第29話 死線➄
トーリは八階層を走りながら周囲を見渡す。一度目の地鳴りの後、辺りは静かまり返っていた。九階層といえば、本来なら
(一人もいないな。
それが今は誰とも会う気配が無かった。明らかに異常事態だ。
八階層の狭小部には所々爪で引っ掻いたような跡と、洞窟壁が剥落した箇所がある。以前、斥候で十四階層に上がった時と同じ傷だ。
「
その先は七階層だ。『大聖堂』は初心者の関門と呼ばれる階層で、ある程度実力に自信がついてきた冒険者たちがまず目標にする箇所だ。当然、冒険者も多く出入りししている。そしてその『大聖堂』は洞窟内とは思えないほどに非常に広大な空間だ。
(
あの巨体が暴れまわる最悪の想像が頭を過ぎる。想像の中で犠牲になっているのは、トーリがかつていた孤児院に所属している子供たちだ。その可能性は低い。ただ、一度思い浮かんだ想像はなかなか頭から離れない。
(確か【
トーリが冒険者としての稼ぎの一部を渡しに行った時、孤児院長が教えてくれた。何かあったら助けてやって欲しいと。孤児から冒険者として市民権を得ているトーリに大層憧れているらしい。随分と理想化された状態で目標にされているそうだ。トーリは自嘲気味に笑う。
(本当の俺がこんなだと、がっかりするかな……。確か女の子二人と男の子一人だったはずだけど)
まさか理想の相手が[
そこまで考えてふとヒナタの事が頭を過ぎる。
(ヒナタも。きっと色んな物を失い続けていたんだろうな)
当時のトーリはヒナタに憧れしかなかったが、きっとヒナタ自身では葛藤があったのだろう。だからこそ自分の命を天秤に掛けるようなそんな行いをしていたんだと思う。そうしなければ自分を自分として許容できなかったのだ。今ならその気持ちが分かる様な気がした。
そこまで考えてトーリは思う。
(俺にもあるんだろうか――)
自分を自分として許容できるもの。それは何だろうかと考える。正直、そんなに命は惜しくない。もちろんその場その場で最大限の安全マージンは確保していくが、もし抜き差しならない状況になって、それを切り抜ける対価に命を求められたらあっさりと認めてしまいそうだ。
(切り抜ける対価……か。まあ、俺一人の状態で命を対価に求められても意味は無いな)
それは自分の命を対価に仲間を守る時に適応される条件だ。そんな状況になった事の無いトーリは苦みを込めて口の端を釣り上げる。何しろ今までずっと独りだ。後ろを魔術で強化した状態でついてきているジュリが怪訝な顔をするのが分かった。客観的に見て感情のコントロールが随分と怪しい感じに見えるのだろう。
(守る……。守るか……)
仲間を守る、と自分の思考で生まれた言葉がトーリの中で大きくなる。トーリに仲間はいない。ジュリは主従関係で、かつ[
そうなればまた独りだ。自分の暴走によって死ぬ可能性のある仲間と組むつもりはトーリは無い。
また
(――そうか。俺は)
ずっと走っての移動だったので、短時間で随分と距離を稼げた。もう七階層は目と鼻の先だ。トーリは速力を落とすとジュリと並行するように走る。
「……なんじゃ」
「ジュリ。俺、七階層にいる冒険者を助けに行く」
「……理由を述べよ」
ほう、と眉を跳ね上げたジュリが冷たい目線をトーリに向ける。それが自分に興味を失った目に見えて、一瞬言葉を飲む。しかし、その視線に負けるわけにはいかない。トーリはジュリの冷たい視線に耐えながら、言葉を選ぶ。
「助けたい――単純に助けたいんだ。出発する時に言っただろ。浅層階には初級の冒険者が沢山いるんだ。その中には孤児院出身の子供もいるかもしれない」
「いるかもしれないし、いないかもしれぬ。そんな不確かな状況に命を懸けるだけの価値はあるのかの?」
ジュリの質問はもっともだ。居るか居ないかもわからないところに飛び込んで行きたいと思っている自分は、馬鹿だと単純に思う。しかし、トーリの心は行きたいと望んでいるのだ。ここで行かずに自分の命を優先してしまったら、自分にとっての芯を失うような気がする。
「ジュリにとっては……無いな。完全に俺の我儘だ。それに対する利益も見返りも期待できない。ただ助けに行きたいという理由で、行きたいんだ」
ジュリはふむ、と顎に手を当てて思案する。
「相変わらず合理的ではないの。じゃがこれだけ二人きりで共に過ごすと、思考回路も読めてくるというものよ。じゃからこの状況も何となく予測しておった。我の優秀さに感謝し、咽び泣けばよかろう。して、我はどのように助ければよいかの?」
ジュリの返答は予想外に柔らかかった。十六階層の離島から出発するときはあれだけ反対を受けたので、ここで喧嘩別れになる可能性も覚悟していたのだ。協力してくれる気持ちは素直に嬉しいと感じた。しかしこれ以上は、ジュリにとってマイナスにしかならないだろう。なんの利益も無い自分の我儘に巻き込むわけにはいかない。
「いやジュリ。ここで別れよう。これ以上俺と一緒にいてもメリットが――」
トーリは最後までジュリに言葉を伝えることが出来なかった。ジュリの背後から突然、金属製の棒がトーリの頭部を目がけて突き出して来たのだ。刺突用というほど鋭い先端では無いが、この速度で射出されれば普通に致命傷を負う。トーリは急静止して棒を避ける。全力の回避の甲斐があって、鼻先を金属製の棒が掠めて行った。
「――ぁあ?」
ジュリから極低温の声が漏れた。冷や汗をかきながらトーリはジュリを見る。金属製の棒はやはりジュリの背後から飛び出していた。空間が歪んで渦の様に巻きこまれた所から棒が付き出しているように見える。よく見れば長杖の石突の部分だと分かった。まだ杖頭は空間が歪んだ渦の先にあるのか見通せない。
ジュリは下に俯き気味でその表情は見えない。だが激怒していることは分かった。
トーリはごくりと唾を飲む。
***
そこからの行軍はまさに地獄だった。
爆発によって一時的に
「レナ! 右側が厚くなってきている! 移動してチヒロを守れ!」
傷だらけになりながら吉岡が、血路を切り開いていく。実力としては
「アツコはフォローに回れ。僕が正面は一〇秒抑える! 行け!」
そう言葉を残すと吉岡は
吉岡が作った空間に、チヒロが魔術を叩き込んでいく。
「
水で出来上がった蛇が、吉岡が食い荒らした
「ハァ……! ハァ……!」
「大丈夫!?」
飛んできた矢を盾で受け止め、チヒロに声掛けする。大きく息を切らして汗塗れになっているチヒロは、レナを見るとニコリとほほ笑む。しかしその顔には精細は無い。
(駄目だ……。チヒロは明らかに限界を超えてる……)
もう既に魔術を一〇発では利かない程打ち込み続けている。途中から魔術を簡易的なものに切り替えて、魔力量の消費を抑えているようだがそれにしたって限界だ。いつ魔力切れを起こして気絶してもおかしくない。吉岡から預かった
「チヒロは少し休んで!」
チヒロの魔術が掠っただけだったのか致命傷に至らなかった
「やらせない!」
レナはチヒロと
渾身の
勢いよくぶち当たった盾は
「その、調子だよ……! チヒロを
美濃部は言い残すと休む暇もなく前線に突っ込んでいく。疲労度は吉岡の比では無い。全身からじくじくと血が止まっていない切り傷があり、
「もうすぐだ! もうすぐ『大聖堂』に抜けるぞ! 気を抜くな!」
六階層の比較的細い通路の終点が見えた。その先は大きな空間が広がっているはずだ。今まで通ったルートだと抜けるのは『大聖堂』の中腹辺りのはずだ。そこから深層方向である『祭壇』に背を向けて、入口方向に向かって突っ切る予定だ。
遮蔽物が無い中で四方から敵に囲まれる事になる。今の消耗度から考えてはっきり言って無謀な作戦だ。死ぬ確率の方が高い気もする。敵も逃がす気が無いのは分かっている。しかしこれ以外の道が無いのだ。
(でも……! 負けられない! チヒロを守るんだ! 生き残るんだ!)
例えどんなに細い糸だろうと、渡り切って見せる。その決意がレナの脚を前に進めていた。予想された
「突っ込めェええ!」
吉岡が渾身の一撃で二桁に届こうかという
そしてついに、レナ達は七階層に到達した。そしてその景色を見て愕然と呟いた。
「………………うそ」
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