第22話 ラブコメは起こらないと言ったな、あれは嘘だ
赤と白のチェック柄のエプロンをつけた百代が台所に立っている。
自分の部屋に女子を招くのは初めてではないが、まだまだ慣れない。というか慣れるときが来るのだろうか。うれしさよりも戸惑いと違和感の方がはるかに強かった。
ただ、今日の百代は僕に用があるわけではない。チョコレート作りの場を提供するという、ある意味では事務的な用件なので、そう考えると気が楽だった。
それにしても、百代のチャレンジ精神には恐れ入る。ブッシュドノエルを手作りしてからまだ2か月と経っていないのに、今度はチョコレートである。料理下手のくせに、どうして高いレベルが要求される戦場にばかり突っ込んでいくのだろう。当人は楽しんでいるのかもしれないが、巻き込まれる側は大変だ。
しかし、新たなる門出と思えば、協力してやらないでもない。
恋に破れた百代が、再起をかけて新たなる弾丸を仕込んでいる。バレンタインデーといううってつけの日に、黒くて甘い弾丸で男子のハートを打ち抜くつもりなのだ。そういうことなら、万全の状態で戦いに臨めるように手伝ってやろうじゃないか。
そこで僕はふと考える。
百代はもう次なる狙いを定めたのだろうか。
直道と付き合っていたときの百代は、ほかの男子に色目を使ったり、興味を引かれているようなそぶりはなかった。いつもあんなに明るいのに、意外と彼氏以外の男子とは接点がない。百代の交遊関係のすべてを知っているわけではないが、相手の顔が見えてこないのはすっきりしない気分だった。
僕の疑問をよそに、百代は順調に作業を進めていた。今は
「一応調べたけど、チョコはかなりデリケートな食材だから、乱暴に扱わないようにね。この前の生クリームみたいに雑に混ぜると、泡が入って食感が妙なことになるらしいから」
声をかけると余裕の返事が返ってくる。
「大丈夫、あたしも勉強してきてるんだから。ゆっくりじっくり丁寧に、レシピどおりにやりますよー」
「温度計は?」
「持ってきてますよー」
百代は調理用のスティック温度計を自慢げに見せびらかす。
「おお、本気みたいだね」
「あたしだって、いつも行き当たりばったりなわけじゃないんだから」
一度と溶かしたチョコが冷えて固まると、表面が白っぽくなったり、まだら模様ができてしまい、あまり見た目がよろしくない。そうなるのを防ぐために、1℃刻みで温度調整をする、テンパリングという作業が必要なのだ。
大ざっぱにはできない繊細さが要求される作業を、百代は意外にもしっかりと進めていた。湯煎も弱火で徐々に加熱して、溶けてきたチョコはゆっくりとヘラでかき混ぜている。手慣れてはいないが、丁寧な作業であった。
「ところで、誰に渡すのそれ」
「残念ながら本命がいなくなっちゃったし、今年はちょっとコンセントを変えてみようと思ってるの」
接触不良かな?
「ああ、コンセプトね。で、その心は?」
「ホワイトデーは3倍返しって言うじゃない」
「言うだけなら
「渡したときは男子も調子いい返事をするんだけどねぇ」
百代はため息をつく。
「3倍になって返ってきた実例はないみたいだね」
「でもみんな高校生になって格好つけたい年頃だろうし、少なくとも1倍ってことはないと思うの」
「多少は色を付けようと思うかもね」
「だからぁ、手作りという付加価値をつけて大量にばらまいたら、いっぱいリターンがあるじゃないかなって」
「計算高い女を目指すんだね」
「ビタースウィート曜子と呼んで」
百代は下手くそなウィンクをする。胡散くさい恋愛アドバイザー、あるいは女性芸人の芸名みたいだ。
「あとは……、フツーに友チョコとか?」
「渡すか渡さないかで、女子の間で、友達とそうでない人のラインが決まってしまうのか。割と恐ろしいね、バレンタインデーって」
「面倒くさがって最初から渡さないって子もいるみたいだけど。ヒメとか」
「あー、いかにも」
「でしょ?」
同意すると、百代が苦笑いを浮かべた。
それから少し、こちらをうかがうような視線を向けてくる。
「だからこそっていうか、ヒメが渡すチョコは絶対本命だ、なんて陰でコソコソ騒いでる男子もいるけど」
その噂は繭墨の耳にも届いていて、んざりした顔をしているのだろうな、というところまで想像できた。ありとあらゆるイベントごとを忌み嫌っている繭墨にとって、この時期のクラスの浮ついた雰囲気は、不快でしかないのかもしれない。
「僕はちょっと、もらいたくないかなぁ」
「え、なんで?」
「3倍返しどころじゃ済みそうにないから」
「っふ、あはは、それ言えてる」
百代は声を出して笑うが、鍋の中のボウルが揺れると慌てて姿勢を正した。
真剣な横顔。
それを見て、僕の中にいらぬ心配が生まれる。
前々からあった気がかりが、はっきりとした形を取った。
「これは、余計なことかもしれないけど……」
「ん、なーに?」
「リターンを期待してチョコをばらまくのはいいけど、手作りでそれをするのは
チョコレートを見つめる百代の横顔がわずかに陰る。
「……どうして?」
「気合入れすぎ、がっついてるみたいで周りが引くから」
「うっ」
「それに、気持ちも分散する」
「え?」
「手作りチョコをもらったって喜んだ男子も、それが自分だけじゃなかったと知ったら、きっとテンション下がると思うよ。特別感が失われる。少なくとも僕だったらそう感じるから」
百代はじっと鍋の中に視線を落としている。
反応がないが、僕は続けた。
「せっかく頑張って作ってるんだから、手作りは一人だけ――とまでは言わないけど、身近な人だけに限っておいた方がいいんじゃないかな。……と、思います」
僕がしゃべり終えても、百代の視線はチョコに向いたままだ。
黒い水面でぽこりと泡が立つ音が聞こえた気がした。
「ねっ、それって――」
彼女が持っていたヘラが鍋の取っ手に当たった。
鍋が大きくかたむき、ボウルもゆれて、そろってコンロから外れる。
段差でボウルが跳ねてひっくり返り、百代の足元に落下した。
「ぎゃあっ!?」
大声を上げる百代。
ボウルが床で大きく跳ねて、中身の液状チョコが百代の服やズボンにかかった。
「わっ、あ、ああ……」
落胆の声はすぐにまた悲鳴に代わる。
「――って熱っ、チョコ熱っ! 水どこ!?」
慌てる百代の手を取って、僕は浴室へ向かった。
液体が服にかかっての火傷は、液体の量にもよるが対処を誤ると重症化しやすい。早めに冷やさないと大変なことになる。
「あ、床、汚れちゃう……」
「そんなのいいから!」
浴室に入ると、百代をプラスチックの椅子に座らせる。
「足、出して」
「う、うん」
「冷たいけど我慢して」
「ん……、ひゃっ!」
チョコがかかった部分を狙ってシャワーで水をかけると、百代の冷たがる声が浴室に反響した。
右足のひざ下、すねのあたりはかなりチョコに染まっていた。流れる水が茶色くなる。あとは、靴下の上、足の甲に少しかかっているくらいだろうか。
「ほかに熱いところはない?」
「うん、大丈夫だと思う……」
それきり、お互い黙り込む。
腰かけた百代。
ひざまずく僕。
目の前には百代の足。
ズボンをはいているものの、水に濡れてどこか艶めかしい。
浴室にはシャワーの水音だけが響いている。
密室での沈黙に耐え切れなくなって、僕は百代にシャワーを手渡した。
「熱いところに水をかけ続けて。服の上から」
「う、うん……」
「火傷のところは絶対に脱がないで、重症だと、皮膚が服に張り付くこともあるらしいから」
「えっ!? ……うん」
「じゃ、ちょっと片づけてくるから」
濡れてしまっていた靴下を履き替え、コンロ周辺の様子を確認して、床の汚れを拭きとっていく。
その間、ずっと浴室からシャワーの音がし続けていて。
いつも口数の多い百代の声は、ひと言も聞こえてこなかった。
拭き掃除をしながら、僕はいつかのやり取りを思い出してしまう。
『つまりラブコメは起こらないと』
『だってラブがないでしょ』
あのときの百代があまりにもあっさりしていたから、僕も変に意識しないようにと務めていた。
だが、さすがに、今日のこれは。
僕のような奥手な男子は、ラブがあろうとなかろうと、こういう状況で落ち着いてはいられないのだ。
――ラブコメは起こらないと言ったな、あれは嘘だ。
頭の奥で、渋いおっさんの声が聞こえた。
シャワーの水音は続いている。
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