第15話 ラブコメは起こらない

 冷蔵庫であのケーキもどきを寝かしている間、僕たちは後片付けに取りかかった。やはりお菓子作りで厄介なのは、調理ではなく準備と片づけである。


 お菓子を作るには専用の道具が必要だし、そのサイズも大きくなりがちだ。材料も多種多様、しかも一気に使い切ることができないので、冷蔵庫の中もゴチャゴチャとしてしまう。台所にはクリームやらスポンジのカスやらがあちこちに飛び散っている。昨日、気合を入れて台所周りの油汚れを除去した苦労が水の泡だ。


 道具や食器類をまとめて流しに突っ込み、水洗いに入る。

 流しっぱなしの水音と、ガチャガチャという食器の当たる音。


「ん」

「はい」


 食器の受け渡しをする短いやり取り。


 僕は食器の油汚れを熱湯で軽く流してから、洗剤をつけたスポンジでこすり洗いをしていく。百代は泡のついた食器の泡を洗い流し、タオルで拭いてから、食器受けに立てていく。


 僕が洗ったものを、百代が水で流してタオルで拭くという共同作業。

 台所で男子と女子が横並びっていうシチュエーションは、なんかこう……、とてもそわそわしてしまう。しまわない?


 気を紛らわすために、僕は百代に声をかける。


「大丈夫なの、この状況。彼氏がいるのに他の男の部屋に来てるとか。誤解されるんじゃないの?」


 百代は首をかしげ、にかっ、と笑う。


「別に大丈夫でしょ。仮に誤解されたとしても、間違いが起こることはないんだし」

「断言しますか……」


 間違いが起こることはない。つまり、僕が百代に手を出すことはない、と思われているようだ。草食系の自覚はあったが、百代の目にも、僕は草しか食わないやつと映っているのか。


「あ、別に阿山君がヘタレだからとか、そんな風に思ってるわけじゃないからね?」

「そう?」

「うん、ちょっとだけだから」

「気を遣わなくてもいいんだよ」

「断言しちゃえるのはね、他にも理由があるの」

「僕の人間性への信用?」

「阿山君ってヒメのこと好きでしょ」


 洗っていた計量カップがすべって落ちて、ガコンと音を立てる。


「おっと」

「動揺してますなぁ」

「僕が繭墨さんのことを好きだから、百代さんには手を出さないと、そう言いたいわけ?」

「そゆこと」

「男っていうのは、別に好きじゃない相手にも手を出せてしまうものなんだよ」

「阿山君がオトコについて語っちゃうんだ」


 百代はケラケラと笑うだけで、全く動じていない。脅かしてやろうという試みは不発に終わってしまった。ヘタレの草食系という印象は、そう簡単にはぬぐえないらしい。


 ここはもう少し男子のプライドを見せておいた方がいいのだろうか。壁際まで追い詰めて、低い声で挑発的に愛を囁けば、多少は反撃ができるのだろうか。自分がそれをやっているシーンを思い浮かべてみたが、上手にイメージできなかった。


「……いちおう言っとくけど、僕は別に繭墨さんのことは好きじゃないから」

「えー、ウソぉ。むちゃくちゃ意識してるじゃんヒメのこと」


 繭墨のことを意識していると言われても、こちらにはその自覚がない。異性として意識している度合いなら、むしろ百代の方が高いくらいだと、自分では思っていた。


「そうかな。よくわからないけど」

「だって、ろくに目を合わそうとしないし、話をするだけでもいちいち緊張してるし。いい格好しようとしてるんじゃないの?」

「……僕が?」

「自覚なかったんだ」


 格好をつけていたつもりは、ないと言い切れる。

 だけど、緊張は確かにしていたと思う。


 異性として意識しているからではなく、敵として警戒するがゆえの緊張感。

 緊張は、繭墨に対する基本姿勢だ。


「それに比べてあたし相手だと、今日みたいに2人きりっていう状況でも、完全に友達感覚でしょ。女子として見てない感じ」

「え……、そう?」


 その指摘は的外れだ。心外だとさえ思う。

 百代のことは、僕ははっきり女の子として見ている。僕の交友関係の中ではトップクラスの女子らしさを持つ、女子の中の女子という扱いだ。それで恋愛対象になるかというと、また別の問題だが。


「だから阿山君はあたしに手を出したりしないの」

「信用されてる、ってことにしておくよ」


 百代の表情や仕草、立ち姿などを横目で見てみる。

 彼女の方こそまったくの自然体、僕のことを男子として見ていない。

 挑発されているわけではないらしい。……ないよね?


「たとえばあたしが生クリームをひっくり返して、服がベタベタなるとするでしょ」


 百代が自分の胸元に手を当てながら、そんなことを言い出した。

 ――ドジっ娘にまで手を染めるつもりか?

 僕の戦慄をよそに、百代は続ける。


「そしたらシャワーを借りるじゃない」


 ――お色気シーンまで。


「でも着替えがないから阿山君の服を借りて、サイズが合わなくてぶかぶかだったりして」


 ――彼シャツによるフェティシズム……、だと……!


「そんなことになっても、間違いなんて起きないと思ってるから」

「つまりラブコメは起こらないと」

「だってラブがないでしょ」


 これはもしかして……。

 僕は改めて、百代の本心を想像する。

 これは、誘惑でも挑発でも信用でもなくて、……もしかしてけん制だろうか。

 信じているから、おかしな真似はしないで――という線引き。


 会話が途切れる。

 とっくに洗い物は終わっていた。


「……そうだ、ケーキ」


 沈黙から逃れるように、僕は冷蔵庫からケーキを取り出した。

 ホットケーキくらいの厚みしかなく、表面のチョコクリームものっぺりとしていて、あまり食欲をそそられる見た目ではない。


「ん、マズくはなさそう」


 百代が安心した声でうなずいている。

 ……そうかな? という疑問は口に出さない。


 ケーキをひと口サイズに切り分け、皿に乗せてからテーブルへ持っていく。

 緊張しつつ顔を見合わせ、いざ試食タイムである。


「それじゃあ……」


 僕たちは恐る恐るの手つきで、チョコケーキを口に運ぶ。

 口に入れたとたんに広がったのは、甘みではなく苦みだった。

 百代が顔をしかめる。


「にっがぁ……」

「ある程度、想像はしてたけど……」


 これは百代の失策だ。

 直路がチョコはビターが好みだということで、チョコクリームを作るときに溶かすチョコに、カカオ95%を謳った濃厚なものを使ったのだ。おかげで材料費が高騰していた。


 スポンジ生地にも問題があった。ふわふわ感がまるでなく、パッサパサの出来栄えだった。口の中の水分を容赦なく奪っていく、砂漠のごとき食感。


「生地の方も深刻だね。焦がしたところだけじゃなくて、全体的にパサパサって……」


 どうしてこんなことになったのかと理由を考えて、すぐに行き当たったのは、


「百代さん、これ、オーブンから出して冷やすとき、ちゃんとラップかけた?」


 尋ねると、百代はきょとんとしてから、


「……あっ、そういえば、わ、忘れてたYO!」


 ラッパーよろしくフレミング左手の法則の出来損ないみたいな指の形を作った。


「理由がわかったんだから明日は気をつけよう」

「真顔で流すとかあんまりじゃないの?」


 百代は顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏した。


 僕は一応、自分の担当ぶんだけは我慢して食べ終えた。無理やり口に押し込んでから、ジュースで流し込んだ。苦くてパサパサで、ほめるべきところがまったくないビタースイーツ。

 ブッシュ・ド・ノエル(クリスマスの薪)ではなく、

 アッシュ・ド・ノーウェルNoWell(不出来な灰)とでも名付た方がいいのではないか。

 聖なる夜に嘆きの晩餐を、みたいな。


 失敗は成功の元と言うし、その原因もはっきりしているので、きっと同じミスはしないだろう。そういう意味では百代もいい経験になったはず。明日は大丈夫だ。


「このケーキらしき物体は持って帰ってよ」


 タッパーを差し出すと、百代はガバッと顔を上げた。

 こちらを恨みがましく睨みながら、切り分けたケーキをタッパーに入れていく。


「残さず食べきるよ、弟が」

「食べ物は大切にしないとね」


 百代はタッパーをつかんで立ち上がると、


「それじゃ、今日はありがと」

「明日はまともなケーキができるといいね」

「ふんだ、阿山君のチョイS、内弁慶! また明日ね」


 などと、奇妙な捨て台詞を残して去っていった。

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