メモ9
胆鼠海静
臨界
本当にどろんという音がするとは思わなかった。始めに気になったのは、衛生面のことだ。よくその獣の反対項として話題に上る狐は、エキノコックスの中間宿主であると聞く。寄生虫であるエキノコックスは、人体に入ると肝臓の当たりで繁殖して肝硬変の原因になるということをどこかで読んだ。
「そのケースに関してはご心配なく。あなたたちが野生といっている派閥の間だけで問題となることです」
さっきまで冷蔵庫だった黒と焦げ茶の獣は、そう答えながら、火曜日に出し忘れたゴミ袋の中を漁っている。
「ところで、なんで、今解けたんだ」
「前からよく耳に挟むのですが『解けた』という言い方は、あまり肌に合いません。その言い方は、変化前の物事に重点を置くようなニュアンスを含んでいます。野生派のように、その言葉遣いに賛同する派閥も存在しますが、飽くまで少数派です。確かに私たちは、受精卵から分娩までは哺乳類の形態を取っていますが、それから先は、葉を利用して物体として過ごす者が大半です。一生のうちに過ごす時間の割合を考えて、むしろ物体としてある部分の方を私たちの本質として捉えていただきたいのですが」
言い返そうとしたのを察したのか、シャッ、と鳴きながら、毛を逆立て、勢いよくこちらを振り向いてきた。その仕草が無駄に板についていることを指摘したかったが、それを押し留めて、
「で、なんで変わったんだ」
「葉っぱをください」
飾ってあったウンベラータの葉をちぎってやった。獣が、片方の前肢を葉で器用に包むと、透明のワイヤーのような素材で造られた幾何学的な構造物が、足首に癒着した形で出現した。
「それは」
「私の生まれる五十年ほど前に導入されたシステムです。端末を介することによってクラウドに保存された記録を辿り、私たち種族の現況を知ることができます」
構造物は、かざぐるまのように軽く回転することで駆動し、それに合わせて、複数のウィンドウが、獣の手元に浮かび上がった。
「私が生まれた時代よりも二酸化炭素濃度が上昇していますね」
「それと変身になにか関係があるのか」
獣が正座して流暢に喋っているのを見るのは、ちょうどあの信楽焼の像を見るような、滑稽な印象を与える。さらに滑稽さが増さないかとなんとなく思ったので、さっきまで沸かしていた茶を入れた湯呑みを手渡しながら、聞いた。
「私たちの体自体に物になる能力はありません。ウィルスの増殖方法をイメージしていただけると分かりやすいかもしれませんが、植物の葉の内部に存在する特有の構造を操作する形で、私たちは能力を獲得しています。種族の現況を知ることはその生活の基盤となる植物の現況を知ることです」
手渡した湯呑みをすすりつつ、植物とこの獣の関係について、講義を始める。最初の内は、興味深かったが、叙述が長くなるにつれて、話題は逸れ、段々と興が覚めてくる。見た目が変わっていても、その他の部分があまりに人間然としていると、その人間然とした部分が他の奇怪な部分を侵犯して、やがて全体がなんの変哲もなくなってしまう。そういうことが起こったので、後半の部分はほとんど耳に入らなかった。
「この数式によれば、現在人類が生活圏に流通させている物品の九十パーセントは、私たちで補われていることになります」
そう言ったのと同時に、取り落とされた湯呑みが音を立てて割れた。
「ごめん、今、なんて」
獣はそれを無視し、ウィンドウを増やして、今さっき見た情報の検証にかかっていた。やがて、数分間の沈黙が降りた。
「いくつかのフォーラムを回ってみた所、二酸化炭素の分解が、活性化構造の本来の働きを阻害する過程であることが最近判明したそうです」
獣は震える声で沈黙を破った。
不意に、床を、静かだが確かに感じ取れる揺れが走った。
「植物の分解する二酸化炭素が微量にとどまっていた頃は、活性構造への阻害は微々たるものでした。しかし、二酸化炭素濃度の上昇、植物の個体数の減少によって植物一個体当たりの二酸化炭素分解が盛んになってくると」
揺れが大きくなる。
足の痺れにも構わず立ち上がって、窓辺に向かい、カーテンを引いた。
向かいの通りに並んでいた建物が、黒と焦げ茶の群れになって倒壊していく。
メモ9 胆鼠海静 @nikyu-nikyu
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