「私は才能が無いから」はこれから正しいでしょうか?

ナツメロダン

第1話

 憂鬱なのは日曜日の午後9時過ぎ。


 Otttava radioを聴きながら

 エッセイもどきを書いてます。


 明日が仕事だと認識してしまうのが憂鬱だな思う一番の原因かも知れないのですが、

 そう考えると、

 何故これほど嫌だなと思うことを人生でしているのかと思います。


 本当に何故でしょう?


 うーん、考えると

 それは

 社会に本当の自分が「好き」だと望む仕事がなく

 又は自分自身の本当の「好き」に気付いていないことなのかも知れません。


 少し結論じみたことをいうと社会で

『価値』として評価を受けるためには

「好き」なことではなく、自分の「得意」なことをなすしか無いのかなと考えます。


「好き」が「得意」なかたで、それが仕事の方は全然いいですが、

 そんな方は一体どれくらい居るでしょう?


「私は才能がないから」

 こうした発言は極めて、

 これからの人間本位の価値資本市場では厳しいかも知れません。


 こうした言葉の裏にはある意味が隠れています。


 それは自分が本来望むべき自分自身の予定評価像の「好き」な自分に絶望し、

 自分が社会に対して為すべき人間本位の価値にnoと言ってしまって

 本来の自分の才能である「得意」を用いないことを社会全体に宣言しているように思うからです。


(あ、あくまで個人的意見ですからね)


 話を続けます。


 これから社会の

 経済活動は「得意」で動く方が社会的「価値」を高め、

 これらの集約がやがて社会に大きな「幸福」産むのだろうなと想像し、考えます。


 それは

 こうした小説websiteで活躍されているインフルエンサーのかたには良く分かることかも知れません。


「好き」は

 何故ならいつか破滅を招くリスクが高く、

 実はその「好き」にかける人間持ち時間は以外に少ないです。


 これからは

 トイレの掃除が得意な人

 整理整頓が得意な人

 小説を書くよ論評が得意な人

 芸術家よりビジネスが得意な人

 そんな色んななどなどの「得意」が職業的魅力の水平さを作り出し、

 やがて互いの「尊敬」をうければいいのかもしれません。


 が、しかし

『だからそれがわかんないから「好き」で生きたいんだよ!』

 ですよね。


 僕もそう思います。

 だから頑張って欲しいという思いなのですが。


 さて

 そうした「価値」本位が新しい思想を産めば、面白く無いでしょうか?


 もしそれらが「通貨」になれば、

 給料も無くなり、また流通貨幣としての銀行は無くなり、

 人間本位主義の得意で溢れた「銀行」できるかもしれないのかな。


 貨幣以外の交換価値ができるといいのだけどね。


 で、

 最後にそんなことを考えるのが「好き」なのであれば、エッセイ結論としては

 僕は破滅するということなるのだと

 改めて気づかされた時間だったというのが結論でした。



 @ナツメロダン

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