿山君がトイレに逃げ込んだその後、という意味ですか?」


 もう少しオブラートに包んでほしいと以前の僕なら思っていたかもしれないが、今の僕はこれが繭墨の自然体だと納得してしまっている。耐性がついたのだろう。


「おっしゃるとおりさ」

「投げやりな返事。……わたしの方で自覚するような出来事はありませんでしたよ。逆に聞きますが、お姉さんから何か言われたのですか?」

「ん……、いや、特には」


 あいまいに返事をにごしたが、実は千都世さんは面白いことを語っていた。


『あの繭墨ってコには気を付けときなよ。なんつーか、目的のためには手段を選ばないっていうタイプに見えるからな』


 千都世さんによる繭墨の評価だ。けっこう的を射ていると思う。


 繭墨は以前、戦争と恋愛ではあらゆる手段が肯定される、なんて大言をのたまっていたが、千都世さんがそれを知っているはずがない。

 だから、僕の知らないところで、千都世さんが繭墨の本音と本質を知る機会があったのではないかと思ったのだ。本音というのは強い衝撃があったときに転がり出てくるものなので、二人が。


「そうですか……。阿山君に何も伝えていないのなら、それは執行猶予しっこうゆうよを与えられたということでしょうか」

「なんのこと?」

「それとも猶予ゆうよならぬ余裕、その程度で優越を感じるなど片腹痛いわ小娘が、という物言わぬメッセージでしょうか……」

「ちょっと物騒なこと言ってるけど、ホントに何もなかったのそれ?」


 繭墨はこちらの呼びかけを無視して独り言を終えると、缶コーヒーを傾けて、残りを一気に飲み干した。

 空き缶をゴミ箱に入れて、晴れやかな笑顔を向けてくる。


「はい。すべて、こちらの話です」

「あそう」


 そう断言されると、これ以上、何も言えなくなる。


「では、今日はこれで」

「ああ……、コーヒーありがとう」

「どういたしまして。まだ寒いですが、新学期までには暖かくなっているといいですね」

「だね、冬は繭墨の嫌いな、まわしいイベントが盛りだくさんだったから」

「心外ですね、忌まわしいだなんて」


 繭墨はわざとらしくショックを受けた顔を作る。その場で回れ右をしたので、その表情はすぐに見えなくなった。


「今のわたしは、見逃してあげてもいい、くらいには寛容かんようですよ」

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