第23話 サイズの合わない服を着た女子が部屋にいる
小雨のような水音が止んで、浴室の戸が開いた。
「ねえ阿山君、シャワー借りてもいい?」
「もう貸してるけど」
「シャワー浴びたいってこと」
「ええ?」
「だって上着もところどころ濡れてるし、ズボンの濡れてる範囲もどんどん広がってるし、とにかく寒いし」
「火傷はどうだった?」
「んー、ちょっと赤くなってて、ひりひりするところもあるけど、ほら、チョコがかかったところの真ん中あたり。そこだけだから」
「そっか、じゃあそこにはなるべくシャワー当てないようにね」
「はーい」
幸い、百代の火傷はごく軽いようだ。
火傷の傷口は
顔の見えないやり取りが終わると、服を脱ぐ
「どうしよ、阿山君」
台所を片付けつつテレビの旅番組を聞き流していると、百代が顔だけをひょっこりと出した。肩口までの長さの髪が、しっとり濡れた湯上り姿。
わずかに見える肌色の肩は、百代が服を着ていないことを示していて、それはつまり見えてこそいないものの百代が全裸あるいは半裸の状態である可能性が高いわけで、ちょっと警戒心なさすぎじゃないの? 挑発してんの?
「どどどうしたの」
「勢いで着替えちゃったけど、服の替えがないよ……」
全裸が確定してしまった動揺を抑えつつ応じる。
「とりあえず適当に何か着れるものを持ってくるから」
いや待て、僕の服を着せるのか?
いろいろ大丈夫なんだろうかそれは。
ためらいはあったけど、今も百代は下に何も身に着けていないわけで、仮にも男子の部屋でそれはマズいわけで、しかしそんな彼女に近づくのもいろいろとマズいわけで、取りあえずタンスからズボンを出して浴室の手前に放り投げた。
「ぶかぶかじゃないこれ」
百代が、
僕のズボンをはいた百代が、
僕のズボンをはいてスソを余らせた百代が、
歩きづらそうに部屋に入ってくる。
サイズの合わない服を着た女子が部屋にいるという、大変な事態に直面していた。理想はワイシャツかもしれないが、たとえズボンだったとしても、グッとくるシチュエーションに変わりはない。
「あ、片づけてくれてたんだ。ありがとう。……ごめんね」
「気にしないで」
百代がシャワーを浴び、着替えている間に、片づけはほぼ済ませていた。
余計な邪念を抱かないよう、清掃作業に心技体のすべてを注ぎ込んだ成果だ。
百代はよたよたと歩いてベッドに腰かけた。
「あーあ……、こんなんじゃチョコ作れないよ」
百代はベッドに座ったまま、右足を上げる。裾が長く、足はつま先しか見えない。
このぶかぶか感。やはり危険だ。
テレビのおかげで沈黙はないが、百代の格好を意識してしまうのはどうしようもない。どうしよう。
内心おたおたしている僕をよそに、百代はスマホでどこかに電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、あんた今、家にいるでしょ。ちょっと頼まれてくれない? え? なんでよ。いいでしょ? ……見返りぃ? あんたあたしが今までどれだけあんたの面倒を見てやったと……、はいはい、わかったわよ、いいものあげるから。え、そんなの秘密よ。……ホントだって、男子だったら泣いて喜ぶに決まってるレベルよ。うん、そう。それで、持ってきてほしいのは……」
百代は持ってこさせる上着と、それからズボンのデザインを詳細に語っていたが、僕が電話口の相手だったら困惑していたと思う。特にズボンのことをパンツと言うのがどうにも慣れなかった。
「家族?」
電話を終えた百代に尋ねる。
「かわいくない弟。中学二年の、ナマイキ盛りのガキンチョよ」
「ふぅん」
「阿山君は弟とか――あっ、ごめん」
気まずそうに目を伏せる百代をフォロー。
「いや、いいよ。姉が1人いる」
「そうなんだ」
と、百代は軽く普通の会話として流してくれた。
それにしても、弟に自分の着替えが入ったタンスなりクローゼットを探らせても平気なのだろうか。百代はあまり気にしていない風だが、弟さんの方はどうだろう。
「それでね、お願い阿山君、近くにスーパーがあるでしょ」
「ああ、ラッキーマート」
「そこへ弟に着替えを持ってこさせるから、取りに行ってくれない?」
「ん、いいよ。百代のうちってどれくらいかかるの」
「自転車で10分かからないくらい」
「そうか、じゃあもう出とくよ。チョコの材料も買い足さないといけないし」
早口で言いながら、そそくさと部屋を出た。時間のことはもちろんだが、何より百代の格好が問題だった。僕には刺激が強すぎる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
阿山君が部屋を出ていくと、あたしはベッドの上を転げまわった。
うわー、うわー、うわー……、
何これ、なんなのこのシチュエーション。
チョコをひっくり返して、服を汚して、シャワー浴びて、そしたら着替えがないから服を借りて……。
着替えたら阿山君なんかめっちゃこっち見てるし。
いろいろ迷惑かけちゃったけど、半分くらいは阿山君のせいだし、仕方ないよね。
だって、急にあんなこと言うから……。
『――気持ちも分散する』
『――テンション下がる』
『――少なくとも僕はそう感じる』
『――手作りは1人だけ――とまでは言わないけど、身近な人だけに限っておいた方がいいんじゃないかな』
あれじゃまるで、あたしの手作りチョコばら撒き作戦に嫉妬してるみたいだ。
渡すのはオレだけにしとけよ、って、強気にアピールしてるみたい。
本人はその気もないし、きっと意識してないんだろうけど。
阿山君ってときどきああいう、無自覚に恥ずかしいこと言うんだよねぇ。
転がっているうちに身体に巻き付いていた布団を、ギュッと顔に引き寄せると、いい匂いとは言えないけど、不快でもない匂いに包まれる。これが阿山君の匂い、なのかなぁ……。
そうしていると、急にインターホンが鳴って、あたしはベッドから飛び起きた。
いけないいけない、何やってんだろ、あたし……。
歩きづらいズボンに足を取られながらもインターホンに出る。宅配みたい。
「はーい」
『阿山さんのお宅でしょうか』
「はい」
『世界通運です、荷物の受け取りをお願いします』
ドアを開けて荷物を受け取り、サインをすると、宅配の人は「ありがとざしたー」と元気に言って帰っていった。宛先は阿山鏡一朗って明らかに男の名前なのに、本人確認はなかった。
ひょっとして、家族と思われたのかな。
阿山曜子――語呂は悪くはないかなぁ。
送られてきたのはクール便だった。
中身は気になったけど、さすがに勝手に開けるのはまずいので、冷蔵庫に押し込んでおく。でも、送り先の宛名の阿山千都世って……、お母さん? それとも、さっき言ってたお姉さんかな。この時期ってことはバレンタインの贈り物だよね。
どっちにしても、家族と、仲いいんだ。
――そんな風に、あたしは阿山君が、両親の再婚後も良好な家族関係にあるらしいことに、ただ安心していた。
このあと、贈り物の中身を目の当たりにするまでは。
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